2026-09-20

【全編配信】日本が81年隠してきた「戦争トラウマ」戦場のストレスで「幻覚」心を病んだ兵士は戦後、家族に虐待・性暴力 父親の“足跡”をたどる娘の思い|父は戦争を連れて帰った〈カンテレ・ドキュメンタリー〉 - YouTube

【全編配信】日本が81年隠してきた「戦争トラウマ」戦場のストレスで「幻覚」心を病んだ兵士は戦後、家族に虐待・性暴力 父親の“足跡”をたどる娘の思い|父は戦争を連れて帰った〈カンテレ・ドキュメンタリー〉 - YouTube


【全編配信】日本が81年隠してきた「戦争トラウマ」戦場のストレスで「幻覚」心を病んだ兵士は戦後、家族に虐待・性暴力 父親の“足跡”をたどる娘の思い|父は戦争を連れて帰った〈カンテレ・ドキュメンタリー〉
KTV NEWS
475,053 views  Aug 29, 2026
ザ・ドキュメント『父は戦争を連れて帰った』
カンテレ 2026年8月28日放送

[番組公式ページ]https://www.ktv.jp/document/

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戦後81年。戦争による傷病者の歴史を伝える国の施設で、新たな展示が始まった。テーマは、戦場で心に傷を負った日本兵と、その家族の苦しみ。これまで社会でほとんど顧みられることのなかった、戦争被害だ。

大阪市でカフェを営む藤岡美千代さん(67)は、9歳で亡くなった父親の写真を、今も直視することができない。父・古本石松さんは元日本兵。戦争の話を繰り返し、雨風の音に「軍隊の足音がする」と怯え、酒に溺れて家族に暴力を振るった。幼い藤岡さんたちを柱に投げつけ、時にはガス栓を開けて「みんなで死のう」と迫った。父が死んだと聞いた時、藤岡さんは「やった」と喜んだという。しかし成人後、父の死因が自殺だったと知り、「自分が父を追い詰めたのではないか」と自らを責め続けた。父の死後も、その傷が消えることはなかった。

そんな藤岡さんが3年前に出会ったのが、「PTSDの日本兵家族会」だった。そこには、日本兵だった父親の暴力やアルコール依存、自殺などに苦しんだ家族たちがいた。「自分だけではなかった」。藤岡さんの中で、それまで断片的だった自らの生い立ちが、父の戦争体験とつながっていった。

家族会代表の黒井秋夫さん(78)も、元陸軍兵の父親を「でくのぼう」と軽蔑して育った。しかし父の死後、遺品から満州で「匪賊討伐」に従事していたことを知る。同じ時期、同じ部隊にいた元兵士の手記には、人を殺すことを強いられ「人間の皮をかぶった獣に変わった」と記されていた。戦争は、人の心をどう変えるのか。精神科医は、戦場で受けた強烈なトラウマが、時を経ても「現在進行形」の記憶として蘇ると指摘する。一方、日本では兵士の心の傷が長く「個人の弱さ」とされ、十分に顧みられないまま、その苦しみは家庭に委ねられてきた。

藤岡さんは今、封印してきた記憶を書き残し、公の場で語り始めている。そして、父が戦場で何を経験したのかを知ろうと、軍歴を取り寄せた。21歳で海軍に召集された父は、千島列島の松輪島を経て、終戦後はシベリアに3年間抑留されていた。藤岡さんは、その足跡をたどる。憎しみしかなかった父に、少しずつ別の感情が芽生えていく。

戦争は、戦場だけで終わるのではない。兵士が抱えて帰った傷は、家庭に持ち込まれ、時に子どもたちの人生をも変えていく。戦後81年。父が連れて帰った戦争と向き合い続ける、一人の娘と家族たちの姿を追った。

