| 잡지명 | 삼천리 제13권 제11호 |
|---|---|
| 발행일 | 1941년 11월 01일 |
| 기사제목 | 臨戰愛國者群像(次回完) |
| 기사형태 | 논설 |
臨戰愛國者群像(次回完)
最近「福岡日々新聞」に連載され非常なる熱讀を博せし「臨戰愛國指導者の顔振れ」記事をこゝに再錄し一讀をお勸めする。盖し該紙を見落せし人士のためなり。
○報國團最高指導者……尹東致昊
○愛國運動の立役者……崔麟
○內鮮一體の推進力……高元勳
○知識人の自己革新……矢鍋永三郞
○臨戰·報國·團結 ………李光洙
○朝鮮人の進むべき道…申興雨
○新しい朝鮮の希望……李鍾麟
○文化の指導者…………辛島驍
○學生の奮起を要望……尾高朝雄
○敎育は明日の政治……增田道義
○戰時と朝鮮民衆………辛泰嶽
○婦女子の世界…………朴仁德
○半島靑年奮起…………李晟煥
○半島女性の蹶起………金活蘭
○皇道を說く……………津田榮
○義勇奉公………………曺秉相
○婦人愛國運動…………洪承嫄
○熱の人…………………金東煥<85>
臨戰愛國者群像…(一) 臨戰報國團の最高指導者
尹致昊翁の橫顔
時局がこれで收まればそれでよかつた、ところがどうだ、騷ぐ太平洋の波はます〱高まりつゝあり、いつ急轉するかちつとも豫想がつかないぢやないか、今こそ半島二千四百萬民衆が毅然と起ち上り以地同胞と一致團結し、搖ぎなき高度國防國家建設と大東亞共榮圈確立の一役を擔ふ秋は逐に來た。
◇
全半島の愛國心が凝つて熱血の群像となつた『臨戰報國團』最高指導者伊東致昊翁は京城府堅志町自宅の書齋でロイド眼鏡をかけたあの人なつツこい童顔を緊張させて、半島民衆の奮起を促す言葉を語るのである。
伊東翁は京城新村に文閥を誇る武人の家に生れた。一八八一年日本の維新に驚嘆した韓國政府は内政の革新を目指して趙準永、朴定陽、魚允中など十二名を內地視察に派遣したが、當時この十二名の視察員はそれ〲二名宛の聰明な秀才少年を隨員して從へて東上することになり、十七歲の『紅顔の少年伊東』は魚允中の隨員の一人として東上した。半年後一行は歸鮮したが魚の隨員であつた兪吉濬と伊東の二人の少年はそのまゝ東京に殘り、兪は慶應義塾に、翁は中村正直の同人社に學び一年間みつちり日本語を勉强して歸つた。燃ゆる向學心と東京と京都の開化程度の懸隔は翁をその儘京城に止めなかつた、江華で韓米條約が初て結ばれるあの歷史的な年に再び東上、朱來の外交官を夢見つゝ金玉均の紹介で東京で東京駐在和蘭公使館に出入し、同公使館員並に佛國人建築家サルター氏などに師事して英語勉强に淚ぐましい努力をつゞけた、初代の駐韓米國公使ブル將軍が■濱に着いたとき、超スピートで習つた英語をしやべり、ブル將軍と井上馨を會見させたのも翁の功であつた。以來まる二年間米國公使館に通譯として働いたが、甲申敢變のとき上海に亡命、南監理敎會經營の『中西學院』に入り、四年間後愈々憧れの米國に遊學した。米國ではバントビルド大學神學部に學び組織神學と聖詩文學の權威チネツオン神學部長の寵をうけた。明快な理論と熱情の快辯は忽ち學内の人氣者となり各地辯論大會などにも出席新東洋と朝鮮事情の紹介に敢鬪した。五年後更に上海に戾り、母校中西學院の敎授となつたが、一八九五年歸國、官界に入り議政府參議、内閣秘書官を經て學務部協辦學部大臣署理(今の文部次官)となり目まぐるしい活躍をなし、ロシア皇帝ニコライ二世戴冠<86>式には勅使閔泳煥の隨員としてモスクワに派遣された。一行とともに歸國の途中、翁は『政界に活躍するには歐洲の政情を硏究しなければならぬ、それにはフランス語が必要だ』と渡佛、一年間語學を專攻、歸國後は中樞院副議長獨立新聞社長、萬民共同會の、指導者として活躍する一方、『韓英學院』、『大成學院』、『源與學校』その他の敎育機關を創設した。一九一一年『百五人事件』に連坐したがその後民族主義の殘滓も完全に淸算、今日では延禧專門校長、セブランス醫專、梨花女專の理事、キリスト敎靑年會長となり新らしい熱と新らしい計劃をもつてあすの皇國を背負つて起つ靑年の鍊成に或は民衆の敎化運動に、なほ衰へざる情熱的な活動をつゞけてゐる。
◇
朝鮮人の運命は、帝國の運命とつながつてをり、分離することは出來ない。朝鮮の興廢は帝國の興廢にかゝつてゐる。新生朝鮮の進むべき道、それは帝國のためにつくす大道ちや。南總督はわれら二千四百萬同胞の父だ。半島の父この南さんが、われらに銃をとれといへば銃をとらう、鍬をとれと言へば鍬をとろう。南さんが敎へた內鮮一體の理念で世界を制覇するのだ。この信念この實踐で行けばABCDラインの對日包圍陣の突破位は問題ぢやないよ
◇
かう臨戰體制確立戰に必要な半島同胞の心搆へを說く、翁の顔は、緊張にふるへる。そして伊東翁は書齋の壁に張りつけた昭和十三年九月五日南總督と會見の際、總督から貰つた『希望せる要綱』
一、半島靑年層の指導に關し『言行一致』の朗なる人格を養成すること
二、東洋人の東洋建設の核心は內鮮一體の完壁にあり
三、內鮮一體の根底は、忠良な皇國臣民たる實質を涵養するにあり
を見上げて明るく笑つた。
臨戰愛國者群像…(二) 愛國運動の立役者
情熱家崔麟氏の橫顔
ABCD對日包圍陣突破のためには、一人の傍觀者も許されない、今こそわれら半島同胞は、内地の兄弟とがつちり腕を組んで起たなくてはならない。一億の總力をあげて來るべきあすの國難突破に邁進しなければならないのだ。これには先づ理窟拔きの實踐が必要だ。そこで私達臨戰報國團員たちは、昨日豆債を抱へて、街頭に繰出したわけさ……僕は鍾路隊に加はり伊東さんや香山君などと一緖に、和信まへで道行く人々<87>に呼びかけたが鍾路隊割當千五百枚が、いつの間にか飛ぶやうに賣り切れたよ……本當に愉快だつた
超非常時に直面して『祖國日本を護れ』と伊東致昊氏などとともに蹶起、半島臨戰體制の强力な再編成に乘り出した新生朝鮮のリーダー佳山麟氏は記者を迎へるや、いきなり語り出した。坊主刈とはいへ、白髮六十を遙かに越えた佳山さんのどこからこの激情の嵐は逆り出るのか、さきに府民館で開かれた臨戰對策演說會席上で
半島同胞の總蹶起を時局は要望してゐる。殊に有産階級の奮起を要請してゐるのではないか、それなのにお金持の人のなかには、銀行に預金すると危いといふ謬想のもとに地下に穴を掘つて現金を埋めておくものさえあるといふが、これでよいか、天皇陛下の赤子であればこそ『祖國日本を守れ!』この歷史の聲が聞えるはずだ。今こそ奮ひ起つてこの恥辱を拭ひ拂ひ、お國のために赤誠を捧げるべきである。
卓を叩き熱淚を呑んで半島人有産階級の奮起を絕叫した佳山さんだ、初秋の陽射しが美しい京城府明倫町二丁目、佳山氏のお住ひは玲瓏に照り輝いてゐる。
