湯浅克衛の朝鮮と満洲(上)―「植民地文学」の変質
小谷汪之
はじめに
1 「カンナニ」
2 天皇制国家による思想・言論弾圧
3 「移民」と「先駆移民」の間
(以上、本号)
4 満洲移民村歴訪
5 『長篇小説 鴨緑江』
おわりに
(以上、次号)
はじめに
湯浅克衛(本名、湯浅猛。1910‐82年)という作家を知る人は今では少ないであろう。ただ、幼・少年期を過ごした朝鮮にこだわり続けた異色の作家として、その功罪を含めて、検討に値する作家だと思う。
湯浅は香川県の善通寺に生まれた。父親は地元の製缶工場に勤めていたが、湯浅の幼年期に解雇され、その後は植民地・朝鮮の日本軍・守備隊員として、朝鮮各地を転々とした。1916年、父親が朝鮮総督府の巡査試験に合格して、水原で巡査としての勤務に就いた。水原は当時の京城(現、ソウル)の南35キロメートルほどに位置する京畿道の中心都市である。18世紀末にはその地に華城が建設されて、水原は城壁に囲まれた城郭都市となった。朝鮮王朝は当時首府を水原(華城)に移すことも考えていたという。父親の水原赴任に伴い、湯浅は水原尋常小学校に入学した。1922年には同小学校を卒業して、当時の名門校・京城中学校に進学した。湯浅は1年生の時には水原から汽車で通学していたが、通学時間がかかり過ぎるので、2年生からは寄宿舎に入った。
京城中学校では、後に「名人伝」、「弟子」、「李陵」など漢籍に材をとった作品で有名になる中島敦と4年間同級であった(中島は4年修了で卒業し、第一高等学校に進学した)。湯浅の回想記によれば、湯浅は二度、中島に助けられたということである。一度は3年生の時で、数学が嫌いな湯浅は数学の時間に教科書で隠しながら『改造』を読んでいた。『改造』といえば、当時の代表的な「左翼雑誌」である。湯浅は盗み読みしているところを数学の先生に見つかり、危うく停学になるところであったが、中島が間に入って京城中学校の「図書室監禁」2週間で決着したという。もう一度は4年生の時で、湯浅の寄宿舎の机から谷崎潤一郎の『痴人の愛』が見つかり、この時も停学処分になりかかった。しかし、中島や舎監長の先生の尽力で寄宿舎の「図書室監禁」1週間で済んだという(湯浅克衛「敦と私」、『ツシタラ 3』3‐4頁。『ツシタラ』は文治堂書店版『中島敦全集』各巻の付録)。これらの出来事があったのは、湯浅が15、6歳の時であるから、湯浅は一方で『改造』を読みながら、他方では『痴人の愛』を読むといった、ちょっと風変わりで早熟な文学少年だったのであろう。
1927年、湯浅は京城中学校を卒業して東京に出た。翌1928年には早稲田第一高等学院に入学した。当時の早稲田第一高等学院は修業年限3年で、修了すれば早稲田大学の学部に無試験で入学できた。しかし、湯浅は、1929年、「近代文芸研究会」事件に連座して、早稲田第一高等学院を退学させられた。京城中学校時代に『改造』を読んでいた湯浅は早稲田で「左翼」的なサークル「近代文芸研究会」とつながりを持ったのであろう。湯浅は退学後の数年間、それ以上の学歴を求めず、「文学修行」に専念していたようである。
1 「カンナニ」
湯浅克衛の処女作「カンナニ」は『文學評論』の1935年4月号に掲載された。島木健作の「癩」が『文學評論』に掲載されたちょうど1年後である。その時、湯浅はまだ25歳であった。しかし、「カンナニ」の『文學評論』掲載にはいろいろと曲折があった。
『文學評論』に掲載された「カンナニ」は、水原の日本人巡査の息子で小学校5年生の龍二と彼より2歳年上の朝鮮人少女・カンナニ(李橄欖。普通学校夜間部5年生とされている。普通学校は朝鮮人子弟のための小学校)との間の幼く淡い恋情を描いた小説のように見える。ただ、それだけではなく、この小説は植民地支配下に置かれた朝鮮の人々の生活や感情、そして朝鮮人と日本人植民者の間の関係などについて、少年の目―それは小学校入学以前から中学校卒業まで10年以上を朝鮮で暮らした湯浅の目と言い換えることができる―を通してリアルに描いた作品として興味深く読むことができる。
龍二はちょっと前に偶然知り合ったカンナニとすぐに仲良くなった。だが、一緒にいても、「何と話しかけたらいゝか、わからなかつた。すると、カンナニが[朝鮮語で]『お前巡査の子な』と云つた」。「そして、不審氣な龍二の顔に、今度は日本語で『巡査の子と遊んぢやいかん』父が云つたよ」と続けた。龍二はこう応えた。
「どうしていけんのぢや」
「父は日本人大嫌ひ……[2字伏字、憲兵]一番嫌ひ、巡査、その次に嫌ひ。朝鮮人をいぢめるから、惡いことするから―」
「巡査は惡いことはせん、巡査は惡いことをしたり、いぢめたりする奴を退治する役ぢや。[後略]」
龍二はいつしようけんめいにカンナニを説得しようとした。けれども女の子は淋し氣に笑つたまゝ乘つて來やうとはしなかつた。
私の家でも―とカンナニは云ふのである―……[2字伏字、家を]潰された。持つてゐた田畑はいつの間にか「××」[伏字か? 復元版「カンナニ」では、「新しい地主」]のものとなつてゐた。そんな筈はないから刈入れをしてゐたら、巡査がやつて來て父をらうやに入れ、父がやつてゐた書堂は、惡いことを子供等に教へるからと……[伏字、内容不明]戸を釘づけにしてしまひ、子供等を……………[5字伏字、無理やりに]普通學校に入れてしまつた。
(池田浩士編『カンナニ・湯淺克衞植民地小説集』インパクト出版会、1995年、に復刻された『文學評論』版「カンナニ」503‐504頁。伏字の箇所は復元版「カンナニ」によって補填。復元版「カンナニ」については後述。)