語り:豊田康雄(カンテレアナウンサー)
ディレクター:竹下洋平
撮影:平田周次
編集:堀田浩司
プロデューサー:宮田輝美

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Transcript


Search in video
階段に飾られた家族写真。
1つだけ黄色い半カ地で覆われている。
私の知らない父なんですよ。このこの写真のあの海軍さんに行って
23 歳の時の写真なので、ま、ちょっと穏やかな顔してるんですけどその人が大魔人になって暴れてるわけですよ。
で、私の中にはもう踏みつけられたり、 あの、に投げられたり、柱に投げられた
りっていうようなことがやっぱり染みつい てるので、体の中にこの人をその
ちゃんと見るっていうことは とてもなんか恐ろしいですね。まだまだ
ちょっとあの見れないですね。
戦争[音楽]で心を蝕ばまれた兵士たち。
その狂器[音楽]は戦後 家族に向かった。
[音楽] 密かに続いた
もう1つの[音楽]戦争だった。
あ [音楽]
戦後81年となる今年。
戦争による商病者の歴史を伝える国の資料 館に新たな展示が加わった。
心の傷を追った兵士と[音楽]家族の 苦しみ。
81年間大やけにされてこなかった歴史 だった。
お待たせか こういうところ出したあかんかった。
さんとか言わそんな全部してくれた [笑い] Pが入ると
[笑い] 大阪市でカフェを営む藤岡さん職場にしたいとったのに
[笑い] 9 歳の時亡くなった父の写真を今も見ることができない
で母が亡くなってタンス を整理してたら、あの、これだけ出てきたんですね。なんか生々ましっていうかね、随分若い頃の写真ではあるんですけど、でもなんか見れないんです。
一瞬見た時ものすごいこう気持ち悪かった し怖かったので
私を星座させてお父はなトラックの運転し
ながらな敵のあの砲弾の中をあの救援物資
を運んだんやあって。で、そうかと思うと 、あの、雨がざーっとすごい降ると、もう
、あの、部屋のすみっこでガタガタ震え ながら、あいつが殺しに来る。
窓がガタガタガタガタっとなったりとか、 台風でこうヒューって風が鳴ったりすると
、ただもう兵隊が来る、兵態がザってく るって言ってすごいまた怯えるんですね。
終戦から14年後、藤岡さんは鳥取県で 生まれた。
父は叫びで定食にもつかず家で暴れて ばかりの存在だった。
私が3、4年生ぐらいになってくると、 もう夜中にこうガバっと父が起きて
起き出して、あの子供の寝ている布団を バーっとこう剥いで、もうそこにいる私と
か兄とかをもう目がね、行っちゃってるん ですよ。この子供を見る目じゃなくて、
もう敵をやっつけるぞっていう顔で、ま、 言うたら大魔人みたいに目がキュンって
釣り上がって、口がうーんってこうなんか うーんってこうなってて、でも私とか兄と
かはもう掴み上げられて柱に投げられたり とかあの踏みつけられたりとか私とあの兄
を切立させるんです。切りピシッとこうま 、軍隊みたいな感じですね。ちっとこう
立たせてギリって言うんですよ。で、私と 兄がこうピッてしてするとあの台所のあの
Lプロパンガスのあの線を開けてしって
こうガスが出るんです。で、それをすると もうお父ちゃんはあのみんなで死のう。
みんなで死ぬんだって言ってすごいこう、 ま、私の中では新獣ごっこってあの、ま、
ネーミングしてるんですけど、そしたら母 がもう反響欄になって死ぬんだったらお前
だけ死ねって言ってガスを止めに行くん ですね。
[音楽] やがて父は幻覚や現聴が激しくなり、家の
中で便を垂れ流してしまう。
藤岡さんが9歳の時両親は離婚。
しばらくして尋ねてきた父の言葉が
忘れられない。
珍しくまた父はま、来たんですけどお酒を 飲んでなかったんです。酒を飲んでない父
ってのは本当に久しぶりだったんで、私 すっごい記憶にあって、もうその父があの
、私と兄とを並べて道を許してくれ、許し てくれって言って泣いてるんですね。で、