佳山さんは北鮮の都咸興に役人の息子として生れた。日露戰役がはじまつた明治三十七年、半島は親日派と親露派の二つの政治的クループに分れ思想的混亂は甚だしかつた。この歷史的轉換期に佳山さんは父の溫かい補導の下に歷史や偉人の傳記を通じて、眞理を探求する二十七の情熱の靑年であつた。そのころ時の統監伊藤公は、或日韓國の皇帝陛下に『これからの世のなかは變ります、今陛下の下には忠臣がないのです。これから人材を育成しなければなりません。朝鮮貴族の子弟、または上層部役人の子弟のなかで、約五十名の秀才を選んで日本政府に指導方を委囑下さればよき敎育を施して將來陛下のために盡す立派な忠臣に育てあげませう』と申上げた。陛下は大喜びで、直ちに當時の學部大臣(今の文部大臣)李載克氏に勅命を下され高等官以上の役人の子弟八百名のうち、考査を行つて五十名を嚴選、內地に派遣した。明日の半島を背負つて起つベきこの五十名の靑年は、東京府立第一中學に入學が許されたが、佳山さんはそのうちの一人として同校速成科一年を修業して、明治大學法科に進み、明治四十二年の春同校を卒業歸鮮した。歸鮮後當時の憲兵司令官明石元二郎氏に認められ『役人になれ』と勸められたこともあるが『これからの朝鮮問題は先づ敎育から!』との信念から敎育界に入り、京城普成中學や普成專門で敎鞭をとり、前後十年間半島の將來を擔ふ靑年鍊成に若き血潮を捧げたのである。その後大正八年の搔擾事件に連坐し、三個年間監獄生活を送り『新幹會』など政治團體の誘惑もあつたが、頑として一擲し、『世界の動きを知らなければならない』と大正十五年から昭和三年春まで滿二ケ年間に亘つて歐羅巴を視察し<88>た。歸朝後、天道敎の主宰者『道領』となり、布敎に活躍中同八年に至り、幾分か殘存してゐた民族主義的イデオロギーをすつかり淸算し、五十萬敎徒の手を引いて、皇國臣民化運動への飛躍を誓し、その後中樞院參議を經て、昭和十二年每日新報社長となつたが、今春辭任し更に中樞院參議に復活、專ら愛國運動の指導者として情熱的な活躍をつゞけてゐる。
臨戰對策運動の見透しは…
「今度の愛國運動に對する一般民衆の傾向は非常によい、しかも問題となるのは第一にインテリ層である。彼等の頭のどこかにはまだ自由主義的イデオロギーが殘つてゐるかち困つたものだ。これからの世界は果してどうなるか?と懷疑のなかに迷つてゐる。それから金持ちの人達も儲ける一點張りの個人主義思想で一杯だ。これもいけない、それに時局に便乘して功利的な働きをしようとする便乘屋もゐないとは限らない……
白い木綿の朝鮮着物に身を包んだ崔さんは靜かに紅茶を唇元に運びながら非常に熱心に語る。時局便乘の名士はないとも限らないのではなく、實際に居るでせうね……と突込むと佳山さんはハツハツハハ……と和やかに哄笑してまた語りつゞけた。
こんな大きな運動が起るときは何時の世でも多少の便乘組や不純分子が混入することは免れない。然かしいまはそんな小事に拘泥してゐる秋でない。派閥關係なとで爭つてゐる秋ではない。二千四百萬半島民衆が大同團結、眞に一體となつて邁進すべき秋だ。旣に火蓋を切つた以上われ〱も頑張るよ。そして搖ぎなき大東亞共榮圈建設の一役を擔つて最後まで頑張るぞ…佳山さひはかう命のつゞく限り民衆のリーダーとして血みどろな鬪爭をつゞけ祖國日本の護りを固めたいと熱烈に語り終へた。
『私』といふ觀念を離れて『我々』といふ新しい時代を造り出す積りで國の爲に喜んで協力する人とならねばならぬ。
斯くして聊かなりとも國力に强め東亞に生きた範疇を垂らすべき秋である。事變勃發以來現はれた朝鮮人の愛國の至誠は各方面各樣の形に於て流露されつゝあるのであるが時局の推移に伴ひ、顧みて未た足らざる多きを自他共に認むるであらう。
運動の心核、內容、精神に照らし民衆自ら湧き出づる愛國の至誠を捧ぐる所の自主的國民精神に發して國民精神に極るべき所に一般指導の猛省すベき點があることと思ふ。
官邊の指導と相俟つて、眞に肚の底から流露する熱血、情愛を以て大衆を、靑少年を導き、彼等一切の活動―職業も、勞力も、學術も、倫理も―一切を、國防を規準として協力し、率先し、奉する信念を導き出すことに一段の努力を要する。
指導者自らの力から湧き出づる施設、傳導、行脚に依つて、大衆の動きは自律的、良心的、道德的となり、その結果は國防の一助たる皇民たり得るものであることを信ずるものである。<89>
臨戰愛國者群像…(三) 內鮮一體の推進力
朝鮮總聯常務理事 高元勳氏
『一億國民が國力をあげて大東亞共榮圈の建設に邁進しなければならない。これは判り切つた戰時下國民の常議だ』內地同胞は、銃をかついで戰地に命を捧げる、お國の爲に『血稅』を納めてゐるのではないか。それだのに朝鮮人は兵役義務がない爲第一線に生命を捧げる名譽を擔ふことが出來ない。そこで戰死に次ぐ奉公を捧げなければなちない。どんな苦難とも敢鬪し、銃後奉公の實をあげなければならないのだ。ところがどうだ、朝鮮同胞は事變以來應分の銃後の務をなしたといふものゝその實われ〱の目から見るとまだまだ足りない。第一國債消化、愛國貯蓄の如きも赤誠が足りない。內地人と朝鮮人間には富力において差があり、數字に差があるのは無理ないが、あまりにもその差がヒド過ぎるよ。例へば出征軍人の慰問廢品回收などの愛國的行事でも、心から能動的に協力するのではなく、他人もやるから自分も仕方なくやると引きづられてやつてゐる。全く消極的だ。これでは本當の皇國臣民とは言へない。
◇
キビ〱した江戶ツ子口調で半島人の愛國的實踐行動の消極性を說く、この外交官タイプの紳士は、伊東致昊、佳山麟さんなどとともに、半島臨戰報國運動の陣頭に起ち上つた國民總力朝鮮聯盟常務理事高元勳氏である。
◇
仁旺山の麓に、超モダンを誇る小ぢんまりした文化住宅高さんのお住ひは落ついた高さんにふさはしい靜けさにつゝまれてゐる。府內だとはいへ、この郊外に近い新橋町のお住ひは、巷の騷音から遊離して、透徹した臨戰體制强化のプランを構造するには、全くもつてこいのところである。
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高氏は、慶尙北道聞慶郡山陽面といふ片田舍に、儒者の長男として生れた。明治四十二年明治大學法科を卒業、京城普成專門敎授となり、次代を擔つて起つべき靑年の訓育につとめたが、大正八年の秋には、同校長に界進ぐん〱と地位を築き上げた。當時私立學校共通の惱みとなつてゐた經營困難と卒業生の就職難緩和の一石二鳥案を狙つて、普專をして半島初めての財團法人四十三萬圓の完成に凱歌をあげ、專門學校令による有資格『專門學校』に昇格させたのも、高さんの敏腕と活躍とによるものであつた。大正九年齋藤總督時代に半島敎育制度の基礎を劃した朝鮮敎育令が制定されるや之が審議のため設置された敎育調査委員<90>會に高氏は民間側私立學校を代表して半島人唯一の委員として參劃の榮譽をかち得たこの委員會における卓見によつて齋藤總督にその人材を高く認められ『敎育事業も國家事業だけれども、直接國の仕事をやつて見てはどうか』と懇望され、同十三年暮敎育界から官界に百八十度の轉向を斷行全羅參與官を振出した慶北平南、京畿、平北など、各道の參與官を歷任し昭和七年全北知事となり、同十一年までのまる五年間道政に翼賛した。退官後は、鮮滿拓殖の幹事、中樞院參議、朝鮮體育會長となり、まへに衰へざる活躍をなしたが、今では閡財閥系統の東光生糸社々長、南滿紡績取締役、東一銀行監査役の外國民總力朝鮮聯盟常務理事、朝鮮體育協會副會長などを兼任し、多角的な活躍をつゞけてゐる恐しい情熱家だ。