この時代には、このような文章を発表するだけでも大変なことだったであろう。それは、『文學評論』版「カンナニ」の末尾に、徳永直の筆になる、以下のような「附記」があることからも分かる。徳永は『文學評論』の編輯相談役のような立場にあったから、「カンナニ」掲載の可否について、編輯長・渡辺順三から判断を求められたのであろう。
(附記、「カンナニ」は、作者から半年餘も預かつてゐた作品であつたが、その性質上、却々發表に困難であつた。こん度かくも無惨な姿で編輯者に推薦した次第であるが、尚この後半は「萬歳事件」が扱はれてゐる。「カンナニ」の作者は後半を別に構圖を改めて書くと云つてゐるから、またいづれ讀者の眼に觸れる機會があると思ふ。一言作者及び讀者へのお斷りを兼ねて―徳永直)
(池田浩士編『カンナニ・湯淺克衞植民地小説集』に復刻された『文學評論』版「カンナニ」519頁)
このように、『文學評論』版「カンナニ」では、原「カンナニ」における「六」から末尾までの400字詰原稿用紙46枚分がすべて削除されている。この部分では万歳事件(3・1朝鮮独立運動、1919年)が扱われていて、これでは、とうてい検閲を通らないと考えた徳永がこの「後半」部分をすべて削除したのである。
池田浩士編『カンナニ・湯淺克衞植民地小説集』7‐49頁収載の復元版「カンナニ」(戦後、徳永によって削除された部分をすべて復元したとされるもの)の末尾には、万歳事件の渦中に、カンナニが日本人植民者によって殺害されたということが示唆されている(ただし、この復元版は、元原稿が失われていたため、湯浅が10年前の記憶のみにもとづいて作成したもので、原「カンナニ」そのものかどうか疑問の余地がありうる)。
徳永はさらに、日本人の高等小学校生や小学校高学年生が朝鮮人の一少女に性的暴行を加えている場面の一部など検閲で問題になりそうな箇所を多く削除している。徳永はこれらの削除によって「無惨な姿」になった「カンナニ」でもなお、『文學評論』に掲載するに値すると考えたのであろう。その判断が間違いだったとは思わないが、『文學評論』版「カンナニ」と復元版「カンナニ」では、読後の印象が微妙に異なるのも事実である。もし、復元版「カンナニ」の「後半」が原「カンナニ」の「後半」と同じだとしたら、原「カンナニ」は優れた「植民地文学」だったということができる。
2 天皇制国家による思想・言論弾圧
「カンナニ」が『文學評論』に掲載された1935年頃には、天皇制国家による思想・言論弾圧が頂点に達しようとしていた。それは日本帝国主義による中国大陸侵略の拡大と軌を一にするものであった。その過程で、多くの人たちが「転向」をよぎなくされた。
島木健作は1928年の「3・15事件」に連座して禁固5年の刑に服し、肺結核の重篤化に伴い、翌年に「転向」を表明した。島木は1932年、刑期を一年残して仮釈放されたが、1936年11月、思想犯保護観察法が施行されると、島木もその対象者とされた。治安維持法違反で有罪とされ、仮釈放された身だったからである。
「3・15事件」後も厳しい弾圧が続けられたが、特に1933年には多くの衝撃的な事件が起こった。同年2月、「蟹工船」などの作品によって知られる作家・小林多喜二が検挙され、築地署において拷問により虐殺された。6月には日本共産党幹部の佐野学と鍋山貞親が獄中で「転向」を声明したため、その後、日本共産党員の「転向」が続出した。
同じ1933年、高見順も、「日本プロレタリア作家同盟」(ナルプ)・城南地区の「責任者」として、治安維持法違反の容疑で検挙された。高見は「一年間起訴留保処分」を受けたが、半年後に不起訴となった。高見が「転向」を表明したからであろう。しかし、思想犯保護観察法が施行されると、治安維持法違反の容疑で検挙されたことのある高見はその対象者とされ、月に一度、東京・千駄ヶ谷の保護観察所に出頭することを義務づけられた(高見順『対談 現代文壇史』筑摩叢書、1976年、185、213、283‐284頁)。
徳永直は、このような思想・言論弾圧の状況下、政治と文学の関係をめぐって、政治を優先する蔵原惟人らと対立して、日本プロレタリア作家同盟を脱退した。これは実質的な「転向」といってもよいであろう。
同時に、「左翼雑誌」に対する弾圧も強化された。1936年、島木健作の「癩」や湯浅克衛の「カンナニ」を掲載してきた『文學評論』は、出版元・ナウカ社の社主・大竹博吉がソ連のスパイ容疑で逮捕されたことによって終刊となった。「左翼」系作家の作品発表の場が次々と消滅していく中、1936年3月には、武田麟太郎らによって文芸誌『人民文庫』が創刊された。編集長は本庄陸男で、湯浅克衛もこの雑誌に多くの文章を寄稿した。この雑誌も警察に睨まれていたようで、1936年10月25日、『人民文庫』に関係していた作家たちが新宿の喫茶店・「大山」に集まっていたところを、警官隊に踏み込まれ、本庄陸男や湯浅克衛、田宮虎彦、田村泰次郎、高見順などが検挙された。ただ、本庄と湯浅以外はその夜のうちに釈放され、本庄と湯浅も数日後には釈放された。この『人民文庫』も1938年には廃刊をよぎなくされた。
このような思想・言論弾圧状況の中で、湯浅克衛の文学にも、大きな揺れが起こってきた。湯浅の「カンナニ」など初期の作品は植民地朝鮮における朝鮮人や日本人植民者の生活を、自身の少年時の体験を通してリアルに描くところに長所があったのだが、しだいにそれが薄れていき、観念的で国策文学的な方向に傾いていったのである。