私はその父に対して何の感情移入もないの でうーん。何、何許すって何って感じ
じゃった。
お父ちゃん病気で死んだでって聞いたから 。え、お父ちゃん死んだ?やったって。
もう私なんかもうもう喜んじゃって。もう お父ちゃん死んだな。お兄ちゃんばいって
。もう何ですかね。嬉しくて嬉しくてもう あんな人いないんやって。
おつやの時に散々ね、親戚な人とか父の 知り合いとかが来て、あんたのお父ちゃん
すごい人やでって。またその別の親戚が あんたのお父ちゃんな戦争から帰ってき
たらな、ものすごい人が変わってたんよ。
手足が痙攣する日本兵。[音楽]
手が震え、うまく字がかけない。
戦場での体験から精神に異常をきたす戦争 神剣症となった兵士たちだ。
軍の病院に入院した兵士だけでもその数は およそ1万人。
だが日本軍は心を壊した兵士をはずすべき 存在とみなし隠蔽した。
当時団病とも呼ばれていた戦争神経症
新聞には幸軍に放病は存在しないと記され
ている。
千葉県の病院には精神に異常をきたした 日本兵およそ8000人分のカルテが残さ
れている。 終戦前後軍は償却を命じたが委長が密かに
隠し保管していた。
これらの資料はすでに誰もが忘れ去って しまったものである。
また誰にも気づかれていなかったもので ある。
貴重なこの証を真実を残しておきたい。
三頭省にて両民6名[音楽]殺したること あり。
これが夢に出て[音楽]うされてならぬ。 特に幼児をも一緒に殺せ[音楽]しことは
自分にも同じような子供があったので予定 嫌な気がした。
何を質問するもすみませぬ。すみませぬ。
殺してくれという
敵が迫る声が聞こえるという。
戦争に行く前はいい人だったという藤岡 さんの父。
なぜその父から虐待されたのか。
父が亡くなってはいるんですけど、なんかまだこの頃はちょっとこう自分がもう嫌で嫌で
うん。 消しちゃってる。だから学校で集合写真とか撮られても端っこで目立たないようにっていう感じがすごく強かった。
[音楽]
お父ちゃん死んだのは自殺やったんかって 。それがね、なんか1ヶ月、2ヶ月、3
ヶ月経ってくるとね、それ私のせいじゃな いってすごい自分を覚めるようになったん
ですね。私がお父ちゃんが最後会いに来て くれた時に道を許してくれって言ったのを
許すって言わんかったからかなとかそこ からもうあの感情のコントロールができ
なくなって何回かリストカット仕事で嫌な ことがあったりとか人間関係でちょっと嫌
なこと言われたっつったらすごいこう死に たくなる。まあ、どうせ自殺した親の子や
からみたいな。ものすごいこうそれに 囚われてもうものすごい苦しかったですよ
。 これは自分の家族だけの問題。反世紀以上
思ってきた。 [音楽]でも父親の狂器を背負わされた
子供は自分だけではなかった。
ご苦労様です。貴重な証言 大阪市内で毎年開かれている証言集会がある。
後に色々ね、ご飯したりとか色々して 私のものこの回は日本ましには日本人のですねが実が
PS になりその父親たちが子供たちに暴力を振ったり自殺したり中になったりそういうことでもって苦しんだ千たちやその家族です。
流団で手を PTSDの日本兵家族会 反合でご飯を食べて
戦争によるトラウマと向き合う家族たちだ。 食べ物もも喉を通らなかったんですか?
藤岡さんは3年前とすると 偶然チラシをもらい 初めて参加したい。
皆さん大体似たような体験を話しされてで、ま、自分自身もいや、実は父がこうこうこうなんですと。
で、それまでなんとなく断片的にあの自分の立ちいと思ってたものがその父の
PTSD で全部こうピーンと繋がったんですね。
そこに白を 家族会の代表を務める誰も参加できそできる誰
元陸軍兵だった父の記憶を語り継いでいる進めていきますので是非皆さん参加してください。
おいおいおじいちゃんスしてくれ。早くしてくれよ。
早くピンスしてくれ。
孫から話しかけられても全く言葉を発しない男性。黒井さんの父次郎さんの晩年の映像だ。福印してから
77歳で亡くなるまでの40 年間。定職にもつかず家族は貧困にえだ。