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半島人の愛國的協力が足りないのは結局時局認識が足りない、熱が足りない結果だ。指導層が蹶然起ち上つて『これで行かう』と叫び時局認識を高め、內地人と變ぬ理念をもたせ、二千四百萬半島同胞が總起ちとなり理窟拔きの實踐に逞ましい進軍を促すのは、われらの臨戰報國運動の主要な課題だと思ふ。ほかに國債の消化、貯蓄の獎勵、または軍需資材の供出、獻納の如き運動も、總力聯盟でやるよりは、今度の報國團などが主體となり民間で自發的に展開するのが本筋だと思ふ。報國團の綱領の一つに入つてゐるが國民皆勞運動の一つとして勤勞靑少年の訓練を目指す訓練道場を、精神の修養と日本精神の體得を目指してみそぎ道場をつくることは結構なことだと思ふ。今度の運動を通じて内鮮一體具現化の促成をはかるべきだとしみじみ考へる。內鮮一體の具現化が五十年、もしくは百年かゝるものであれば、內鮮人と同じ信念で信實一路邁進すればその年限は三年なり十年なり縮められるものではないだらうが、この報國運動は確かに酬いられるものがあると僕は確信する。この運動を通じて完全に日本人となり切ることを希望して止まないのだ、われら半島同胞の進むべき道は完全なる日本人になるほかないぢやないか。<91>
臨戰愛國者群像…(四) 敎育は明日の政治である
革新の情熱家 增田道義校長
僕はかう思ふね、政治は今日の敎育であり、敎育は明日の政治であると……全くさうだよ、われらはまた現在の國防のみならず明日の國防である敎育を輕んじてはならないのだ。高度國防國家の建設、大東亞共營圈の確立にあたつて敎育への期待と要求が勃發と起つてくるのは當然である。一八○六年ドイツがナポレオンの馬蹄に蹂躙されて、ラインエルべ兩河間の沃地大半をフランスに奪はれたとき、ドイツは『物質的に失つたものを精神的に回復すべきだ』との意氣込みをもつて、フンポルトのベルリン大學をつくつたではないか、スタインはドイツの再興は敎育によりドイツの將來を背負つて起つよき國民を鍊成するにあると絕叫したのであつた。かうして一八七○年の普佛戰爭となりパリは陷落された。次いでフランス敎育者の覺醒によつて育てられたフランスの靑年は第一次世界大戰にドイツを破つたが、ドイツはその慘擔たる苦境に呻吟するうち無名の靑年ヒツトラーを奮起させたのではないか。彼は政治と敎育の大天才だ。ナチス黨の一部として少年團を結成して愛國的思想を叩き込むとともに國立政治指導所をつくり指導者を養成した。今回の大戰における獨軍の勇猛果敢はヒツトラーのこの靑少年の敎育訓練の結果にほかならないよ
◇
爽かな秋の氣配の身に泌みるある日の午后京城府淸涼里町京城法學專門學校長室で、イガ栗坊主に國民服、刈り込んだ口髭、ロイド眼鏡をかけた校長增田道義氏が語る『明日の政治』敎育新體制論のマクラである。語る調子は靜かたが、增田校長の言葉は『革新の情熱』に燃えて居るのだ。
◇
綠の校庭に圍まれた廣い校長室は初秋の陽射しが美しく明るい。壁には元齋薛總督揮毫の『琢玉堂成器』が凛として無言の敎訓をたれてゐる。その下の五つの大きな本簟笥には『日本思想史硏究』、『東亞文化硏究』、『近代日鮮關係の硏究』、『高麗史』、『朝鮮建築と藝術』など各部門の書物萬餘卷がギツシリ詰つて居りまるで圖書館のやうな感じた。
增田校長は愛媛縣生れ、地元の今治中學から松山高校を經て東大法學部に進み在學中の大正十三年高文行政科をパス、同十四年卒業とともに大學院に入りまる一個年間に亘つて末弘嚴太郞博士の指導の下に民法及勞働法制を硏究した。同十五年象牙の塔から官界に轉し警視廳屬から工場監督官舖となり、勞働統制、工<92>場行政等に敏腕を揮つたが昭和二年政黨の官界干涉に憤激して滿洲に飛び關東廳事務官となり警務局警務衛生各課長を歷任し、金州民政署長から總督府警察官講習所敎授として來鮮、治安確保の第一線に起つて警察官の訓育につとめた。まもなく、木浦府尹に榮轉、更に平壤地方專賣局長平から慶南內務部長へとぐん〱と地位を築きあげた、平壤時代には當時半島宗敎界に波紋を描いた全鮮長老派神社參拜問題の解決に蔭武者として活躍、慶南時代には、旱害對策に、或に釜山、晋州、馬山など慶南地方に散在する濠洲派ミツシヨン·スクールの讓渡問題に敏腕を揮ひ、何れも圓滿解決の成果を收め、また國民總力慶南理事長として總力運動の陣頭に起ち、『先づ實踐だ』と眞劍に指導にあたつた結果、慶南が全鮮一の折紙がつけられるに至り、時の鹽原學務局長にその人材を高く認められ『敎育界に變つてみてはどうか』と懇望され、行政官から敎育界に百八十度の轉行を斷行、法學校長となり、一時内訌で危機に直面、その將來が危まれてゐた法專の建直しに輝かしい凱歌をあげ、今日では臨戰體制下皇國臣民鍊成のよき指導者として逞しい活動をつゞけてゐる。
『人間增田道義』が世間的にメーキヤツプされた表情を知つてゐる人の間には、』政治家氣質の增田が敎育者として果して成功するか、どうか』と懸念されてゐたが、增田校長は新らしき時代の現實的な指導者として、明日の政治である『敎育』を立派に消化し法專をして今日の隆盛に建直したことによつて、これら一部の人達の杞憂を見事に打破つたのだ。
◇
このごろ半島人側に愛撺運動が盛り上つてゐるが、これは非常に結構なことである。ところがかういふ大衆運動の根本問題になれば、半島靑年學徒の皇國臣民化運動が一番大事だと思ふね。學生たちの思想の動向は、從來に比べて大體においてよい。時局下半島民衆は、半島インテリ層は殊に學生諸君は、どう働いてゐるか―とみんな關心をもつて見てゐるが、みんな日本國民として働いてゐる。實に賴しいことだ。半島の靑年層は一時煩悶もした、去就に苦しんだこともあらう。ここに苦勞もあり、樂しみもあるわけで却て明治維新のときに惠まれたと同樣半島靑年は惠まれてゐる。この間總督府で『日本學』の打合會が開かれたがそのとき僕は『日本學の效果は素晴しいものがある、半島學生は日本精神に燃えてゐる』とはつきり喜びを打ちあけたこともある。僕は日本學の講義のとき學生たちに『楠公論賛』を敎へたが、あとになつてこれを試驗に出した。半島人の學生にこれを暗記してゐるものが十人もあつたよ。これはたゞ暗記力がいゝといふだけではなく若き半島靑年が共鳴したためだと思ふこれは全く半島皇國臣民化運動の進んだ一つの現れである。今までの敎育は國家の秩序と遊離されてゐるのが多かつたのだ。これは確かにいけなかつたのだ。靑年たちに公<93>の秩序國家の實情も話し、指導してゆけば、みんな生き甲斐を感じよくやつてゆけると信ずる。武器はとらなくとも敎室こそ高度國防軍の一人として守るべき彼等の持場だからね。違ふわけもないよ、のん氣に遊ぶわけもないよ。僕は敎育界に身をおく限り彼等の皇國臣民化に全力をつくすつもりだ。
人間的な感情を豊富に備へた增田校長はかう語の終つて窓外の秋草を眺めた。秋草への感傷は今や大陸の戰野を偲ぶ感傷でもあるらしい。
臨戰愛國者群像…(五) 新しい朝鮮の希望