湯浅の文学におけるこのような揺れは、思想・言論弾圧とともに強化されていった思想・言論の国家統制にも関係することであった。1939年2月、大陸開拓文芸懇話会が拓務省の後ろ盾で結成された。国策としての大陸開拓に資する文学を目指すというのがその目的であった。自ら望んでかどうかは分からないが、朝鮮体験の豊かな湯浅も大陸開拓文芸懇話会に加わり、その中心をなす6人の委員の一人となった。その後、湯浅は日本と朝鮮との間をしばしば行き来して、しだいに朝鮮において重要な位置を占めるようになっていった。朝鮮文壇では、朝鮮語で書かれた作品の発表が困難になり、朝鮮人作家も日本語(当時の表現では「国語」)で書かざるをえなくなった。
3 「移民」と「先駆移民」の間
湯浅克衛は、「カンナニ」に見られるような朝鮮人の生活や感情に対する関心をしだいに失い、朝鮮や満洲に在住する日本人の問題に関心を集中させていった。その一環として、朝鮮や満洲への日本人移民を主題とする作品やルポルタージュを多く発表するようになった。
朝鮮への日本人移民の問題をテーマとする最初の作品は「移民」(『改造』1936年7月号)である。山陰地方の貧しい小作人・「松村松次郎」は東洋拓殖株式会社(東拓)による朝鮮への移民の募集に応募して朝鮮に渡った。日露戦争が終わって5年後の1910年のこととされている。しかし、東拓が用意した入植地は朝鮮北部の山間の荒れ地であった。「松次郎」は最初はがっかりしたが、25年の「年賦」を東拓に納め終われば、この3町歩ほどの土地が自分のものになると考えて気を取り直した。「松次郎」と妻の「いや」は朝早くから働き、田畑を少しずつ整備していった。そんなやさき、「いや」が肺を病み、苦しんだ末に死んでしまった。「いや」を家や田畑のよく見える小高い丘の上の墓地に葬った時、「松次郎」はこの地以外に自分の故郷はないと思い定めた。それで、付近の朝鮮人農民たちと親しく交わった。朝鮮人農民たちも「松次郎」を信頼し、彼の燐家の娘を後妻とするよう勧め、「松次郎」もそれを受け入れた。こうして、「松次郎」は朝鮮人社会の中に溶け込んでいった。「松次郎」が死んだ時には、朝鮮人農民たちの手によって「さながら貴人の葬式」のような葬祭が行われた。
この作品は、いろいろと批判の余地はありうるとしても、少なくとも、朝鮮人農民たちと日本人入植者との交流を対等に近い形で描いている点で、国策文学的とまでは言えないであろう。
他方、満洲への日本人移民を最初に扱ったのは「先駆移民」(『改造』1938年12月号)で、これは、1933年に拓務省によって東北満洲に送り出された第二次武装移民団にかかわる事実を踏まえた作品である。この第二次武装移民団は「七虎刀」地域に入植したので、その入植地は「千振村」と称された(付図の③)。第二次武装移民団も、第一次武装移民団(1932年送出。入植地は永豊鎮で、弥栄村と称された。付図の②)と同様に、全国の在郷軍人から成る移民団で、現地の武装勢力との戦闘を想定していた。これら二つの移民団は「先駆移民」と呼ばれていた。
「先駆移民」という作品は、この第二次武装移民団が置かれていた状況を大枠として、その中に一人の「左翼崩れ」らしき団員・「黒瀬陸助」を造形して、彼の他の団員とは異なる言動を描いたものである。その最後の部分では、この200人足らずの武装移民団が4000人ほどの「匪賊」に取り囲まれ、籠城状態になる。救援を求めるために「密使」が送られるが誰も帰ってこない。「匪賊」に捕まり、惨殺されたに違いない。その時、「黒瀬陸助」が6人目の「密使」として名乗りを上げ、送り出されるが、それから5日経っても帰ってこない。「黒瀬陸助」の生死は不明のままだが、救援部隊が到着し、第二次武装移民団は救われる。
この作品で、湯浅の関心はもっぱら日本人移民たちの動向に限られ、日本人の入植に抵抗する満洲人や在満朝鮮人たちはすべて「匪賊」として扱われている。その点で、まさに国策文学というべき作品である。このように、「移民」(1936年)と「先駆移民」(1938年)の間に湯浅の揺れの境目を見ることができる。
(次号に続く)
(「世界史の眼」No.64)
湯浅克衛の朝鮮と満洲(下)―「植民地文学」の変質
小谷汪之
はじめに
1 「カンナニ」
2 天皇制国家による思想・言論弾圧
3 「移民」と「先駆移民」の間
(以上、前号)
4 満洲移民村歴訪
5 『長篇小説 鴨緑江』
おわりに
(以上、本号)
4 満洲移民村歴訪
湯浅克衛は、その後、日本人移民たちの後を追うように、満洲の移民村を歴訪した。1939年4月末から6月半ばにかけては、大陸開拓文芸懇話会から派遣された使節団の一員として、満洲各地を訪ね歩いた。湯浅はその後ほとんど毎年のように、満洲に行き、日本人移民の村や満蒙開拓青少年義勇軍の訓練所などを訪ね歩いた。湯浅が満洲旅行について書いた旅行記風の文章の多くは湯浅克衛『民族の緯絲』(育成社弘道閣、1942年)に収められているが、年月日、旅程、同行者などについて不明確な部分がきわめて多い。ここでは、そのうち比較的よく分かる二つの旅行について、いくらか詳しく見ていきたい。
前述のように、湯浅たちは1939年に大陸開拓文芸懇話会から派遣されて満洲各地を旅行した。10人ほどの視察団であったが、常に全員そろって行動したわけではなく、数人ずつに分かれて行動することもあった。
湯浅は南満洲鉄道(満鉄)で奉天、新京、ハルビン(哈爾浜)と北上し、ハルビンからは松花江を船で下って、5月8日にジャムス(佳木斯)に着いた。伊藤整、福田清人との三人旅であった。ジャムスからは、ジャムスと図門を結ぶ図佳線で南下し、弥栄村と千振村を訪ねた。次に、図佳線の勃利駅で下車して、満蒙開拓青少年義勇軍の勃利訓練所に行った。勃利訓練所では島木健作と行き違って、ほとんど話もできないまま別れた。その後、林口駅で林口と虎頭間を結ぶ虎林線に乗り換えて、沿線の哈達河村(1936年、第四次入植。前号付図の⑤)、城子河村(第四次入植)を訪れた。そこから林口駅に引き返して、龍爪村(1937年、第六次入植。前号付図の④)に行った。最後に、牡丹江駅で視察団の他のメンバーと合流し、浜綏線(北満鉄路[旧東清鉄道本線]の東部線)でハルビンに戻った。
