김달수 (소설가)
김달수 金達寿 | |
|---|---|
| 본명 | 김달수 |
| 로마자 표기 | Kim Dal-su |
| 출생 | 1919년 경상남도 창원군 (현재의 경상남도 마산시) |
| 사망 | 1997년 5월 24일 |
| 성별 | 남성 |
| 국적 | 대한민국 |
| 직업 | 소설가 |
김달수(金達寿, 1919년 - 1997년 5월 24일)는 일제강점기 경상남도 창원군(현재의 경상남도 마산시) 출신의 소설가이다. 재일 한국인 문학자의 효시라고 한다. 김달수는 10살에 한반도에서 일본으로 이주했다. 한국 상주문학의 '창시자'로 평가된다. 마산회원구에서 태어났다. 그는 인생의 대부분을 일본에서 보냈지만 그의 문학 작품 중 다수는 한국을 배경으로 하며 식민지 지배의 부당함과 그 고통스러운 여파를 탐구한다.
金達寿
金 達寿 (김달수:キム タルス / キム ダルス) | |
|---|---|
『新日本文学全集 第13巻』(集英社、1965年3月) | |
| ペンネーム | 金達寿, 大澤達雄, 金光淳, 朴永泰, 孫仁章, 金文洙, 白仁 |
| 生誕 | 金達寿 1920年1月17日(陰暦1919年11月27日) |
| 死没 | 1997年5月24日(77歳没) |
| 墓地 | 冨士霊園(静岡県駿東郡小山町大御神888-2) |
| 職業 | 小説家・古代史研究者 |
| 言語 | 日本語・朝鮮語 |
| 最終学歴 | 日本大学専門部芸術科 |
| 活動期間 | 1940年 - 1996年 |
| ジャンル | 小説・古代史 |
| 文学活動 | 新日本文学会・文学芸術社・2日会・リアリズム研究会・現代文学研究会等 |
| 代表作 | 『後裔の街』(1948年) 『玄海灘』(1953年) 「朴達の裁判」(1958年) 『太白山脈』(1959年) 『日本の中の朝鮮文化』(全12巻 1970-91年) |
| 主な受賞歴 | 平和文化賞(1957年)、青丘文学賞(1974年) |
| デビュー作 | 「位置」(1940年) |
| 子供 | 1人 |
| 金 達寿 | |
|---|---|
| 各種表記 | |
| ハングル: | 김달수 |
| 漢字: | 金 達寿 |
| 発音: | キム タルス、キム ダルス |
| 日本語読み: | きん たつじゅ |
金 達寿(キム・タルス/キムダルス、김달수、1920年〈大正9年〉1月17日(陰暦1919年11月27日) - 1997年〈平成9年〉5月24日)は、在日朝鮮人小説家・古代史研究家。朝鮮民主主義人民共和国・朝鮮総連を強く支持していたものの、実態を知り、1981年に韓国訪問以降は第三者の立場を取った[1]。
経歴・人物
青年期まで
日本統治下朝鮮の慶尚南道昌原郡内西面虎渓里(現・大韓民国慶尚南道昌原市馬山会原区)に、中農の地主の三男として生まれる[2]。父・金柄奎、母・孫福南、長兄・金声寿、次兄・金良寿、妹・金ミョンス[3]がいた。
父柄奎が遊蕩に耽り、破産[4]。1925年(大正14年)、金達寿が5歳の時、両親は長男声寿と妹ミョンスを連れて、内地に渡る[5]。良寿・達寿は祖母と暮らすが、1928年(昭和3年)頃に次兄良寿が病死し、次いで内地から父親の訃報が伝えられる[6]。以後、達寿は祖母と二人で極貧生活を送る[7]。
1930年(昭和5年)10歳の時、長兄声寿に連れられて内地に渡る[1][8]。祖母は娘の嫁ぎ先に引き取られたが、数年内に死去した[8]。
1931年(昭和6年)、東京市立大井尋常夜学校1年生に入学し、読み・書き・算術という簡単なものであるが、初めて日本語で教育を受けた[9]。1932年(昭和7年)末、東京府荏原郡源氏前尋常小学校3年生に編入[10]し、5年生まで過ごすが、6年生に進級したところで貧困のため退学[11]。以後、苦学しながら独学で文学を学んだ。その過程で志賀直哉の小説に出逢い、大きな影響を受ける[12]。
日本大学専門部芸術科在学中の1940年(昭和15年)に最初の作品「位置」を発表し、その後も大学の雑誌や『文芸首都』に小説を発表する。1941年(昭和16年)12月に卒業後、1942年(昭和17年)1月20日に神奈川日日新報社の社会部記者となる[13]。同年2月に同社は同業他社と合併し、神奈川新聞社となった。在職中、日本人女性と恋愛するが、意識の違いに耐えられず、1943年(昭和18年)春、衝動的に京城に旅行し、強引に京城日報社に入社するとともに、日本人女性に離別の手紙を書く[14]。しかしその後、京城日報社が朝鮮総督府の御用新聞社であることを知り衝撃を受け、1944年(昭和19年)2月に神奈川に戻り、1ヶ月ほど後に神奈川新聞社に復社した[15]。
文学活動の開始
本格的な文学活動は、第二次世界大戦終戦後の1946年(昭和21年)4月から、自身が創刊から3年間編集長を務めた日本語雑誌『民主朝鮮』に連載を始めた長編小説『後裔の街』に始まる。骨太な文体で書かれたその作品は「朝鮮的なるもの」「民族的なるもの」を軸とし、日本人に対して痛烈な戦争責任を突きつけるものとして、思想を支持する日本人と在日朝鮮人の両方からは高い評価を受けた[16]。以後、『玄海灘』(『新日本文学』1952年(昭和27年)1月-1953年(昭和28年)11月。1954年(昭和29年)1月刊)-『太白山脈』(1969年(昭和44年))へと展開した。ただし金達寿自身は、『玄海灘』執筆中に自分の文学の限界を痛感し、志賀の文学を通じて学んできた自然主義リアリズムとの文学的闘争を開始した[17]。