天道敎々領 李鐘麟翁
臨戰報國團の準備委員の一人にはなつてゐるが、僕など愛國運動の指導者などといふ柄ではないよ、ただお手傳ひをしてゐるだけです。
◇
坊主刈、茫乎たる長い顔のお爺さん……百萬天道敎徒の興望を一身に擔つて起つた『天道敎の敎領』(主宰者)瑞原鍾麟さんは言葉を切つた。銃後半島には大きな反響を呼んで熾烈に燃えあがる半島臨戰體制强化連動の第一線に颯爽と登場に起ち、内に固き内鮮一體があれば騷ぐ太平洋の波も、吹きすさぶシベリヤの嵐も、一瞬に吹き飛ばすことが出來るのだ、皇國精神に起て!と絕叫して奔濤の誠心を吐露し、或ひは『理窟抜きの實踐だ』と豆債券を抱へて街頭に繰出し『お國を愛する心で豆債券を買ひませう……』と呼びかけるなど新生朝鮮の先驅として大任を老驅にガツチリと背負つて起ち上つた瑞原さんを知るものにとつて、この言葉はちよつと受取れぬ話である。これは『人間瑞原』の一面を示す謙遜そのものかも知れない。
◇
『天道敎は從來新舊兩派に分れてゐましたが、昨年の春分頃から統一へ……の線に沿つて一つの傘下に大同團結し、皇道主義に立脚して新發足した。大東亞共榮圈の確立を目指す世紀の聖業が一日も早く凱歌をあげるやうわが天道敎では、百萬敎徒が總起ちとなり、去る七日から廿一日間の豫定で心をこめて特别祈願を行つて居る。また、十月一日から一週間眞輸器獻納や廢品回收運動を行ふことになつたかどれだけの戌果が收め得られるか樂しみにしてゐるよ。いざやつて見ると傍でみるほど思ふやうにならぬやうだね。しかし漸く足場も出來て軌道に乘つて來た。これからだよ』
と、京城府內慶雲町天道敎本部の靜寂な敎領室のデスクで烈々語る瑞原さんは六十に近い白髮の老驅とは見えない若々しさ。
瑞原さんは、忠淸南道瑞山<94>といふ農村に百姓の長男として生れた。十五の紅顔の少年時代に韓國末葉の志李偰、金福漢などに師事して、政治學の硏鑚を積み、十七になると夢多い少年時代に誰もが描く『將來偉くなつて見せる』とローマン的な夢を胸に抱いて都會(京城)に出て來た。當時、今の經學院の前身である『大學館』なる敎育機關がありこれには全鮮の若い秀才のなかから每年四十名宛選抜して收容一年間の敎育を施して考査のうへ、成績優秀なるものには博士(今の博士ではない、現在の高文パスの資格同様なもの)の資格を與へ高級官吏にしたものだが、瑞原さんは二十一のときにこの大學館に學ひ翌年見事に博士の榮譽をかち得た。その後吳世昌、權東鎭などを中心とする政治團體『大韓協會』に關係し同協會々報の編輯長または同協會の機關紙大韓民報の主筆となり、嵐のなかで『何處に進むべきか―』に迷つてゐる朝鮮民衆の指導と啓蒙に血みどろな活動をつゞけた。半島政治史に新紀元を劃した日韓合併が行はれた歲に今の天道敎に入り、雜誌としては朝鮮で一番歷史の古かつた『天道敎日報』(一昨年廢刊)を始め『開闢』、『衆聲』、『女性』その他の月刊雜誌を發行するなど、文化運動に專念する一方朝鮮社會運動史のうへに特筆すベき朝鮮物産獎勵運動、或は飢饉救濟運動に何れも會長となり、華々しい活動をなした。その間搔擾事件に連坐して、三年間牢屋生活を送つた。引續き民族主義思想團體新幹會京城支會委員長などを勤めたが解消理論を武器として奇襲する左翼陣營の新興勢力によつて新幹會が解消されるや、只管天道敎の布敎運動に精進中のところ、今次事變を契機として誤まつた過去を飜然と淸算し、今日では立派な皇國臣民として更生し、自から愛國運動の陣頭に起つて果敢な鬪爭をつゞけてゐるのだ。
◇
話が時局の核心にふれると片手にタバコをもつてゐた瑞原さんの表情がキツと嚴肅にひきしまつた。再び語り出すのである。
今は唯かの指導を待つときではない。民衆自から蹶起しなければなちない。やれといふときにやるのと自發的にやるその間には、大きな距離があるのだ。お國のためといふよりも、ゎれら自身の幸福、可愛子孫たちらのためにもわれ〱は『皇國日本を護れ』の掛聲に足並揃へで起ち上らなければならない。この信條に反對意見をもつものがあれば世界の地圖を擴げて見るがよい。弱少民族のなかで安逸な生活をしてゐる國がどこの國だ。東洋人全體が幸福になれるのには帝國を盟主として東洋人全體が總力をあげてあすの國難を打開しなければならない。これは日本のためでもない、東洋人全體のためなのだ。われわれの皇民化運動は帝國のためにといふよりもわれわれ半島民衆のためだ。今度の運動は新しい朝鮮の希望なのだ。
瑞原さんは、かう語つて悠然と硝子窓越しに、初秋の庭を眺めた。<95>
臨戰愛國者群像…(六) 臨戰報國團中心メンバー
萬年靑年の申興雨氏
『激化一路の臨戰態勢下におけるこれら半島同胞は、黃色人種全體に對する先驅者である內地同胞と打つて一丸となるABCDの包圍陣を打ち破らなければならない。太平洋の荒波は、日增しに高まりつゝあるが、一億一心が大同團結すれば恐るゝに足らずだ、文化から見ても、科學から見ても、人的資源から見てもわが帝國は決して西洋諸國に遲れてはゐないからね……。
◇
ローマの藝術建築を偲はせる古典的な調和美のとれた赤い煉瓦壁の洋風の建物……初秋の綠の庭園に圍まれた京城府貞洞町培材中學校長の舍宅は明るい。この舍宅の廣い洋間の應接室に記者を靜かに迎へた『臨戰報國團』の中心メンバーである培材中學校長高靈興雨(舊名申興雨氏)は、搖れる椅子に體を托して親しみ深い語調で語り出すのである。
◇
こんなことは高靈さんのロから聞くまでもなく、半島人同胞の共通した氣持かも知らない。しかし高靈さんの口を通して臨戰體制下における半島二千四百萬同胞の新らしき使命が語られるとふしぎな魅力をもつてくる。語調の線はむしろ細かい方だがキラ〱するやうな情熱の汜濫それが五十といふ高靈さんの年齡を吹つ飛ばして、まるで三十代の若々しい靑年の樣で賴母しい。
高靈さん、忠淸北道淸州郡琅城面官井里といふ片田舍に生れ、今の培材中學の前身『培材學堂』を經て、官立德語學校を卒業、明治三十六年渡米し、北米南加州大學豫科に學び、同大學醫科に進んだが醫科が嫌ひで途中同大學文科に轉し、明治四十三年の春目出度卒業した。卒業後も約一年間同大學院に居殘り敎育學を硏究し、同四十四年歸朝、母校に敎鞭をとり、培材學堂の學監から同學長に昇進、更に大正五年には培材中學の校長を兼任し、明日の皇國を背負つて起つ靑少年の鍊成にいそしむ傍ら、同九年には中央キリスト敎靑年會總務、朝鮮などを歷任し、敎育家として或は宗敎家としてのその活躍振りは素晴らしいものがあつた。特に高靈さんは大正十年七月、布哇で開かれた汎太平洋敎育大會をはじめ、同十三年七月瑞西ゼネバで開かれた『世界靑年會委員會』とか、同八月英國ハイリで開かれた『世界學生聯盟委員會』とか、昭和六年八月米國クリーブランド『世界靑年大會』など前後合せて二十餘りの國際的會合に出席し、油鴨な英語演說で<96>朝鮮の事情を紹介して有名となつた位で英語が得意であることは勿論、フランス語もドイツ語も普通會話はすらすら出來るといつた語學の天才でもあるのだ。
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貴下は大正八年の己未運動には關聯しなかつたやうですね……