湯浅はこれらの開拓村(開拓団)で団長などと話し合ったが、彼がもっとも関心を持ったのは共同経営(集団経営)と個人経営の問題だったようである。島木健作とは異なり、湯浅は共同経営の問題点をいろいろと指摘している。例えば、団全体の組合がかなり高度に発達している弥栄村でも、「Sと云ふ人が班單位で漬物の工場をやつてゐる」。しかし、「組合の機構から離れ勝ちになつて、班又は個人で企業的になつて行くことは、全體の均衡を破るし、危險率も大きいので注意され、摩擦も大きい」。このSのような人たちも「他の團や機構の中でなら大いに生かせるであらう」(『民族の緯絲』68頁)。また、「第六次龍爪[村]のやうに、集團經營を恒久的に續けて、土地の分割をせず、収穫物の管理を團、組合でやると云ふ場合に、現金収入を入れて郷里に送金したいなどと云ふ人が居たらどうだらう」(『民族の緯絲』67頁)。このように、湯浅は開拓団内の「班」や個々人の創意や意向を重視する考え方を取っていたようである。
1941年には、湯浅は南満洲の新台子・「紀州村」を訪ねた。新台子駅は南満州鉄道(満鉄)の奉天と鉄嶺の間にある駅で、「紀州村」は新台子駅から4、5キロメートルのところにあった。「紀州村」というのが正式の名前なのかどうか、湯浅の記述からははっきりしないが、和歌山県最南部・串本町沖合の大島から分村移民してきた村である。1939年9月に先遣隊が入り、翌1940年4月に、本隊53人が入植したということであるから、きわめて新しい移民村であった。自由移民として入ったので、拓務省からの補助はなく、和歌山県庁が移住費用を立て替えた。「紀州村」は奉天や鉄嶺などの都会に近いので、大根、白菜、ネギなどの蔬菜栽培を主としていたが、最初の年は気候の関係もあって失敗だった。しかし、翌年は気候にも恵まれ、大豊作で、人々は蔬菜栽培に自信を持てたようである。その夜には湯浅を囲んで座談会が講堂で開かれ、多くの人たちが集まって、いろいろと語りあった(『民族の緯糸』96‐110頁)。
湯浅は、このように、あまり視察団が行かなかった南満洲の移民村を含めて、満洲各地の移民村を歴訪していた。しかし、その関心はほとんど日本人移民の動向に限られていて、日本人の入植によって生活の基盤を破壊された満洲人や在満朝鮮人あるいは漢族の農民などにはほとんど目が届いていない。
5 『長篇小説 鴨緑江』
1942年5月、湯浅克衛は朝鮮総督府拓務課から派遣されて、東北満洲の亮子嶺新興農村を視察した。亮子嶺新興農村は、中国(当時は「満洲国」)と朝鮮の国境を流れる大河・鴨緑江に建設された巨大な水豊ダムによって土地が水没した朝鮮人農民たちが入植したところである。亮子嶺はハルビンと綏芬河を結ぶ北満鉄路・浜綏線のハルビンと牡丹江駅の間にある駅で、その西隣が亜布洛尼(ロシア語で「リンゴ」の意)駅である。この二つの駅の中間、北側一帯が亮子嶺新興農村であった(前号付図の⑥)。亮子嶺新興農村は新興屯、昌坪屯、昌城屯、双河屯、栄山屯、錦河屯、楚山屯の6集落から成り、それぞれ戸数90戸前後、村民数400人前後であった(佐々木甚八他「濱江省葦河縣亮子嶺新興農村の衞生状態に就て」『昭和醫學會雜誌』2巻4号[1940年]の各所)。
水豊ダムは朝鮮半島西南端の新義州で黄海に注ぐ鴨緑江の河口から80キロメートルほど上流の地点に建設された。「満洲国」や東洋拓殖株式会社(東拓)などの出資により、1937年に着工され、1941年8月に第1号発電機が送電を開始した。その後、他の発電機も順次発電を始めていったが、第二次世界大戦下、完成には至らなかった。
湯浅克衛は水豊ダムや亮子嶺新興農村における見聞などにもとづいて『長篇小説 鴨緑江』(晴南社、1944年)を書いた。『鴨緑江』の主人公は「大山英章」であるが、これは創氏改名した名前で、本名を崔英章という朝鮮人とされている。彼は亮子嶺新興農村・「昌平屯」(昌坪屯を指すのであろう)の「指導者」ということになっている。朝鮮人農民の満洲への移民(移住)を取り扱っている点で、この小説は湯浅の後期の作品の中では珍しいもののように見える。しかし、問題なのはそこに描かれた朝鮮人像である。以下、この点に絞って、『長篇小説 鴨緑江』を検討していくことにしたい。
「大山英章」は自分の村が水豊ダムの建設によって水没することを知ると、いち早く村人たちを説得して満洲・亮子嶺新興農村への移民(移住)に踏み切った。その「英章」が親戚の者を満洲に連れていくことを目的として、鴨緑江の故地に戻ったところからこの小説は始まる。
「大山英章」は新義州の港から定期船に乗って鴨緑江を遡り、水豊ダムに向かった。その込み合った船中で、「工科の學生」らしい一団がしゃべっているのを聞いた(『長篇小説 鴨緑江』6‐14頁)。
「湖底の村の連中はどうしたのかな、立退いたものだけで七萬人と云ふぢやないか」
「さうかね、七萬人もかね」[中略]
「水豊の湖底の村の立退き[先]も満洲ださうだな」
「よく靜かに行つたね。何も新聞に出なかつたぢやないか」
「七萬人と云つたら、大した數だぜ」
「小河内貯水池なんて比べものにも何にもならないのだからな。その六十倍あるんださうだ。[後略]」
「しかし、あと、六つ、貯水池が出來るんだらう」