戦前の1941年(昭和16年)から『文芸首都』の同人となり、戦後は1946年(昭和21年)10月に新日本文学会会員となった[18]。『文芸首都』は朝鮮人先輩作家として金史良が活躍した雑誌でもあり、後輩には金泰生や金石範がいた。『新日本文学』には初期の代表作である「玄海灘」の連載など多くの作品を発表して、『民主朝鮮』とともに金達寿が足場を置いた二大拠点であった。
1957年(昭和32年)、霜多正次・西野辰吉・窪田精・小原元とともにリアリズム研究会を結成した。その後も日本民主主義文学同盟の結成に参加し、雑誌『民主文学』の名を考えるなど、民主主義文学運動の中でも活躍した。
雑誌『民主朝鮮』
1946年初頭、在日本朝鮮人連盟の神奈川県本部と横須賀支部で常任委員を兼ねていた金達寿の「朝鮮と朝鮮人とに対する日本人の誤った認識を正すための雑誌を出したい」という発案で、出資者の趙進勇を社長に、朝連の横須賀支部を事務所に同年4月に創刊、金が編集長を務めた[19]。当初、雑誌名は『朝鮮人』を予定していたが、朝連神奈川県本部委員長の韓徳銖の提案で『民主朝鮮』に決定した[19](前年に同名の北朝鮮政府機関誌の日刊紙が発刊している)。
創刊号はほとんど金達寿と元容徳(立教大学卒、朝連神奈川本部外務部長、筆名に金哲、林勲)が執筆し、その後在日朝鮮人作家のほか、朝鮮文学家同盟を中心とした本国の作家や、日本人の文学者や左翼的知識人の投稿も増えていった[19]。紙面構成は文学関係を中心に経済関係論文や記事,日本人との座談会などがあり、在日朝鮮人作家の日本語による作品は在日朝鮮人文学の確立に大きく寄与した[19]。
1949年9月に朝連が解体、1950年6月に朝鮮戦争が勃発し、雑誌『民主朝鮮』も同年7月の第33号をもって終刊となった[19]。
北朝鮮への接近・訣別
金達寿はもともと民族主義的青年[20]で、朝連も大衆団体として出発したが、朝鮮民主主義人民共和国建国後、「北」共和国を支持する立場へと押し出される形になった。「差別のない国」「労働者が主人公の国」を表向き旗印にしていたため、実態は知らずとも北朝鮮を強く支持していた[1]。
1958年(昭和33年)に発行された『朝鮮――民族・歴史・文化』が朝鮮総連に批判されていたものの、1959年(昭和34年)から本格化した在日朝鮮人・その日本人妻家族らの帰国事業を積極的に支援する原稿も書いていて、金達寿の親族にも帰国事業で北朝鮮に渡った人がいた[1]。
1960年代を通じて少しずつ「北」支持の立場から遠ざかるようになった。北朝鮮は1967年(昭和42年)の党中央委員会第4期第15次全員会議で唯一指導体制を打ち出し、個人崇拝を強要し始めた。1970年代に入ると、金日成主席の長男である金正日総書記を後継者に指名する動きが起きた。この頃から「北朝鮮のやり方はおかしい」と反発し、北朝鮮・朝鮮総連と袂を分かった[1]。伝聞によれば金達寿は1972年(昭和47年)に朝鮮総連から除名された。
しかし南北統一の夢を諦めることなく、1975年(昭和50年)に『季刊三千里』を李進熙・姜在彦らと創刊した。韓国の軍事独裁政権を批判する記事が目立ったが、朝鮮総連は関係者らに対し、『三千里』を読まないよう指導した。金達寿が主導した雑誌「日本のなかの朝鮮文化」を当時愛読していた在日朝鮮人は「金達寿は在日に誇りを取り戻してくれた人物だった。でも、総連から出て行った人間が活躍するのは面白くない、という雰囲気だった」と証言している。金達寿たちは『三千里』で、総連機関紙がしていた「反民族的行動」という批判へ反論していた[1]。金達寿らは東京都調布市にある呉文子の自宅で『三千里』の編集会議を開くことがあったが、金達寿はよく「今の北朝鮮は間違っている」と主張する一方、「社会主義はこんな思想ではないはずだ」とも語っていた。呉によると当時は韓国に比べて、北朝鮮の実態は十分明らかになっていなかった。そのため、帰国した在日朝鮮人が悲惨な生活をしていることは把握していたものの、まだまだ美化されたものが残っていた。呉は「北朝鮮を批判する日本人も少なかった時代で、金達寿先生も北朝鮮を見限ることができなかったのでしょう」と語っている[1]。
韓国訪問
その後、全斗煥政権下の1981年(昭和56年)に、在日朝鮮人「政治・思想犯」の助命や減刑を嘆願する目的で韓国を訪問したことにより、金石範や金時鐘(2003年(平成15年)韓国籍取得)ら北朝鮮に親和的・韓国に批判的である在日朝鮮人・左翼日本人からは総攻撃・批判を受けた。金達寿は製鉄所や造船所など「漢江の奇跡」と呼ばれるほど発展した祖国を見て、「総連は、韓国では子どもが空き缶を持って物乞いをしていると教えていましたから今浦島の気分だ」と語っていた。在日朝鮮人らで出版していた『季刊三千里』も、韓国の実態を知って以降は、軍事独裁政権批判の論調から、韓国にも北朝鮮にも組しない南北統一を願う第3勢力のような論調に傾いていった[1]。
朝鮮総連系の金融機関に勤めていた金達寿の長男は朝鮮総連に批判されていた父親の影響で昇進ができなくなり、父親と徐々に疎遠になっていった。長男は体を壊し、金達寿の死後に亡くなった[1]。2021年(令和3年)11月に呉文子は「今、金達寿先生が生きていれば、前面に立って、北朝鮮を批判し、人権や民主化運動の先頭に立っていたでしょう」と語る。「気持ちの熱い人でした。自分の立場が悪くなろうとも、悪いことは悪いとはっきり語る人でしたから」と話している[1]。