『さうです。僕は參加しませんでした。己未運動に關係してゐる知人のうちには、僕にしきりに參加するヤうに勸めたものもあつたが、僕は斷然斷つたのです。民族自決主義による朝鮮民衆の解放、それは理論的限界內では可能であるかも知れないが先づ僕は實現性のないものと確信してゐだからです。まだ假りに當時彼等が理想とする新らしい變革を齎らしてもそれは決して朝鮮民衆の幸福を保障するものではなく、もつと苦しめるものだと僕は考へてゐたからです。先づ朝鮮人は質的に向上しなければならない。即ち精神的に科學的に、體位も向上しなければならない。これらに對する何等實力なしには政治的に起ち直れないといふのが當時の僕の持論だつたのですからね』
白麻服に赤の蝶ネクタイをきちんと結んだ高靈さんは、うすつぺらな書物を手に取つてパラパラと頁をくりながら非常に機嫌よく語る。
―臨戰報國の蹶起は銃後中島に大きな反響を呼んでゐるやうですね。
『われ〱がこの運動を起すまでもなく、民衆はみんな愛國熱に燃えてゐます。果てなき曠野に、或い大平原に走りたがる馬をはずしてやればその馬は喜んで走るでせう。これと同樣に若しも時局がいよ〱緊迫し『お前達にも賴むぞ、銃を執れ!』とまでになれば半島の靑年は『待つてゐました』とばかりに喜んでお國のために血を捧げると思ひます。大和民族の光榮のまへに何の不服がありませう……
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かう答へる高靈さんの表情に、いつしか激情の嵐が、いや全身に躍り出た。
臨戰愛國者群像…(七) 臨戰·報國·團結
報國運動を說く 李光洙氏
孝子町行電車の最終點に下車京城府立順化病院のある西へ向つて少し行くと、『香山産院』といふ看板がかゝつてゐる赤壁の淸楚な朝鮮建物が目につく。これが『今こそ二千四百萬半島民衆は、嚴然たる皇國の聖業に身を挺し眞の皇民として起ち上らなければならない』と蹶然と半島臨戰體制の整備への第一線に躍り出した臨戰報國團の中樞的メンバー香山光郎氏のお住である。
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過去三十餘年間、半島文壇<97>とともに、苦難の黎明期を敢然と生き拔いて、今日では、一時自然主義文學の華かなりし頃、文壇に大きな波紋を描いた大作『無情』をはじゆ、『土』、『有情』、『端宗哀史』、『人生の香氣』、『麻表太子』、最近モダン日本社出版で出地文壇に紹介された『愛』など三十餘りの著書を世に送つてゐる半島文壇の巨匠李光洙が此の生れ變つた香山さんである。
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記者が案内された初秋の陽射しの美しい書齋は澁好みの茶室風な書物。壁には『ミレーの晚鐘』がかゝつてをり、大きな本簟笥には『日本文學講座』、『萬萬歌謠集』、『李朝佛敎』、『現代文明史』その他外國文學の原書などがギツシリ詰まつてゐる。
香山氏は平北の定州生れ、明治四十三年東京明治學院中學部を出ると直ちに歸鮮、鄕里の定州五山學校に敎鞭をとり明日の半島を背負つて起つ靑少年の練成につとめた。數ケ年後更に東上、早稻田高等豫科を經て、同大學哲學科に學ぶうち、大正八年己未運動が勃發するや、『象牙の塔』にとぢこもつてゐるときではない』と卒業間際になつて退學し、某反日政治團體に關係し約二年間に互り、上海、シベリヤなどを放浪した。その後言論界に入り、東亞日報編輯局長、朝鮮日報の副社長を歷任し、新聞人として活躍しながらもなほ衰へざる情熱をもつて文學に進み、『彼の女の一生』、『愛』など次から次へと發表、最近では『同胞に寄す』を世に送りインテリ層に反響を呼んだ。殊に滿洲、支那の兩支變をモメントに冷靜なる自己批判によつて民族主義的イデオロギーを綺麗に淸算し、國民文化運動への飛躍を誓ひ、朝鮮文人協會長となつたが健康がつゞかず辭任自宅で只管創作に精進中のところ、今度燃ゆる愛國運動の陣頭に起ち上つたのである。
◇
今度『臨戰報國團』の如き團體的愛國運動を促した原因は……
『それは獨ン開戰以來の世界の變局、特に英米のわが帝國に對する態度である。英米の對日敵性は、わが銃後國民上下の差なく、新しい決心を促したことは事實だ。英米ソが改めない限り、徹底的に膺懲しなければならない。たゞ支那事變のみで終るとせば、われら半島同胞は銃後の奉公のみで足るものと考へでゐだが、敵の實力が從來の數倍に强化されるを見るとき從來と異なつた、いや從來より以上の奉公の必要を感じた譯である。今では『臨戰報國團』の旗の下に二つの團體が統合されたが、興亞報國團が靑年の訓練を旗印とし、臨戰對策協力會が、一死報國の赤誠を誓ひ、半島義勇化を目指して奮ひ起つたのも、みんな祖國日本を固く護り、倍前の奉公の精神を表現したものである。
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見るからに明るい麻の朝鮮着物をきちんと着込んだ香山氏は、銳い目尻を眼鏡越しにのぞかせながら、熱意ある口振で語る。
―臨戰體制の强力な再編成の方向は……<98>
『臨戰報國運動の目標は戰時生活の建直し、國債報國運動を自主的に展開する傍ら、勞務者を組織化して、いざといふ場合に動員するやう準備待機するにあると思ふ。これには、この運動の中樞となり、根源となるべき中心團結が必要であらう。この運動の特色は、①臨戰、②報國、③團結の三點にあると思ふ。臨戰とは民衆全體が凡て將兵として應召された覺悟をもち、これに加盟した人員は入營同樣の義務が必要だらう。彼にはたゞ服從と犧牲があるのみだよ。彼の除隊期日は、自然死でなければ帝國の聖戰と新東亞建設が終るその日であらなければならない。報國と忠は絕對である。ここには勤務する生命を維持する資料に以外には何等報償ののぞみがあつてならない。團結とは、組織のことだ。二千四百萬同胞がそれぞれ一死報國の誠をもつにしてもこれが打つて一丸とならなければ大力を發揮することは出來ない。われら一億同胞ががつちり腕を組んで數億の敵を打ち破らなければならない。そこで『互に信愛協力しもつて團結を固くせん』これが必要となるのだ。
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聲は靜かで言葉は柔かいが臨戰報國團の使命を說く香山氏の顔は紅潮して熱を帶びてゐた。
臨戰愛國者群僳…(八) 半島靑年奮起の秋
臨戰報國團常務委員 李晟煥氏
立體的な高いビルの建物、電車の響く雜音、道往く人々の足音―凡て喧噪な大京城の繁華街の中心地帶『和信』まへから仁寺町入口電車停留場に向つて少し行くと、左側に店舖と並んでゐる赤煉瓦の二階建が眼に着く。この家の正門に『臨戰報國團』といふ木の香も新らしい看板が懸つてゐる。押戶をくゝり抜けて奥へ五、六步も步いた。二階の一室、そこが開店早々の臨戰報國團の事務室だ。室内には何の飾もないが、西に廻つた秋の陽射しが室內をカアツと黃色に溫めて美しい。今こゝから超非常時局が求める半島臨戰體制の强力な再編成に對する史的な設計が生れ、半島二千四百萬民衆に逞しい實踐を促すであらう。