「もう始まつている筈だ」
「上流は名にし負ふ、白頭山を頂く長白山系、あの蓋馬高臺だらう。鴨緑江はこんな大河で、そのくせ、まるで急流なのも、河がまるで傾斜してゐるんだね。それを階段式に、七ツのダムにしやうと云ふわけだ」[中略]
「すると、その湖底になる面積はどうなんだ」
「知らないね。何だか、流域面積は九州全體よりも大きいとか云ふんだがね」
「學生達の會話が續いてゐる間中、大山英章は緊張して、固くなつてゐた。頬がかあつと熱くなつたり、心臓がどきどきと鳴り出したり、はたと頬をたたかれたやうな思ひにもなつた」。「ああ、俺達は追拂はれる,何代も何代も、父が、祖父が、そのまた祖父が住み、永久だと思つてゐた土地から追拂はれる」、「さう云ふ氣持が何としても抜けなかつた」。「そこを、先程の學生達の會話でどやされたのである」。「英章」はこう思い至った。
自分達が移住して來たことが、そんな途方もない大きな計畫の中の一部分で、それが世界に示し得るやうな仕事になつてゐると云ふことを知つたときには、自分達もその一員であることが誇りたい氣持になつた。
鴨緑江ダム計画について「學生達」の言っていることはほぼ正確であるが、水豊ダム以外の六つのダムは結局完成しなかった。水豊ダム建設のために立ち退かされた朝鮮人の数が約7万人で、ダムの「流域面積」(降った雨や雪がその川に流れ込む地域の総面積)が九州全体より大きいというのもその頃よく言われていたことのようである。
しかし、朝鮮人「大山英章」が、先祖代々の土地を立ち退いたことによって、自分たちもこの「世界に示し得る」巨大なダム建設の「一員である」と思い至り、「誇りたい氣持」になったというのは、あまりにも身勝手な日本人作家の発想であろう。『長篇小説 鴨緑江』は国策文学以外の何物でもないのである。それは次のような個所では、さらに露骨な形で現れている。
「大山英章」は水豊ダムの内部を案内してくれた日本人事務員にこう語った(『長篇小説 鴨緑江』74‐75頁)。
「私達のやうに開拓團としてレツキとしてやつて行くと、倉庫だつて何だつて永久的なものを建てますし、それだけ匪賊達にも、大きくねらはれるわけです。もう匪賊は少なくなりましたが、對抗するだけの用意をして行つて居るのです。開拓團をやつてみると、まつたく計畫性がなければいけないことがわかります。その計畫性と云ふのは、何かに信頼なしには出來ないことなのです。その何かが、お恥ずかしい話ですがわからなかつたのです」
「何か……つて云ひますと」
案内の人は、やゝ不審氣であつた。
「え、その何かとは、國家なのですね」
「あゝ國家」
「 天皇陛下様のことを、私達は實感として知らないで來たのです。あなた達は、それは小さい頃から、衣食住全體を通じて、わかつてゐられるけれども、私達は、今から、生活の全部をあげてわからなければ、ならないところに來ています」
国家を信頼しなければ計画性をもって事に当たることができない、その国家とは「 天皇陛下様」のことだ、と朝鮮人「大山英章」に語らせる日本人作家・湯浅克衛は「カンナニ」の著者・湯浅克衛とはまるで別人のように感じられる。
〈付記〉
亮子嶺新興農村のその後については、資料がないようで、よく分からない。特に、1945年8月9日、ソ連軍が満洲に侵攻してきたとき、亮子嶺新興農村の人々がどうなったのかはまったく分からない。
おわりに
1942年5月、日本文学報国会が設立されると、大陸開拓文芸懇話会はそこに吸収併合され、その事業は日本文学報国会の大陸開拓文学委員会によって継承された。湯浅克衛も日本文学報国会に加わり、大陸開拓文学委員会の一員となった。1943年になると、日本文学報国会内に皇道朝鮮研究委員会が設立され、湯浅はその常任委員に任命された。小説「オリンポスの果実」で知られる田中英光もその一員であった。田中は横浜護謨株式会社の京城支店に長く勤務していたので、皇道朝鮮研究委員会に加わることになったのであろう。皇道朝鮮研究委員会の一つの活動は埼玉県入間郡高麗村(現、埼玉県日高市新堀)の高麗神社に参詣することであった。湯浅自身も1943年10月と1944年1月に、皇道朝鮮研究委員会の他の会員たちとともに高麗神社に参詣している。高麗神社は、湯浅や田中英光も鼓吹していた日鮮同祖論の象徴と見なされていたのであろう。
1943年、朝鮮文人報国会が結成され、1944年6月、決戦態勢即応在鮮文学者総蹶起大会を開催した。湯浅はこれに日本文学報国会の代表として参加し、朝鮮文人報国会の幹事となった。その後、湯浅は朝鮮総督の文化顧問に任命された。この間に、湯浅は妻子を伴って朝鮮・水原に疎開した。1945年8月15日、日本の敗戦を迎えた湯浅は朝鮮に残留することを望んでいたが、結局、同年9月家族ともども日本に帰った。その後の湯浅については、ここでは省略する(湯浅の経歴に関しては、池田浩二編『カンナニ・湯淺克衞植民地小説集』に収載されている梁禮先「湯淺克衞年譜」を参照した)。
(「世界史の眼」No.65)https://riwh.jp/2025/08/
유아사 카츠에의 조선과 만주(上)―「식민지 문학」의 변질
오타니 야스유키
소개
1 「칸나니」
2 천황제 국가에 의한 사상·언론 탄압
3 「이민」과 「선구 이민」의 사이 (이상 , 본호
)
4 만주 이민촌 역방
5
소개
유아사 카츠에(본명, 유아사 맹. 1910-82년)라는 작가를 아는 사람은 지금은 적을 것이다. 다만 어린 소년기를 보낸 조선을 고집한 이색의 작가로서 그 공죄를 포함해 검토할 만한 작가라고 생각한다.