1974年(昭和54年)4月、朴正熙の独裁政権に反対するデモを起こした大学生らのうち180人が拘束される「民青学連事件」が発生[21][22]。7月16日までに、金芝河ら14人に死刑、15人に無期懲役、日本人の太刀川正樹と早川嘉春を含む26人に懲役15年から20年の刑が科せられた[23][24]。7月21日に金の死刑は無期懲役に減刑されるも[25]、金達寿、鶴見俊輔、李進熙、針生一郎ら4人は「金芝河氏ら全被告を釈放せよ」と抗議し、7月27日から30日にかけて数寄屋橋公園でハンガー・ストライキを行った[24][26][27]。
晩年
創作活動が1982年(昭和57年)の『行基の時代』で終わったのに対し、「日本の中の朝鮮文化」シリーズはライフワークとして晩年まで続けられた。『民主朝鮮』・『文学芸術』・『新朝鮮』・『鶏林』・『リアリズム』(のち『現実と文学』と改題)・『日本のなかの朝鮮文化』・『現代と文学』・『季刊三千里』・『季刊青丘』など、〈解放〉後だけでも累計200冊以上の雑誌を編集した。
保存・展示
神奈川近代文学館では、2003年に金達寿の著作権継承者から原稿や書簡など1万点あまりを寄贈され、「金達寿文庫」として保存している[28]。2020年12月12日から、スポット展示・収蔵コレクション展19「生誕100年 金達寿展」が開催された[28][29]。新型コロナウイルス感染拡大による緊急事態宣言のため同館が臨時休館となり[28]、会期が中断し、5月22日から再開催された[30][31]。
著作
小説
- 『後裔の街 : 長篇小説』朝鮮文芸社、1948年3月1日。NDLJP:1703377。
- 『叛乱軍』冬芽書房、1950年
- 『富士のみえる村で』東方社、1952年
- 『玄海灘』筑摩書房、1954年 のち青木文庫、講談社文庫
- 『前夜の章』東京書林、1955年
- 『故国の人』筑摩書房、1956年
- 『日本の冬』筑摩書房、1957年
- 『番地のない部落』光書房、1959年
- 『朴達の裁判』筑摩書房、1959年
- 『夜きた男』東方社、1961年
- 『密航者』筑摩書房、1963年
- 『中山道』東方社、1963年
- 『公僕異聞』東方社、1965年
- 『太白山脈』筑摩書房、1969年
- 『小説 在日朝鮮人史』創樹社、1975年(短編集、全2巻)
- 『落照』筑摩書房、1979年4月
- 『対馬まで』河出書房新社、1979年10月
- 『金達寿小説全集』筑摩書房、1980年(全7巻)
- 『行基の時代』朝日新聞社、1982年3月
評論・エッセイ
- 『私の創作と体験』葦出版社、1955年
- 『朝鮮 -民族・歴史・文化-』岩波新書、1958年
- 『日本の中の朝鮮文化 その古代遺跡をたずねて』講談社、1970-1991年(全12巻)
- のち講談社文庫(全12巻)、講談社学術文庫(3巻まで刊行)
- 『古代文化と「帰化人」』新人物往来社、1972年
- 『古代遺跡の旅 飛鳥ロマンを散歩する』サンケイ新聞出版局、1972年
- のち『飛鳥ロマンの旅』に改題し河出文庫
- 『日本古代史と朝鮮文化』筑摩書房、1976年
- のち『日本古代史と朝鮮』に改題し講談社学術文庫
- 『金達寿評論集』筑摩書房、1976年
- 上巻「わが文学」、下巻「わが民族」
- 『日本の中の古代朝鮮』学生社、1979年1月
- のち『古代朝鮮と日本文化』に改題し講談社学術文庫
- 『古代日朝関係史入門』筑摩書房、1980年2月
- 『故国まで』河出書房新社、1982年4月
- 『私の少年時代 差別の中に生きる』ポプラ社、1982年8月
- 『古代日本と朝鮮文化』筑摩書房、1984年9月
- 『古代の日本と朝鮮』筑摩書房、1985年9月
- 『渡来人と渡来文化』河出書房新社、1990年12月
- 『見直される古代の日本と朝鮮』大和書房、1994年6月
共編著・対談
- 司馬遼太郎、上田正昭『日本の朝鮮文化 座談会』中央公論社、1972年
- 司馬遼太郎、上田正昭『古代日本と朝鮮 座談会』中央公論社、1974年
- 司馬遼太郎、上田正昭『日本の渡来文化 座談会』中央公論社、1975年
- 谷川健一『日本文化の源流を求めて 討論』筑摩書房、1975年
- のち『古代日本文化の源流』に改題し河出文庫
- 『日本と朝鮮 金達寿対談集』講談社、1977年6月
- 姜在彦『手記=在日朝鮮人』竜渓書舎、1981年6月
- 司馬遼太郎、陳舜臣『歴史の交差路にて 日本・中国・朝鮮』講談社、1984年4月
- 『回想 唐木邦雄』審美社、1987年2月
- 谷川健一『地名の古代史 近畿篇』河出書房新社、1991年6月
- 谷川健一『地名の古代史 九州篇』河出書房新社、1988年8月
翻訳
- 李箕永『蘇える大地』ナウカ社、1951年(朴元俊共訳)
自伝
- 『わがアリランの歌』中公新書、1977年6月
- 『わが文学と生活』青丘文化社、1998年5月
研究文献
関連項目
脚注
- “司馬遼太郎と親交結んだ在日朝鮮人作家 北朝鮮を支持、そして裏切られた(GLOBE+)”. Yahoo!ニュース. 2021年11月24日閲覧。
- 金達寿『わがアリランの歌』(1977年 中公新書)p.3。
- 同前、pp.3-4。
- 同前、pp.9-10
- 同前、pp.9-10。
- 同前、pp.12-15。