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『何れの社會、何れの時代、何れの歷史を見ても、それを動かし、或はこれを破壊し、或はこれを建直すが如き事業はことことく感激性に富み實行性をもつ靑年がその主人公であつた。これは今日われらの目前に展開されてゐる幾多の歷史的事實が證明してゐる。見よ、全世界の靑年が起つてゐるのではないか、種の黃白を問はず國の大小を問はず何れも祖國の名與と興廢の運命を背負つて蹶起血みどろ<99>な鬪をつゞけてゐるのではないか。これは全く靑年に負荷された天賦の使命なのだ。
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半島愛國運動の總結集であるこの臨戰報國團の常務委員に推され、綱領の草案から結團式の準備など何から何まで實際的な仕事にあたつてゐる安興晟煥(舊名李晟煥)さんは事務室でかう熱烈な口調で一語々々を刻むやうに『時代の先驅』靑年の使命を語り出すのである。
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安興さんは咸南永興郡片田舍の農家に生れた。地元の農業學校を出ると笈を負ひ東上ある私立中學を經て京都高等蠶業學校に進み、大正十二年同校を卒業歸鮮した。その後まる二年間成南端川郡農會につとめ、十五年の春上京『朝鮮問題は先づ人口の九割を占める農民の啓蒙と經濟的地位の向上にあり……』と天道敎靑年黨及び社會有力者たちとタイアツプして『朝鮮農民社』を組織し理事長となり、月刊雜誌『朝鮮農民』を發刊する一方、天道敎靑年黨の中央執行委員、同黨農民部主席を兼任し全鮮各地に部落、面、郡單位の農民社下部組織を整備し十數萬の大衆を獲得、專ら農民の生活水準と文化水準の向上を目指して血のにじむ活動をなした。この農民社運動は多少社會主義的な色彩を帶びた合法的な農民運動團體で當時朝鮮農民總同盟、同勞働總同盟など左翼思想團體から深刻な非難と攻擊とを受けたが『朝鮮に共産主義の如き體制は相容れない』との正しい世界觀からこれらの非難を默殺只管この농민운동の指導陣營に起ち十數萬の組織大衆の指導にあたつてゐた。ところが昭和六年滿洲事變勃發とともに時勢が一大轉換を來たし、民衆の結社、集會、出版など不自由となるにつれ、農民社運動も自然解消に至るや安興さんは靜かに內外情勢を省察自分の進むべき道につき幾度も再檢討の結果、滿洲事變をモメントに日本國家主義による新東亞建設の理念をはつきりと把握するに至つたのである。その後實業界に轉じ、奉天に本據をもつ『協何貿易組合』『朝鮮海産物輸入組合』などをつくつたが資金の關係で何れも失敗、昭和十二年李鍾萬氏事業の中心メンバーとなり、社會的文化事業と資金事業の創設に協力し、李鍾萬氏系事業の大同鑛業の常務取締役、大同出版社取締役のほか自作農創定の模範農村建設を目指す『大同農村社』の理事などを兼任し、多角的な活動をつゞけた。最近李鍾萬氏事業から手を引き今日では只管農村問題の硏究に專念する傍ら臨戰報國團の參謀として活躍中である。
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安興さんの話はすぐ朝鮮靑年論に急速調に移つて、
朝鮮の靑年のみが、かういふ世界的な、歷史的な、時代的な要請から除外されることは朝鮮靑年にとつてどれだけ恥辱であるか、いはんやわが祖國日本が有史以來未曾有の國難に直面した今日、安閉として寧日を貪ることは果して靑年としてとるべき態度であらうか、又國民としてこんなことでよいであらうか、志願<100>兵以外に、名譽あるの兵役義務が與へられてゐないといへど、半島靑年はまさに奮起し靜神的に、物質的に、常務的に、あらん限りの愛國の赤誠の機會は遂に來たのだ。
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うと〱と安興さんの調子に耳を傾けてゐたら隣の常任委員會議室から呼びに來たので安興さんの半島靑年の奮起を促す『情熱の辯』はここでプツツリと切れた。
臨戰愛國者群像…(九) 半島女性總立ちの秋
德和女塾長 朴仁德女史
古い朝鮮家屋を建直したものか、天井は低いが感じのよい小ぢんまりした小綺麗な部屋だ。壁には半島女性文化運動のリーダー淸和女塾長津田節子女史から記念に贈られた『淸和女塾』名入の丸型の柱時計がかゝつてをり、本立てには『婦人公論大學』『新生朝鮮の出發』など書物がぎつしりと詰まつてゐる。
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隣の敎室からは『皆さんお知りになりましたか、華美な着物をつゝしみませうといふ婦人の新體制を……』と說く講義の聲がかすかに漏れ、ノリの强くきいた白いチヨコリ(上衣)と黑く短いチマ(スカート)をきちんと着こんだ一人の若い女敎師は次の講義時間を持つてゐる。
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仁旺山の麓、府民の散策地、または子供たちの遊園地として知られてゐる社稷公園の花嫁學校『德和女塾』の一室だ。府內とはいへ都心地帶の騷音から遊離され、アスフアルトの香のない淸らかで靜かなところである。
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『世界各國の女性はそれ〲祖國のために起ち上つてゐます。主婦も職業婦人も女學生も總起ちです。この世紀に同じく生れた一千二百萬の半島女性も『皇國精神に起て!』と呼ぶこの史的な掛聲に足並揃へて起ち上らなければなりません。國家は……時局は私達全半島女性に奮ひ起つことを要望してゐるのです。日本人としての血をもつ私たち女性がこの超非常時に起ち上らずいつ起ち上りませう』
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全半島の津々浦々に盛り上る臨戰報國運動の陣頭に起ち、男の委員たちに負けない熱をもつて講演に、或に豆債券の賣出に繰出し、逞しい實踐をつづけてゐる德和女塾長永河仁徳(舊名朴仁德)女史は先づかう口を切つた。永年に亘るアメリカ生活から受けた永河女史の表情は非常に明るく、淸らかな香りと高い氣品が見える。