유아사는 가가와현의 젠도지에서 태어났다. 아버지는 현지의 제캔 공장에 근무했지만, 유아사의 유년기에 해고되어 그 후는 식민지·조선의 일본군·수비 대원으로서, 조선 각지를 전전으로 했다. 1916년 아버지가 조선총독부의 순사시험에 합격하여 수원에서 순사로서의 근무를 했다. 수원은 당시 경성(현 서울) 남쪽 35㎞ 정도에 위치한 경기도의 중심도시다. 18세기 말에는 그 땅에 화성이 건설되어 수원은 성벽으로 둘러싸인 성곽 도시가 되었다. 조선왕조는 당시 수부를 수원으로 옮기는 것도 생각했다고 한다. 아버지의 수원 부임에 따라 유아사는 수원 심상초등학교에 입학했다. 1922년에는 동 초등학교를 졸업하고 당시 명문교 경성 중학교에 진학했다. 유아사는 1학년 때는 수원에서 기차로 통학하고 있었지만, 통학 시간이 너무 걸리기 때문에, 2학년부터는 기숙사에 들어갔다.
경성 중학교에서는 나중에 '명인전', '제자', '이릉' 등 한적에 재를 취한 작품으로 유명해지는 나카지마 아츠시와 4년간 동급이었다(나카지마는 4년 수료로 졸업해, 제1 고등학교에 진학했다). 유아사의 회상기에 따르면 유아사는 두 번 나카지마에 도왔다는 것이다. 한번은 3학년 때였고, 수학이 싫은 유아사는 수학 시간에 교과서에서 숨기면서 '개조'를 읽고 있었다. 『개조』라고 하면, 당시의 대표적인 「좌익잡지」이다. 유아사는 훔치고 있는 곳을 수학의 선생님에게 발견해, 위험하게 정학이 되는 곳이었지만, 나카지마가 사이에 들어가 경성 중학교의 「도서실 감금」 2주간으로 결착했다고 한다. 다시 한번은 4학년 때, 유아사의 기숙사의 책상에서 타니자키 준이치로의 '치인의 사랑'이 발견되어 이 때도 정학처분이 걸렸다. 그러나, 나카지마나 사 감장의 선생님의 진력으로 기숙사의 「도서실 감금」1주일에 끝났다고 한다(유아사 카츠에 「아츠시와 나」, 「쓰시타라 3」3-4페이지. 「쓰시타라」는 문치당 서점판 「나카지마 아츠시 전집」 각권의 부록). 이러한 사건이 있었던 것은, 유아사가 15, 6세 때였기 때문에, 유아사는 한편으로 「개조」를 읽으면서, 다른 한편으로는 「치인의 사랑」을 읽는 등, 조금 기발하고 조숙한 문학 소년이었을 것이다.
1927년 유아사는 게이죠 중학교를 졸업하고 도쿄에 나섰다. 다음 1928년에는 와세다 다이이치 고등학원에 입학했다. 당시 와세다 다이이치 고등학원은 수업연한 3년으로 수료하면 와세다대학 학부에 무시험으로 입학할 수 있었다. 그러나 유아사는 1929년 '근대문예연구회' 사건에 연좌하여 와세다 다이이치 고등학원을 퇴학시켰다. 게이죠 중학교 시절에 '개조'를 읽고 있던 유아사는 와세다에서 '좌익'적인 서클 '근대문예연구회'와 연결을 가졌을 것이다. 유아사는 퇴학 후 수년간, 그 이상의 학력을 요구하지 않고, 「문학 수행」에 전념하고 있던 것 같다.
1 「칸나니」
유아사 카츠에의 처녀작 「칸나니」는 「문학평론」의 1935년 4월호에 게재되었다. 시마키 켄사쿠의 '호'가 '문학평론'에 게재되어 딱 1년 후이다. 그때 유아사는 아직 25세였다. 그러나 '칸나니'의 '문학평론' 게재에는 여러가지 곡절이 있었다.
「문학평론」에 게재된 「칸나니」는, 수원의 일본인 순찰의 아들로 초등학교 5학년의 류지와 그보다 2세 연상의 조선인 소녀·칸나니(이구모. 보통 학교 야간부 5학년으로 여겨지고 있다. 보통 학교는 조선인자동생을 위한 초등학교)와의 정 다만, 그것 뿐만이 아니라, 이 소설은 식민지 지배하에 놓여진 조선의 사람들의 생활이나 감정, 그리고 조선인과 일본인 식민자 사이의 관계 등에 대해서, 소년의 눈-그것은 초등학교 입학 이전부터 중학교 졸업까지 10년 이상을 조선에서 살았던 유아사의 눈으로 바꿔볼 수 있다-를 통해 리얼하게 그린.
류지는 조금 전에 우연히 알게 된 칸나니와 곧 친해졌다. 하지만, 함께 있어도, 「뭐라고 말을 걸면 좋을까, 모르겠다. 그러자, 칸나니가 [조선어로]『』라고 말했다.」 "그리고 수상한 류지의 얼굴에 이번엔 일본어로 '순사의 아들과 놀아야 카칸' 아버지가 말했다"고 계속했다. 류지는 이렇게 응답했다. 「어째서 싸움의 아야」 「아버지는 일본인 대혐히… “순사는 아쉬운 일은 없고, 순사는 아쉬운 일을 하거나, 아무것도 하는 놈을 퇴치하는 역이야. [후략] ” 하지만 여자아이는 음란하게 웃음을 짓는다. 나의 집에서도-와 강나니는 운후다--... 가진 테타 타바타는 어느새인가 「××」[복자인가? 복원판 '칸나니'에서는 '새로운 지주']의 것이 되었다. 그런 것은 없기 때문에 깎아 넣으면, 순찰이 가서 깨어서 아버지를 받자마자 넣고, 아버지가 짓고 있던 서당은, 아쉬운 것을 아이등에게 가르친다 그러니까… (이케다 히로시 편 '칸나니·유기 카츠오 식민지 소설집' 임팩트 출판회, 1995년에 복각된 '문학 평론'판 '칸나니' 503-504 페이지.お前巡査の子な
이 시대에는 이런 문장을 발표하는 것만으로도 힘든 일이었을 것이다. 그것은, 「문학 평론」판 「칸나니」의 말미에, 도쿠나가 나오의 붓이 되는, 이하와 같은 「부기」가 있는 것으로부터도 알 수 있다. 도쿠나가는 「문학평론」의 편만 상담역과 같은 입장에 있었기 때문에, 「칸나니」 게재 여부에 대해서, 편배장・와타나베 준조로부터 판단을 요구받았을 것이다.