そんな父を黒井さんはデクノと呼んでいた 。
デクノボっていうのは、ま、私は翻訳した んであって、周りの子供たちとかは6着親
しって呼んでたんですよ。180cmも ある大男っていう意味ですよね。で、それ
があだ名になるっていうのはすごい大男な んだけども何もできない。うどの大木とか
よく言うじゃないですか。も元にいるだけ だからそれが普通だったんでこう期待もし
ないしでもね見放すこともできないしあの 情けなだったんだからとにかくこういう
人間には絶対俺はならないとこういう男に はならないとあの一家を貧乏にさせるよう
なね別 すらしていた 父戦し父が亡くなってから異品を整理すると
つ満 これまで知らなかった顔が見えてきた。 で、それは同胞[鼻息]
まいい顔してるのよ。本鈴やか話すっきり。
刑次郎さんは1932年に招集され、中国 東北部満州の歩兵部隊に配属される。
[音楽] 時は満州自変の直後。[音楽]
日本軍は領土拡大や資源確保のため自ら 起こした鉄道爆破事件を中国側の反抗とし
て軍事行動を起こし海来政権満州国を建告
する 刑次郎さんの異品には抵抗する中国兵を
卑族と呼んで討伐したというメモも残され ていた。
[音楽] 戦争で刑次郎さんに何があったのか
[音楽] 手がかりは黒井さんの生まれ故郷に残され ていた。
主を残したのは元憲兵の土義おさん。
憲兵になる前、軽次郎さんとほぼ同じ時期 に満州の同じ部隊に所属していた。
[音楽] 間違いなく農民だと分かる中国人6人が
連れてこられた。[音楽] みんな後ろに縛られていた。
これから土胸をつける教育をする 場官の注意が言った。
何をするのだろう? そう思った瞬間、注意は中国人の首を切っ
た。 切られた首から千柱が立ちのっている。
天皇の軍隊はこんなひどいことをするのか 。 体が震えた。
その時土や前に出ろ。あれを突きさせ。
[音楽] 注意は中国人の1人を指差し、私に銃を
渡した。[音楽] 生きた人間を突き刺すのか。だが注意から
は目をかけてもらっている。 の命令はの命令である。
[音楽] 私は重権を構え、大声をあげながら中国
農民の胸を目がけて突進した。[音楽]
私は 人間の川をかぶった
獣に変わった。
[音楽] 土屋さんは手柄を立てるためイ田の中国人
を拷問にかけ殺したという
人間としての心が抹殺されてしまったこと で私たちは狂気してしまっていた。
私が殺害してしまったくさんの人たちが 寝ても冷めても見えてしまうのだ。
その人たちの必びが夢[音楽]にも 聞こえる。
皆さん考えてみてください。地は加害者 です。銃を突きつけてたくさんの人を殺し
ました。殺された側の人たちの苦しみは どうだったでしょうか?あの人たちはその
苦しみや恐怖からそのことがそれが トラウマになって心壊された人たちは
アジアの人たち中国人たち小鮮の人たちは 日本人の兵士や我々の何倍もいるっていう
風な想像力が私たちは必要だという風に私 は考えています。
長年沖縄線によるトラウマの治療にあたっ てきた精神会の有塚涼さん。
戦争での体験は生涯消えることのない トラウマを生じさせると指摘する。
不用できないような強烈なあのストレスで 自分がもうコントロール不能状態になる。
そういう体験なんですよ。[鼻息]あく 殺されそうになったとかあるいは目の前で
人が殺死ぬのを見たとかえだから被害だっ たり加害だったり色々とあるわけですね。
だが戦争神経症をはずべき存在としてきた 国はその実態について調査してこなかった
。 [音楽]
戦後トラウマを追った兵士たちを家族が 背負うことになる。[音楽]
軍人恩求の申請書類にはトラウマを追った 兵士たちを受け止めきれない家族の訴えが
綴られている。
本人の日常生活行動は常日頃正常を書き、
極端な軍隊式長で弾話中突然号令をかけ、
火材道具を次々に破損したり刃物を所持し
人に機害を加えるかのごとくそ亡な状態。
親としてはただただ途にくれるばかりで 家計のしるものがこのような状態では生活
も苦しく全く困窮をいたしております。