- 同前、pp.20-30。
- 同前、p.30。
- 同前、pp.60-64。
- 同前、p.64。
- 同前、p.84。
- 同前、pp.169-170。
- 同前、p.212。
- 同前、pp.215-231。
- 同前、pp.237-247。
- 伊藤整「日本的思考を拡大/朝鮮民族の実質を感動的に表現」『日本読書新聞』1954年2月、p.4。佐多稲子「金達寿『玄海灘』」『群像』1953年月、p.167。姜在彦「文学が持っている魅力」『解放新聞』1954年3月、ページ数不明、原文朝鮮語
- 金達寿「視点について──どうかくかの問題・ノオト」『リアリズム』1958年10月。
- 金達寿『わが文学と生活』1998年12月、pp.149-153。
- [ https://doi.org/10.15083/00037320 在日朝鮮人作家・金達寿と「解放」―― 日本語雑誌『民主朝鮮』を中心に ]閔東曄 『アジア地域文化研究』No. 11(2015. 3)
- 金達寿、同前、pp.133-135。
- 恩地洋介 (2022年7月29日). “故・金芝河さん(韓国の詩人) 独裁と闘った「抵抗詩人」”. 日本経済新聞. 2024年12月24日閲覧。
- キム・ミヒャン (2018年12月10日). “白基玩・張俊河…民青学連裁判記録、45年ぶり公開”. ハンギョレ新聞. 2024年12月29日閲覧。
- 『朝日新聞』1974年7月17日付朝刊、19面、「韓国軍法会議の判決に 抗議行動広がる 東京ではハンスト 国際連帯も」。
- 金芝河 著、金芝河刊行委員会 訳『苦行 獄中におけるわが闘い』中央公論社、1978年9月30日、660-670頁。
- 『コリア評論』1974年10月号、コリア評論社、57-60頁、「韓国日誌」。
- 中島健蔵『回想の文学 1』平凡社、1977年5月25日、8-9頁。
- “「民族詩人金芝河(キムジハ)の夕べ」における金達寿の所感(音声)”. 神奈川近代文学館 (2021年1月21日). 2024年12月24日閲覧。
- “作家・金達寿を知って 生誕100年展、HPで冊子紹介”. 朝日新聞デジタル. 2021年3月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年5月29日閲覧。
- “スポット展示・収蔵コレクション展19「生誕100年 金達寿展」”. 神奈川近代文学館. 2021年1月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年5月29日閲覧。
- “金達寿展が再開 異郷で書く意味を問う”. 毎日新聞. 2021年5月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年5月29日閲覧。
- “スポット展示・収蔵コレクション展19「生誕100年 金達寿展」”. 神奈川近代文学館. 2021年5月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年5月29日閲覧。
外部リンク
금달수
김달수 (김달수:김탈스 / 김달수) | |
|---|---|
| 펜네임 | 김달수, 오자와 타츠오, 김광준, 박영태, 손인장, 김문수, 백인 |
| 탄생 | 금 달수 1920년 1 월 17일 ( 음력 1919년 11월 27일 ) 일본 통치 하 조선 경상남도 창원군 내서면 호랑 계리 |
| 사망 | 1997년 5월 24일 (77세몰) 일본국 도쿄도 |
| 묘지 | 후지 영원 ( 시즈오카 현 스루토군 오야마 초 오오카미 888-2) |
| 직업 | 소설가 · 고대사 연구자 |
| 언어 | 일본어・조선어 |
| 최종 학력 | 일본 대학 전문부 예술과 |
| 활동기간 | 1940년 -1996 년 |
| 장르 | 소설 · 고대사 |
| 문학 활동 | 신일본 문학회 · 문학 예술사 · 2일회 · 리얼리즘 연구회 · 현대 문학 연구회 등 |
| 대표작 | '후예의 거리 '(1948년) '현해탄 '(1953 년) '박달의 재판'(1958년) |
| 주요 수상 경력 | 평화문화상 (1957년), 아오오카 문학상 (1974년) |
| 데뷔작 | 「위치」(1940년) |
| 어린이 | 1인 |
| 금 달수 | |
|---|---|
| 각종 표기 | |
| 한글 : | 김달수 |
| 한자 : | 금 달수 |
| 발음: | 김탈스, 김달스 |
| 일본어 읽기: | 킨 타츠쥬 |
김달수 ( 김탈수 / 김달수 , 김달수 , 1920년 < 다이쇼 9년 > 1월 17일 ( 음력 1919년 11월 27일 ) - 1997년 < 2009 년 > 5월 24일 )는 재일조선인 소설가 고대사 연구가 . 조선민주주의인민 공화국 · 조선총련 을 강하게 지지하고 있었지만 실태를 알고 1981년 한국 방문 이후 에는 제3자의 입장을 취했다 [ 1 ] .
경력・인물
청소년기까지
일본 통치하 조선 의 경상남도 창원군 내서면 호계리 (현·대한민국 경상남도 창원시 마산회원구 )에 중농 지주 의 삼남으로 태어난다 [ 2 ] . 아버지·금무늬규, 어머니·손복남, 장형·김성수, 차형·김양수, 여동생·김명수 [ 3 ] 가 있었다.