(부기, 「칸나니」는, 작자로부터 반년만도 예전에 한 작품이었지만, 그 성질상, 타마 에 어려웠다 . 가 다루어져 있다. 「칸나니」의 작자는 후반을 따로 구묘를 다시 쓰면 말할 수 있기 때문에, 또 언제나 맹자의 눈에 빠지는 기정이 있다고 생각한다. (이케다 히로시 편 「칸나니・유기 카츠오 식민지 소설집」에 복각된 「문학 평론」판 「칸나니」519페이지)却々こん度尚
이와 같이, 「문학평론」판 「칸나니」에서는, 원 「칸나니」에 있어서의 「육」으로부터 말미까지의 400자필 원고 용지 46장분이 모두 삭제되고 있다. 이 부분에서는 만세 사건(3·1조선 독립운동, 1919년)이 다루어지고 있으며, 이로 인해 검열을 통과하지 못했다고 생각한 도쿠나가가 이 '후반' 부분을 모두 삭제한 것이다.
이케다 히로시 편 「칸나니・유기 카츠리 식민지 소설집」 따라서 살해되었다는 것이 시사되고 있다(단, 이 복원판은, 원 원고가 없어져 있었기 때문에, 유아사가 10년전의 기억에만 기초해 작성한 것으로, 원 「칸나니」 그 자체인지 어떤지 의문의 여지가 있을 수 있다).
도쿠나가는 한층 더 일본인의 고등 초등학교생이나 초등학교 고학년생이 조선인의 한 소녀에게 성적 폭행을 가하고 있는 장면의 일부 등 검열에서 문제가 될 것 같은 부분을 많이 삭제하고 있다. 도쿠나가는 이러한 삭제에 의해 '무참한 모습'이 된 '칸나니'에서도 '문학평론'에 게재할 만하다고 생각했을 것이다. 그 판단이 실수였다고는 생각하지 않지만, 『문학평론』판 ‘칸나니’와 복원판 ‘칸나니’에서는 독후의 인상이 미묘하게 다른 것도 사실이다. 만약 복원판 '칸나니'의 '후반'이 하라 '칸나니'의 '후반'과 같다면 하라 '칸나니'는 뛰어난 '식민지 문학'이었다고 할 수 있다.
2 천황제 국가에 의한 사상·언론 탄압
'칸나니'가 '문학평론'에 게재된 1935년경에는 천황제 국가에 의한 사상·언론탄압이 정점에 도달하려고 했다. 그것은 일본 제국주의에 의한 중국 대륙 침략의 확대와 궤적을 일으키는 것이었다. 그 과정에서 많은 사람들이 '전향'을 빼앗겼다.
시마키 켄사쿠는 1928년 ‘3·15 사건’에 연좌해 금고 5년 형에 복복하고 폐결핵의 중증화에 따라 이듬해 ‘전향’을 표명했다. 시마키는 1932년, 형기를 일년 남겨 가석방되었지만, 1936년 11월, 사상범 보호 관찰법이 시행되면, 시마키도 그 대상자로 되었다. 치안유지법 위반으로 유죄로 되어 가석방된 몸이었기 때문이다.
'3·15 사건' 이후에도 엄격한 탄압이 계속됐지만 특히 1933년에는 많은 충격적인 사건이 일어났다. 같은 해 2월, 「게공선」등의 작품에 의해 알려진 작가 고바야시 타키지가 검거되어, 츠키지서에서 고문에 의해 학살되었다. 6월에는 일본 공산당 간부의 사노학과 나베야마 사다토모가 옥중에서 「전향」을 성명했기 때문에, 그 후, 일본 공산당원의 「전향」이 속출했다.
같은 1933년, 타카미순도, 「일본 프롤레타리아 작가 동맹」(나르프)·성남 지구의 「책임자」로서, 치안 유지법 위반의 혐의로 검거되었다. 타카미는 '1년간 기소유보처분'을 받았지만 반년 후에 불기소가 됐다. 타카미가 「전향」을 표명했기 때문일 것이다. 그러나 사상범 보호관찰법이 시행되자 치안유지법 위반의 혐의로 검거된 적이 있는 타카미는 그 대상자로 여겨져 한 달에 한번 도쿄 센다가야의 보호관찰소에 출두할 것을 의무화했다(타카미순 『대담 현대문단사』 치쿠마 타카시, 1973년, 1986년, 1986년
도쿠나가 나오는 이런 사상·언론 탄압 상황에서 정치와 문학의 관계를 둘러싸고 정치를 우선하는 구라하라 유토들과 대립해 일본 프롤레타리아 작가 동맹을 탈퇴했다. 이것은 실질적인 "전향"이라고 할 수 있습니다.
동시에 ‘좌익잡지’에 대한 탄압도 강화됐다. 1936년 시마키 켄사쿠의 '호'와 유아사 카츠에의 '칸나니'를 게재해 온 '문학평론'은 출판원·나우카사의 사주인 오타케 히로요시가 소련의 스파이 혐의로 체포된 것에 의해 종간이 되었다. 「좌익」계 작가의 작품 발표의 장이 잇달아 소멸해 가는 가운데, 1936년 3월에는 다케다 칸타로 등에 의해 문예지 「인민문고」가 창간되었다. 편집장은 혼쇼리쿠 남자로, 유아사 카츠에도 이 잡지에 많은 문장을 기고했다. 이 잡지도 경찰에 노려져 있던 것 같고, 1936년 10월 25일, 「인민문고」에 관계하고 있던 작가들이 신주쿠의 다방·「」에 모여 있던 곳을, 경관대에 밟혀, 혼조리쿠남이나 유아사 카츠에, 타미야 토라히코, 타무라 야스지로, 타무라 야스지로. 다만 혼조와 유아사 이외는 그날 밤에 석방되어 혼조와 유아사도 며칠 후에는 석방되었다. 이 '인민문고'도 1938년에는 폐간을 뒤흔들었다.大山
이러한 사상·언론 탄압 상황 속에서 유아사 카츠에의 문학에도 큰 흔들림이 일어나 왔다. 유아사의 '칸나니' 등 초기 작품은 식민지 조선에서의 조선인과 일본인 식민자의 생활을 자신의 소년시의 체험을 통해 리얼하게 그리는 곳에 장점이 있었지만, 차라리 그것이 희미해져, 관념적이고 국책 문학적인 방향으로 기울여 간 것이다.