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永河女史は、西鮮の港鎭南浦に生れ、幼いとき男女共學<101>など想像もつかなかつたあの昔、男裝で男たちに交はつて書堂に通つた。其後現在の梨花高女の前身である『梨花學堂』に入り、中學科を經て十九の春に現在の梨花女專の前身同大學文科を卒業した。直ちに母校の梨花學堂のほか培花高女、女子神學に敎鞭をとり英語や音樂を敎へるなど文化朝鮮を背負つて起つべきあすの母性の育成につとめたが數年足らずで結婚生活に入つた。結婚生活中、更に起ち上り二十八の母からアメリカ留學に飛躍、ジヨヂア州ウエスリアナ大學で三年とコロンビ大學で、一年間敎育學を專攻し、北アメリカ宣敎會幹事となり、北アメリカ各大學をかけ廻つて千回に及ぶ超記錄的な講演活動をなし、朝鮮事情の紹介と宣敎事業に心血を注いだ。その後フランス、ドイツ、丁抹、ローマ、伊太利、印度、南京その他各國の講演行脚をなし、昭和六年歸朝、農村婦人の啓蒙運動に活躍したが、今春四月から綠旗聯盟の津田節子女史をはじめ、京城地方法院の山澤檢査正、朝鮮軍の浦少佐らの後援を得て『徳和女塾』を創設し時局に沿つた花嫁の育成につとめる傍ら、愛國運動の第一線に登場したもので、その活躍振りは素晴らしいものがある。
◇
臨戰體制下に於ける女性の任務は、お臺所の消費規正のみではないと思ひます。一千二百萬の半島女性が總起ちとなり物資の生産擴充につとめなければならないと思ひます。例へば一千二百萬女性の力を一日一時間宛、物資の生産擴充に活用すれば一日に一千二百萬時間の仕事が浮ぶことになります。このうち働けない老幼者、または病氣の人達を半分と見て、殘りの六百萬時間を年に換算すると六百八十四年五箇月、十一日二十四時間になります。實に驚いたものではありませんか。この點から見て女性の勤勞動員は最も重要視していゝと思ひます。一人の女性が豆債券一枚づつを買つても六萬枚に上りますからね……防空壕も掘らせる、一坪蔬菜もつくらせる、といつたやうことはもつとも意義深いものではないでせうか。『臨戰報國團』などにも婦人部を設けて婦人の勤勞動員について新らしい實踐要綱を樹てゝ半島女性に呼びかける、そして逞ましい實踐力をもたせるべきだとつくづく感じて居ります。
輕快な白色上衣と茶色のスカートに身を包んだ永河女史は演說でもするやうな彈力的な調子でかう語つた。
―歐米を舞臺に華々しく活躍してゐたあの時代か懷しいとは思ひませんか』と質すと
『いゝえ、ちつとも未練などもつてゐません。たゞお國に奉公をしたい一念で胸が一杯です。ときには旅行がしたいなと思ふときがあります。私は前後二十五萬哩の旅をしたのです。この二十五萬哩は地球を十回廻つた距離になりますからね』
これが女史の答へであつた。<102>
臨戰愛國者群像…(十) 新生朝鮮文化運動の立役者
城大敎授 辛島驍氏
京城府岡崎町の電車停留所からガードを潜り一寸だら〱坂を登つた靑葉町の閑靜な高臺に小じんまりした洋館建がある。こゝが支那文學の權威といふよりは新生朝鮮文化運動の立役者として知られる城大敎授辛島驍氏のお住ひである。
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本職の敎授以外に何々講師何々顧問―たくさんの肩書を提げて東西奔走してゐる敎授のことだから不在を覺悟で訪ねると豈計らんや當の本人がイガクリ坊主、白絣にきちんと袴をつけて書生然たる風采で玄關先に現れた。案內された二階の書齋には所狹さまできつしり書物が積まれ、簡素ながら流石は學者の居室らしい雰圍氣が溢れてゐる。
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藤椅子にかけた敎授の部屋一杯に流れるものは柔かい秋の陽射しを浴びて
『敎授だ學者だからといつて硏究室に閉ち籠つてゐてはなちない。學問といふものはその性質分野によつて時間的に種々の相違はあるかも知れないが、紡局實踐と結び付くべきものだ。僕は學問自體がある意味では一つの實踐だと考へてゐる』
と物靜かな態度で語る。その言葉の裏には信念に生き抜かんとする實踐家の火のやうな情熱ひし〱と感ぜられる
敎授は明治三十六年福岡市唐人町の古い漢學者の家に生れ修猷館中學、山口高校を經て眧和三年東大文學部支那文學科を卒業、そのころの支那明代の小說硏究で弱冠學界に認められ、卒業と同時に講はれて城大文學部講師として來鮮、同五年助敎授、四十四年敎授となり現在支那語學、支那文學講座を擔任、また敎授は夙に中共産黨の文化工作に興味を抱いて硏究に沒頭し、この方面における有數の權威である。現に本府視學委員、敎學硏究講師、國民總力聯盟文化部並びに防衛指導部參事京城支那語學曾長、その他文人協曾をはじめ、聯盟文化部直屬の映畵、演劇、その他各種文化團體、思想團體の顧問幹事などを兼ね半島文化運動の第一線指導學者として八面六臂の活躍をなし半島インテリー層のよき理解者、先達として靑年層の壓到的人氣と信賴を寄せられてゐる。
◇
學究と實踐とに相剋を來るやうなことはありませんか…
『僕の場合專門が支那文學で特に現代の支那民衆文舉、文化運動といつたやうな方面の硏究を行つてきたが、在鮮十三年、この間半島の民族的文化思想に接しました。直接文化部門の仕事に携つみて從來<103>の學究的硏究が非常に役立つた。學問の實踐的な裏付けが出來たとさへ思ひ心强く感じてゐる。學者が象牙の塔に閉ぢこもつてゐるとよくいふがそれはただ學者が自らの硏究を生かし利用するだけの政治力が缺けてゐるのであつて、學究と實踐とがかけ離れたもの乃至は相剋を來すものだとは思はない。總發揮の叫ばれてゐる今日、當局でも進んで學者の協力を求めまた學者も虛心坦懷、進んでこれを受け入れるだけの心構へを把持して欲しい。たゞ僕の場合近年色んな方面から引張出されるので讀書の時間を失ふことが一番辛い。
◇
愛國運動の擡頭と共に宗敎界の動向が問題となつて來たやうですが……
『三十六萬の敎徒を擁するキリスト敎長老派が近く愛國機を獻納するし、また六萬の敎徒を有する監理派が旣に日本的敎義の確立を企圖のしてゐるやうだが、若し四十餘萬のキリスト敎が眞に日本的なものへの轉換をしたならば半島思想界は一段の飛躍を見るだらう。その外佛敎、多數の類似宗敎があるが、兎に角朝鮮に於ける日本佛敎がも少し政治的な意識をもつて活潑な運動を展開することが望ましい。佛敎を通じての內鮮の緊密化に努めて貰ひたい。また自由主義的色彩の濃厚な敬老思想を多分に有する地方儒林への對策も輕視出來ぬし、巫を中心とする信仰、思想も大いに關心を拂はねばならぬと思ふ。要するに歐米の政治勢力の打倒によつて簡單に日本的な思想精神が生れて來るのではなくて政治的、學理的鬪爭と併行して思想的、信仰的な鬪爭と努力が絕對に必要である。この意味で今後は宗敎的な方面、宗敎を通じての愛國運動が鬱勃として起つて來るのではないかと考へる。
◇
興亞報國團の今後の進むベき方向について……
『あの運動については僕として何も云ふことはない。實に立派な企てだと思つてゐる。この間最高幹部の方々が債券消化に一役買つて街頭に進出されたが、從來體面や面子を重んずる半島においてよくもまあ實踐されたもんだと大いに敬意を表してゐる次第です。進むべき方向?……それはあの場合民衆が一體どんな氣持で債券を買つたかといふことを突きとめれば其處に自ら判然として來る問題ではないかと思ふ。
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最近いろんな點から婦人が話題に取り上げられて居るやうですが……