아버지 녀석이 놀이에 빠져 파산 [ 4 ] . 1925년 ( 다이쇼 14년 ), 김달수가 5세일 때, 부모는 장남 성수와 여동생 명수를 데리고 내지 로 건너간다 [ 5 ] . 양수·달수는 할머니와 살지만, 1928년 ( 쇼와 3년 ) 무렵에 차형 양수가 병사해, 이어서 내지로부터 아버지의 포기가 전해진다 [ 6 ] . 이후 달수는 할머니와 둘이서 극빈생활을 보낸다 [ 7 ] .
1930년(쇼와 5년) 10세 때, 장형성수에 데려져 내지에 건너는 [ 1 ] [ 8 ] . 할머니는 딸의 아내 앞으로 끌려갔지만, 몇 년 안에 사망했다 [ 8 ] .
1931년(쇼와 6년), 도쿄 시립 오오이 심상야학교 1학년에 입학해, 읽기·쓰기·산술이라고 하는 간단한 것이지만, 처음으로 일본어로 교육을 받았다 [ 9 ] . 1932년(쇼와 7년) 말, 도쿄부 에바라군 겐지마에 심상 초등학교 3학년에 편입 [ 10 ] 하고, 5학년까지 보내지만, 6학년에 진급한 곳에서 빈곤 때문에 퇴학 [ 11 ] . 이후 고학하면서 독학으로 문학을 배웠다. 그 과정에서 시가 나오야 의 소설에 만나 큰 영향을 받는다 [ 12 ] .
일본 대학 전문부 예술과 재학중인 1940년 (쇼와 15년)에 최초의 작품 「위치」를 발표하고, 그 후도 대학의 잡지나 「문예 수도」에 소설을 발표한다. 1941년(쇼와 16년) 12월에 졸업 후, 1942년(쇼와 17년) 1월 20일에 가나가와 일일신보사 의 사회부 기자가 된다 [ 13 ] . 같은 해 2월에 동사는 동업 타사와 합병해, 가나가와 신문사 가 되었다. 재직 중, 일본인 여성과 연애하지만, 의식의 차이를 견디지 못하고, 1943년(쇼와 18년) 봄, 충동적으로 경성 에 여행해, 강인하게 경성일보사 에 입사함과 동시에, 일본인 여성에게 이별의 편지를 쓴다 [ 14 ] . 그러나 그 후 경성일보사가 조선총독부 의 어용 신문사임을 알고 충격을 받아 1944년(쇼와 19년) 2월에 가나가와로 돌아와 1개월 정도 뒤에 가나가와신문사에 복사했다 [ 15 ] .
문학 활동 시작
본격적인 문학활동은, 제2차 세계대전 종전 후인 1946년 (쇼와 21년) 4월 부터, 자신이 창간으로부터 3년간 편집장을 맡은 일본어 잡지 ' 민주 조선 '에 연재를 시작한 장편 소설 '후예의 거리'에서 시작된다. 굵은 문체로 쓰여진 그 작품은 '조선적인 것' '민족적인 것'을 축으로 하고 일본인에 대해 통렬한 전쟁책임 을 찌르는 것으로서 사상을 지지하는 일본인과 재일조선인 모두에게서 높은 평가를 받았다 [ 16 ] . 이후, 「겐카이탄」(「신일본 문학」1952년(쇼와 27년) 1월-1953년(쇼와 28년) 11월. 1954년 (쇼와 29년) 1월간)-『태백산맥』( 1969년 (쇼와 44년))으로 전개했다. 다만 금달수 자신은 '현해탄' 집필 중에 자신의 문학의 한계를 통감하고 시가의 문학을 통해 배운 자연주의 리얼리즘 과의 문학적 투쟁을 시작했다 [ 17 ] .
전전의 1941년(쇼와 16년)부터 『문예 수도』의 동인이 되어, 전후는 1946년(쇼와 21년) 10월에 신일본 문학회 회원이 되었다 [ 18 ] . '문예 수도'는 조선인 선배 작가로서 김 사료가 활약한 잡지이기도 하며 후배 에게는 김태생 과 김석범 이 있었다. ' 신일본문학 '에는 초기 대표작인 '현해탄' 연재 등 많은 작품을 발표해 '민주조선'과 함께 김달수가 발판을 둔 2대 거점이었다.
1957년 (쇼와 32년), 서미타 마사지 , 니시노 타츠요시 , 쿠보타 세이 , 오하라모토 와 함께 리얼리즘 연구회 를 결성했다. 그 후도 일본 민주주의 문학 동맹 의 결성에 참여해 잡지 '민주 문학'의 이름을 생각하는 등 민주주의 문학 운동 속에서도 활약했다.
잡지 『민주조선』
1946년 초, 재일본 조선인 연맹 의 가나가와현 본부와 요코스카 지부에서 상임 위원을 겸하고 있던 김달수의 “조선과 조선인에 대한 일본인의 잘못된 인가 "식을 바로잡기 위한 잡지를 내고 싶다"는 발안으로 출자자 조진용을 사장으로, 조련의 요코스카 지부를 사무소로 같은 해 4월에 창간, 김이 편집장을 맡았다 . 19 ] . 당초 잡지명은 '조선인'을 예정하고 있었지만, 조련 가나가와현 본부위원장의 한덕장의 제안으로 '민주조선'으로 결정했다 [ 19 ] (전년에 동명의 북한 정부기관지 일간지가 발간하고 있다).
창간호는 거의 김달수와 전용덕( 릿쿄대학 졸, 아연 가나가와 본부 외무부장, 필명에 김철, 임훈)이 집필하고, 그 후 재일조선인 작가 외에 조선 문학가 동맹 을 중심으로 한 본국의 작가와 일본인 문학자와 좌익적 지식인의 투고 도 늘었다 . 지면 구성은 문학관계를 중심으로 경제관계논문이나 기사, 일본인과의 좌담회 등이 있어, 재일조선인 작가의 일본어에 의한 작품은 재일조선인문학 의 확립에 크게 기여했다 [ 19 ] .