유아사의 문학에서 이러한 흔들림은 사상·언론탄압과 함께 강화되어 가는 사상·언론의 국가통제에도 관계하는 것이었다. 1939년 2월 대륙 개척 문예 간담회가 타무성 뒤 방패로 결성되었다. 국책으로서의 대륙 개척에 기여하는 문학을 목표로 한다는 것이 그 목적이었다. 스스로 원하는지 어떨지는 모르지만 조선 체험이 풍부한 유아사도 대륙 개척 문예 간화회에 합류해 그 중심을 이루는 6명의 위원 중 한 명이 되었다. 그 후 유아사는 일본과 조선과의 사이를 자주 오가며, 종종 조선에서 중요한 위치를 차지하게 되었다. 조선문단에서는 조선어로 쓰여진 작품의 발표가 곤란해져 조선인 작가도 일본어(당시의 표현에서는 '국어')로 쓸 수밖에 없었다.
3 「이민」과 「선구 이민」간
유아사 카츠에는 '칸나니'에서 볼 수 있는 조선인의 생활과 감정에 대한 관심을 자주 잃고 조선이나 만주에 거주하는 일본인의 문제에 관심을 집중시켜 나갔다. 그 일환으로 조선과 만주로의 일본인 이민을 주제로 하는 작품과 르포르타주를 많이 발표하게 됐다.
조선에 대한 일본인 이민 문제를 주제로 하는 최초의 작품은 '이민'('개조' 1936년 7월호)이다. 산인지방의 가난한 소작인 '마츠무라 마츠지로'는 도요타쿠쇼 주식회사(도쿄)에 의한 조선으로의 이민 모집에 응모해 조선에 건넜다. 러일전쟁이 끝나고 5년 후인 1910년으로 여겨지고 있다. 그러나 동택이 마련한 입식지는 조선북부 산간의 황무지였다. '마츠지로'는 처음에는 실망했지만, 25년의 '연부'를 도쿠에 납입하고 끝나면, 이 3정보 정도의 토지가 자신의 것이 된다고 생각해 신경을 썼다. 「마츠지로」와 아내의 「아니」는 아침 일찍부터 일해, 타바타를 조금씩 정비해 갔다. 그런 야사키, 「아니」가 폐를 앓고 고통받은 끝에 죽어 버렸다. 「아니」를 집이나 타바타의 잘 보이는 작은 높은 언덕 위의 묘지에 장례했을 때, 「마츠지로」는 이 땅 이외에 자신의 고향은 없다고 생각했다. 그래서 부근의 조선인 농민들과 친하게 교제했다. 조선인 농민들도 '마츠지로'를 신뢰하고 그의 인가의 딸을 후처로 하도록 권하고, '마츠지로'도 그것을 받아들였다. 이렇게 ‘마츠지로’는 조선인 사회 속에 녹아들었다. '마츠지로'가 죽었을 때에는 조선인 농민들의 손에 의해 '마치 귀인의 장례식'과 같은 장제가 열렸다.
이 작품은, 여러가지 비판의 여지는 있을 수 있다고 해도, 적어도, 조선인 농민들과 일본인 입식자와의 교류를 대등에 가까운 형태로 그리고 있는 점에서, 국책 문학적이라고까지는 말할 수 없을 것이다.
한편, 만주로의 일본인 이민을 최초로 취급한 것은 「선구 이민」(『개조』 1938년 12월호)으로, 이것은, 1933년에 타쿠무성에 의해 도호쿠 만주에 송출된 제2차 무장 이민단에 관계되는 사실을 근거로 한 작품이다. 이 제2차 무장이민단은 「」지역에 입식했기 때문에, 그 입식지는 「마을」이라고 칭해졌다(부표의 ③). 제2차 무장이민단도, 제1차 무장이민단(1932년 송출. 입식지는 영풍진으로, 야에이무라라고 불렸다.부도의 ②)와 같이, 전국의 재향 군인으로 이루어진 이민단으로, 현지의 무장 세력과의 전투를 상정하고 있었다. 이 두 이민단은 '선구 이민'이라고 불렸다.七虎刀千振
‘선구이민’이라는 작품은 이 제2차 무장이민단이 놓여 있던 상황을 큰 틀로 그 안에 한 명의 ‘좌익 무너짐’ 같은 단원·‘쿠로세 육조’를 조형하고 그의 다른 단원과는 다른 언동을 그린 것이다. 그 마지막 부분에서는 이 200명 부족 무장이민단이 4000명 정도의 '전적'으로 둘러싸여 농성 상태가 된다. 구원을 구하기 위해 '밀사'가 보내지지만 아무도 돌아오지 않는다. '천적'에 붙잡혀 참살당했음에 틀림없다. 그때 '쿠로세 리쿠스케'가 6번째 '밀사'로 자칭을 올리고 발송되지만, 그로부터 5일이 지나도 돌아오지 않는다. 「쿠로세 육조」의 생사는 불명인 채로, 구원 부대가 도착해, 제2차 무장 이민단은 구해진다.
이 작품에서 유아사의 관심은 유일하게 일본인 이민들의 동향에 국한되어 일본인의 입식에 저항하는 만주인과 재만조선인들은 모두 '애적'으로 취급되고 있다. 그 점에서 바로 국책문학이라는 작품이다. 이처럼 '이민'(1936년)과 '선구이민'(1938년) 사이에 유아사의 흔들림의 경계를 볼 수 있다.
(다음호에 이어)
(「세계사의 눈」No.64)

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