それは結局女子敎育の問題に歸着するのではないかと思ふ。從來半島敎育は男子敎育に氣を奪はれ過ぎて女子敎育にやや努力が足りなかつたのではないか……大體思想の根底をなすものは假定生活であり幼兒の母親の影響が相當大きいことを考へると、三十歲にして影響を與へる男子よりも二十歲にして次代の人に影響を與へる女性に着目する方が政治的に見てもスピードある行き方だと思ふ。從つて女學校々育は可なり重大な意氣がある。殊に半島の專門程度<104>の敎育の中に眞の日本的な性格及び風俗習慣への鍊熱といつだやうなものを取り入れたならば內鮮思想の一歸、家庭生活の日本化に一日の早さを增し得ると思ふ。これを思ふ時半島女性と協力して行く內地婦人陣營の人々の少ないことが殘念ではならない。
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先生の平生の心構へと言つたやうなものについて伺ひたいのですが……
昨春義弟が戰死した、最初公報に接した時僕は弟が大陸の建設に殘した仕事を嗣くものは自分しかないと考へた。其處で僕は朝鮮にある立場において弟の分まで二人分働かうと考へた。この場合敎授以外の仕事は一人のほとけがやつてゐる仕事で何か幸ひ出來上つたとすればそれは弟をはじめ戰死者の加護で出來たものと思ふ。『我』を捨てた實に活淡なる心境で仕事をやつてゐる。この氣持は戰場で肉親を失つた人なら誰でも理解して吳れるだらう。銃後の人達がみんなこうした氣持になれば物事はスムースに行くと思ふんだか……まだまだ新體制を叫びながら『我』を出したがる傾向があつて街突や紛糾を釀してゐる。もうそんな時期ではないのだが、實に情なく思ふ。
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斯う語つて敎授は亡き弟の面響を偲ぶかのやうにいつまでも瞑目してゐる。初秋の陽射しは漸く淡れて窓際にはほの明るい明暗を投げてゐた。
臨戰愛國者群像…(十一) 臨戰報國團の産婆役
「熱の人」金東煥氏
『正直なところ半島民衆は……殊に半島知識人は、滿洲事變のときは、事變そのものゝなかに飛込んで一體とならうとはしなかつた。反對もしないが賛成もしないといつたやうな瞹眛な立場に立つてまるで見物人のやうに眺めてゐた人達も決して少くなかつた。それは時局が早く收まり聖戰が五年もながびくとは思はなかつたからでもあらうがなかなかすぐ全面的協力の熱意を示さなかつた。それは知識の根底に一定の方向つけが出來てゐない、謂はゞ國家觀人生觀に缺くるところがあつたからだと僕は信ずるね。ところがどうだ、支那事變をモメントにして半島同胞は……半島知識人は、皇國臣民としてすのかり生れ變つたものだ。恥しい話だが、僕も相當に惱んだ、苦しんだ。その揚け句從來における民族主義的なイデオロギーをきれいに淸算し新らしい日本國家主義世界觀を把握することが出來たのも支那事變と同時だ。僕が過去十二年間心血を注いでやつて來た『三千里』も新らしい國民的なものに生れ變つたものもその以後からであつた。何と<105>いつても半島民衆をして決定的に皇國臣民化されたのは支那事變だからね』
◇
大衆層に『祖國日本を護れ』と最初の第一彈を放つて起ち上つた臨戰報國團の母胎、臨戰體制協議會の産婆役をつとめた三千里社長白山靑樹(舊名金東煥)さんは府內鍾路耶蘇ビル四階三千里社事務所のデスクで熱にこもつた口調で半島人の轉向と、自分自身の『ありかた』に對する深い反省から新らしい使命を自覺新發足するに至つた自身の心境を語り出すのである。壁には『支那大地圖』『蘭領東印度、『南洋地方要圖』三千里ポスターなどがかゝてゐるのみで、室內は地味だが、どこともなく彼の文章同樣に平明で明るい。
◇白山さんは北鮮の小都市咸北鏡城に生れた。二十のときハツキリした目標もなく、■…■、北滿一帶を一年間に亘つて放浪生活をつゞけた。その後何だか現代にふさはしくないやうなロウマンチツクた放浪生活の冷靜な自己批判から再出發して東上、東洋大學に學んだ。當時政治的雰圍氣は若い純眞な白山の血を湧かさせ、學生時代の彼は■…■となり活躍するなどまる三年間東京で生活を送つた。大正十三東京で震災を體驗して直ちに歸鮮朝鮮日報に入り報道戰線に敢鬪する傍ら『新幹會中央執行委員』となり新幹運動に挺身した。昭和四年の春朝鮮日報を退社間もなく朝鮮文綜合雜誌『三千里』を創刊、すでに十分成熟した識見と人柄と經驗をもつて過去十三年間あらゆる苦難と挑戰、一步〱その地位を築きあげつひに『三千里』をして百五十號まで育てあげたのである。今後自分が死んでも自分と運命をともにしてきた『三千里』に誰かに繼承させ『中央公論』の如く五十年も百年もつゞかせ半島の新らしい文化建設に協力したいと張り切つてゐる位だ。當時の半島インテリゲンチヤが懷疑的であるが如くに、白山さんも今次事變前までは何處へ進むかについて懷疑し、惱みつゞけ迷つたものだが、事變をモメントにこの懷疑的な世界觀から完全に脫却し、今日では立派な日本國民として更生今度燃ゆる愛國運動の陣頭に率先して起ち上つたのである。
◇
臨戰態勢〱といつてゐるが半島人はまだその氣分になつてゐない。祖國日本が旣に四年間に及ぶ聖戰を繼續してゐるうへに、更にわが國の目指す東亞新秩序に敵性を示し露骨な敵對行動を採る英米を控へてゐること……わが一億國民が民族の興亡の岐路に起つてゐるといふ緊張感をもつてゐない。そこで先づ第一期運動として國家乃至民族の最高使命に關して具體的に何をなすべきかをハツキリ認識してゐない、從來の社會主義者民族主義者などに呼びかけ、高度國防國家建設の一翼を擔つて起つ國防戰士としての世界觀的自覺をもたせる思想運動が必要だと思ふ。次に第二<106>期運動として組織を通じて、勞力供出、貯蓄獎勵、臨戰態勢下における指導者の鍊成などかとりあげられなければなるまい。第三期運動としては汗と金または物を出す運動から、血を流す義勇化運動に飛躍させなければならないと思ふね。これには軍事思想を叩き込む訓練道揚が必要であることはいふまでもない。軍部に御願して練兵場を借りるとか、その他全鮮各道に射擊場を設け、靑少年たちに本當に銃をとらせて訓練するとか、グライダーをこしらへて靑少年たちを練習させるとか具體的に進まなければ自分の戰爭だといふ緊張かもてないであらう。なほ半島人には同じ東亞共榮圈内にしても南方問題はピツタリ來ない。北の問題がピンと來るのだ。咸鏡道、平南北の人のなかで、シベリヤや東滿以北に行つてゐる人が多い。このせいでこれらの西北鮮の人達はいつも眼を北の方に向けて關心をもつてゐる。
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インクの香りも新らしい『春秋』十月號を手にとつてパラ〱と頁をくゝりながらかう語つた白山さんは、軍靴も高らかに秋のアスフアルトのうへを進む兵隊さんの行進を四階の窓からそつと眺めた。
(以下次號繼續)<107>
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