1949년 9월에 조련이 해체, 1950년 6월에 조선전쟁이 발발하고, 잡지 '민주조선'도 같은 해 7월 제33호를 가지고 종간이 되었다 [ 19 ] .
북한에의 접근·결별
김달수는 원래 민족주의적 청년 [ 20 ] 에서 조련도 대중단체로 출발했지만 조선민주주의인민공화국 건국 후 '북' 공화국을 지지하는 입장으로 밀려나가는 형태가 되었다. ' 차별이 없는 나라' ' 노동자 가 주인공 의 나라'를 표 향기표로 하고 있었기 때문에 실태는 모르고도 북한을 강하게 지지하고 있었다 [ 1 ] .
1958년(쇼와 33년)에 발행된 『조선―민족・역사・문화』가 조선총련에 비판되었지만, 1959년(쇼와 34년)부터 본격화한 재일조선인・그 일본인 아내 가족들의 귀국사업 을 적극 지원하는 원고도 북한 1 인 .
1960년대를 통해 조금씩 '북' 지지의 입장에서 멀어지게 되었다. 북한은 1967년(쇼와 42년) 당 중앙위원회 제4기 제15차 전원회의에서 유일하게 지도체제를 내세워 개인 숭배 를 강요하기 시작했다. 1970년대에 들어서 자 김일성 주석의 장남인 김정일 총서기를 후계자로 지명하는 움직임이 일어났다. 이 무렵부터 "북한의 방식은 이상하다"고 반발해 북한·조선총련과 추모를 알았다 [ 1 ] . 전문에 따르면 김달수는 1972년(쇼와 47년)에 조총련에서 제명되었다.
그러나 남북 통일 의 꿈을 포기하지 않고 1975년(쇼와 50년)에 ' 계간 삼천리 '를 이진희 · 강재히코 등으로 창간했다. 한국의 군사독재 정권을 비판하는 기사가 눈에 띄었지만 조총련은 관계자들에게 '삼천리'를 읽지 않도록 지도했다. 김달수가 주도한 잡지 '일본의 조선문화'를 당시 애독하고 있던 재일조선인은 "김달수는 재일에 자부심을 되찾아준 인물이었다. 하지만 총련에서 나간 인간이 활약하는 것은 재미없다는 분위기였다"고 증언하고 있다. 김달수들은 '삼천리'에서 총련 기관지가 하고 있던 '반민족적 행동'이라는 비판에 반론하고 있었다 [ 1 ] . 김달수 등은 도쿄도 조후시 에 있는 오분코 의 자택에서 '삼천리'의 편집회의를 열기도 했지만, 금달수는 자주 “지금의 북한은 틀렸다”고 주장하는 한편, “ 사회주의 는 이런 사상이 아닐 것”이라고도 말했다. 우에 따르면 당시 한국에 비해 북한의 실태는 충분히 밝혀지지 않았다. 그 때문에 귀국한 재일조선인이 비참한 생활을 하고 있는 것은 파악했지만 아직 미화된 것이 남아 있었다. 우는 “북한을 비판하는 일본인도 적었던 시대에, 김달수 선생님도 북한을 볼 수 없었을 것입니다”라고 말하고 있다 [ 1 ] .
한국방문
그 후, 전두환 정권하의 1981년(쇼와 56년)에, 재일조선인 「정치·사상범」의 조명이나 감형을 탄원할 목적으로 한국을 방문한 것에 의해, 김석 범과 김시종 (2003년 2003년 한국적 취득) 등 북한에 친화적·한국에 비판적인 재일조선인· 좌익 일본인으로부터는 총공격·비판을 받았다. 김달수는 제철소 나 조선소 등 ‘ 한강의 기적 ’으로 불릴 정도로 발전한 조국을 보고, “총련은 한국에서는 아이들이 빈 깡통 을 들고 구걸을 하고 있다고 가르쳤으니 이마 우라 시마 의 기분”이라고 말했다. 재일조선인들로 출판하고 있던 '계간 삼천리'도 한국의 실태를 알고 이후는 군사독재 정권 비판의 논조에서 한국에도 북한에도 어울리지 않는 남북통일을 바라는 제3세력과 같은 논조에 기울여갔다 [ 1 ] .
조총련계 금융기관에 근무했던 김달수의 장남은 조총련에 비판된 아버지의 영향으로 승진을 할 수 없게 되어 아버지와 서서히 소원해졌다. 장남은 몸을 부수고, 금달수의 사후에 죽었다 [ 1 ] . 2021년(영화 3년) 11월 오분코는 “지금 김달수 선생님이 살아 있다면 전면에 서서 북한을 비판하고 인권 과 민주화운동 의 선두에 서 있었을 것”이라고 말한다. “기분의 뜨거운 사람이었습니다. 자신의 입장이 나빠지더라도, 나쁜 것은 나쁘다고 분명히 말하는 사람이었으니까”라고 말하고 있다 [ 1 ] .
1974년(쇼와 54년) 4월 박정희 의 독재 정권에 반대하는 시위를 일으킨 대학생들 중 180명이 구속되는 ' 민청학련 사건 '이 발생 [ 21 ] [ 22 ] . 7월 16일까지 김시바하 등 14명에게 사형 , 15명에게 무기징역 , 일본인 태도가와 마사키와 하야카와 가춘 을 포함한 26명에게 징역 15년부터 20년의 형이 부과되었다 [ 23 ] [ 24 ] . 7월 21일 금 사형은 무기 징역 으로 감형되기도 [ 25 ] , 김달수, 쓰루미 슌스케 , 이진희 , 침생이치로 등 4명은 “가네 시 바하 씨 등 전 피고 를 석방하라”고 항의해, 7월 27 일부터 30일에 걸쳐 수기 야 다리 공원 에서 ] [ 27 ] .
만년
창작 활동이 1982년 (쇼와 57년)의 『행기의 시대』에서 끝난 것에 대해, 「일본 속의 조선 문화」시리즈는 라이프 워크로서 만년까지 계속되었다. 『민주조선』・『문학예술』・『신조선』・『닭림』・『리얼리즘』(나중에 『현실과 문학』과 개제)
보존·전시
가나가와 근대 문학관 에서는, 2003년에 금달수의 저작권 계승자로부터 원고나 서간 등 1만점 넘게를 기증되어 「금달수 문고」로서 보존하고 있다 [ 28 ] . 2020년 12월 12일부터 스포트 전시·수장 컬렉션전 19 「탄생 100년 금달수전」이 개최되었다 [ 28 ] [ 29 ] . 신형 코로나바이러스 감염 확대에 의한 긴급 사태 선언 때문에 이 건물이 임시 휴관이 되고 [ 28 ] , 회기가 중단되어 5월 22일부터 재개최되었다 [ 30 ] [ 31 ] .
저작
소설
- 『후예의 거리 : 나가편 소설』 조선 문예사, 1948년 3월 1일. NDLJP : 1703377 .
- 『반란군』 동아서방, 1950년
- 『후지노무라마을에서』 동방사, 1952년
- 『겐카이탄』 치쿠마 서방 , 1954년 이후 아오키 문고, 코단샤 문고
- 『전야의 장』 도쿄 서림, 1955년
- 『고국의 사람』 쓰쿠마 서방, 1956년
- 『일본의 겨울』 쓰쿠마 서방, 1957년
- 「번지가 없는 부락」광서방, 1959년
- 『박달의 재판』 쓰쿠마 서방, 1959년
- 『밤에 온 남자』도호사, 1961년
- 『밀항자』 쓰쿠마 서방, 1963년
- 『나카야마도』 동방사, 1963년
- 『공종이문』 동방사, 1965년
- 『태백산맥』 쓰쿠마 서방, 1969년
- 『소설 재일조선인사』 창수사, 1975년(단편집, 전2권)
- 『낙조』 쓰쿠마 서방, 1979년 4월
- 「쓰시마까지」가와 데 서방 신사 , 1979년 10월
- 『금달수 소설 전집』 쓰쿠마 서방, 1980년(전 7권)
- 『행기 의 시대』 아사히 신문사 , 1982년 3월
평론·에세이
- 『내 창작과 체험』갈대 출판사, 1955년
- '조선 -민족·역사·문화-' 이와나미 신서 , 1958년
- 『일본 속의 조선문화 그 고대 유적을 묻고』코단샤 , 1970-1991년(전 12권)
- 나중에 코단샤 문고(전 12권), 코단샤 학술 문고 (3권까지 간행)
- 「고대 문화와 「귀화인」」신인물 왕래사 , 1972년
- 「고대 유적의 여행 아스카 로망을 산책한다」산케이 신문 출판국, 1972년
- 나중에 "아스카 로맨스의 여행"으로 개정하여 카와데 문고
- 『일본 고대사와 조선문화』 쓰쿠마서방, 1976년
- 나중에 「일본 고대사와 조선」으로 개정하여 코단샤 학술 문고
- 『금달 수평 논집』 쓰쿠마 서방, 1976년
- 카미마키 「우리 문학」, 하권 「우리 민족」
- 『일본 안의 고대 조선』학생사, 1979년 1월
- 나중에 "고대 조선과 일본 문화"로 개정하여 코단샤 학술 문고
- 『고대 일조 관계사 입문』 쓰쿠마 서방, 1980년 2월
- 『고국까지』 카와데 서방 신사, 1982년 4월
- 『내 소년 시대 차별 속에 사는』 포플러사, 1982년 8월
- 『고대 일본과 조선문화』 치쿠마 서방, 1984년 9월
- 『고대의 일본과 조선』 쓰쿠마 서방, 1985년 9월
- 『도래인과 도래 문화』 가와데 서방 신사, 1990년 12월
- 「재검토되는 고대의 일본과 조선」야마토 서방, 1994년 6월
공편 저·대담
- 시마 요타로 , 우에다 마사아키 “일본의 조선 문화 좌담회” 중앙 공론사, 1972년
- 시마 요타로, 우에다 마사아키 “고대 일본과 조선 좌담회” 중앙 공론사, 1974년
- 시마 요타로, 우에다 마사아키 “일본의 도래 문화 좌담회” 중앙 공론사, 1975년
- 타니가와 켄이치 “일본 문화의 원류를 찾아 토론” 쓰쿠마 서방, 1975년
- 나중에 "고대 일본 문화의 원류"로 개정하여 가와데 문고
- 『일본과 조선 김달수 대담집』 코단샤, 1977년 6월
- 강재히코『수기=재일조선인』 용계서사, 1981년 6월
- 시마 요타로, 진현신『역사의 교차로에서 일본・중국・조선』 코단샤, 1984년 4월
- 『회상 가라키 쿠니오』 심미사, 1987년 2월
- 타니가와 켄이치 “지명의 고대사 긴키편 ” 가와데 서방 신사, 1991년 6월
- 타니가와 켄이치 「지명의 고대사 규슈 편」카와데 서방 신사, 1988년 8월
번역
- 李箕永『소생하는 대지』 나우카사, 1951년(朴元俊共訳)
자전
- 「우리 아리랑 의 노래」중공 신서, 1977년 6월
- 「우리 문학과 생활」아오오카 문화사, 1998년 5월
연구문헌
관련 항목
각주
- “ 시마 요타로와 친교한 재일조선인 작가 북한을 지지하고 배신당했다(GLOBE+) ”. Yahoo!뉴스 . 2021년 11월 24일 열람.
- 금달수 「우리 아리랑의 노래」(1977년 중공 신서) p.3.
- 이전, pp.3-4.
- 이전, pp.9-10
- 이전, pp.9-10.
- 이전, pp.12-15.
- 이전, pp.20-30.
- 이전, p.30.
- 이전, pp.60-64.
- 이전, p.64.
- 이전, p.84.
- 이전, pp.169-170.
- 이전, p.212.
- 이전, pp.215-231.
- 이전, pp.237-247.
- 이토 마사루 「일본적 사고를 확대/조선 민족의 실질을 감동적으로 표현」 「일본 독서 신문」1954년 2월, p.4. 사타이나코「카네타츠수『겐카이탄』」『군상』1953년월, p.167. 강재히코 「문학이 가지고 있는 매력」 「해방신문」 1954년 3월, 페이지수 불명, 원문조선어
- 금달수 「시점에 대해──어쩐지의 문제·노오토」 「리얼리즘」1958년 10월.
- 금달수 『우리 문학과 생활』 1998년 12월, pp.149-153.
- [ https://doi.org/10.15083/00037320 재일조선인 작가 김달수와 '해방'―― 일본어잡지 '민주조선'을 중심으로 ] 민동조 '아시아지역문화연구' No. 11
- 금달수, 동전, pp.133-135.
- 온지 요스케 (2022년 7월 29일). “ 고·가나시바가와씨(한국의 시인) 독재와 싸운 “저항시인” ”. 일본 경제 신문. 2024년 12월 24일 열람.
- 김미향 (2018년 12월 10일). “ 백기완·장준하…민청학연재판 기록, 45년 만에 공개 ”. 한겨레 신문 . 2024년 12월 29일 열람.
- 『아사히신문』 1974년 7월 17일자 조간, 19면, 「한국군법회의의 판결에 항의행동 퍼진다 도쿄에서는 한스트 국제연대도」.
- 김시 바하 저, 긴바하 간행 위원회 번역 “ 고행 옥중에 있어서의 우리 싸움 ” 중앙 공론사 , 1978년 9월 30일, 660-670페이지 .
- '코리아 평론' 1974년 10월호, 코리아 평론사, 57-60페이지, '한국일지'.
- 나카지마 켄조「회상의 문학 1」평범사, 1977년 5월 25일, 8-9페이지.
- “ 민족시인 김지하의 밤”에 있어서의 금달수의 소감(음성) . 가나가와 근대문학관 (2021년 1월 21일) .
- “ 작가·금달수를 알고 탄생 100년전, HP로 책자 소개 ”. 아사히 신문 디지털. 2021년 3월 3일 시점의 오리지널 보다 아카이브. 2021년 5월 29일에 확인함.
- “ 스포트 전시·수장 콜렉션전 19 “탄생 100년 금달수전” ”. 카나가와 근대 문학관. 2021년 1월 17일 시점의 오리지널 보다 아카이브.
- “ 금달수전이 재개 이향에서 쓰는 의미를 묻는다 ”. 매일 신문. 2021년 5월 20일 시점의 오리지널 보다 아카이브. 2021년 5월 29일에 확인함.
- “ 스포트 전시·수장 콜렉션전 19 “탄생 100년 금달수전” ”. 가나가와 근대 문학관. 2021년 5월 29일 시점의 오리지널 보다 아카이브.
외부 링크
김달수 작가의 저작 목록 중에서 회고록(자전적 저작)에 해당하는 책은 다음과 같습니다.
김달수의 회고록 및 자전적 저작
<내 아리랑의 노래>(わがアリランの歌, 1977년 6월 출간)
<내 문학과 생활>(わが文学と生活, 1998년 5월 출간)
<나의 소년 시대: 차별 속에 살다>(私の少年時代:差別の中に生きる, 1982년 8월 출간) — 평론·에세이 분류에 있으나 자전적 성격을 띱니다.
회고의 시기 및 특징
김달수의 회고록과 자전적 저작은 다음과 같은 시기를 다루며 뚜렷한 문학적·역사적 특징을 지닌다.
1. 회고의 대상 시기
식민지 시기의 유년 및 소년 시절: 일제강점기 시절 한국(조선)을 떠나 일본으로 이주하여 겪었던 가혹한 차별과 빈곤의 시기를 중점적으로 회고한다.
청년기와 해방 전후 시기: 일본에서 소설가로 입문하게 되는 과정, 해방 전후 재일조선인 사회의 혼란과 갈등, 그리고 지식인으로서 겪은 고뇌의 시기를 포함한다.
2. 주요 특징
차별과 정체성의 기록: 일본 사회 내의 소수자로서 겪어야 했던 민족적 차별의 경험을 정면으로 다룬다. <나의 소년 시대>라는 부제인 <차별 속에 살다>에서 드러나듯, 억압적인 환경 속에서 자아를 찾아가는 과정을 생생하게 증언한다.
문학과 삶의 궤적 일치: 자신의 문학적 출발점이 곧 재일조선인으로서의 삶과 역사에 맞닿아 있음을 보여준다. <내 문학과 생활> 등을 통해 소설을 쓰게 된 실존적 계기와 사상적 흐름을 고스란히 담아내고 있다.
디아스포라(Diaspora) 문학의 정수: 경계인으로서의 삶을 타협 없이 기록함으로써, 개인의 기록을 넘어 재일조선인 형성사(史)를 증언하는 역사적 사료로서의 가치도 지닌다.
세진님, 소개된 저작 중 더 구체적인 내용이나 요약이 필요한 책이 있으시면 언제든 말씀해 주세요.
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