日本の戦後ってのはその兵隊のトラウマを 社会的にケアしないで全部家族に丸投げし
たと。だからこの家族の中でトラウマが あれ狂ってあの酒飲んで暴れたとかあの妻
をったとか子供を虐待したとかっていう風 になるわけでしょう。全部家庭にありがに
した。
[音楽] 戦後父が背負ったトラウマを埋もれさせ たくない。
黒井さんは2018年1人で家族会を設立 。
1人、また1人と証言者が増えていった。
[音楽] 2度と戦争しないとか本当に平和な日本を 目指すっていうことであれば俺たちが生き
ている間に調査したりしないとこれはもう 永遠にあの分からないことになっちゃう。
[音楽] 2024年度、戦後初めて国は日本兵の心
の傷に関する実態調査を行った。
死んだ人を調べてどなしまんねんと生きて 帰ってきたお父ちゃんに偉い目に負けてん
のは私らやでっていう。そういうそれが 変えて期間編の中のPTSDをきちんと
調べて欲しいと。それが日本の後の歴史と しても埋れてきてるわけだからそこのん
とこきちんと調べてほしい。
またせ。 あ、ありがとう。おお、サンキュー。よいしょ。
うう、いいね。すごい。 [笑い]
うん。いい。い、すり。 [鼻息]
元日本兵の父からの暴力を語ることにした藤岡さん。 冬でも冬でも
パートナーの之助さんと暮らして 30年になる作ったりして
この問題解決に向けて、え、一緒に歩める機会をもらえたみたいに受け止めてますね。うん。
涙ちょ切れるわ。 あ、そう。あ、そう。[笑い] うん。
家族会に加わってから藤岡さんは閉じ込め ていた父の記憶をノートに綴るようになっ
た。
[音楽]
[音楽]
うん。
[音楽]
[音楽]
ま、そういうもの全ての太 記憶をたり寄せると 父の狂器と戦争が繋がっていく。
で、あ、私が悪かったんだって、殴られる たびに思ってきました。私の兄が父親に
なんでお前はそんな暴れんねん子供の時に 聞いたらしいんです。そしたら父が死体を
見たからだってもう吐き捨てるように言っ たっていうのを兄が覚えてるんです。
藤岡さんの父、古本石松さん。[音楽] 1943年20歳で海軍に招集された。
[音楽] 終戦時には千島列島の中部にある松の航空
基地に配属されていた。
[音楽] 軍事の拠点だった松島には数千人の日本兵
が中屯。 アメリカ軍の攻撃を繰り返し受けたという
[音楽] 漢方射撃と誰かが叫んだ。
[音楽] 海岸線の防尾は全滅。各手法は全部使用
不能。 ただ肉団線あるのみです。[音楽]
古本さんは終戦後ソ連軍の捕虜となり3 年間シベリアに欲留される。
欲留された日本人は57万5000人。
このうち5万5000 人が極寒感の地で命を落とした。今年
100 歳で亡くなった音楽家の田中ゆ介さん。
シベリアで4 年間欲流された体験を亡くなるまで語り続けた。
上と寒と柔道でねえていくんですよね。
亡くなった人ばっかり集める弊車があるん ですよ。そこへ掘り込むんですよ。で、
カチカチになってね、もうこうってます から車まで運んで穴を掘って埋めるという
作業を刺されたですね。いうことで、
そういう限界のね、移植もない。本当に
もう 口では言いされないね。言いされないね。
うん。
ソ連からマイズルに入行した2000名の 元軍人軍族が帰ってきました。
過酷な欲流生活を経て 26 歳で福印したにいた祖国は今目の前にあります。
戦後家庭を気づくも戦争のトラウマを引きずったまま家族に見放され自ら命を立った。
心の中で父をこう、あの、抹消してしまっ てた自分に対するなんだろう、まあ、食材
というか、あの、もっと父のことを ちゃんと知るべきだったなっていう
藤岡さんはさんと共 に氏の引き上げ記念を訪れた。
マイズルに引き上げるまで 3 年間シベリアで父に何があったのか知りたかった。
これが弊社。
あ、ムーリー。ほら、父の空域なんですよ。ムーリーすごいな。ムーリーがあったわ。
体験室あるよ、こっち。 ん? 部屋の部屋の再現の体験。 え、そうなんや。
いや、なんだかちょっと怖いんだけどね。なんかね。あ、
うわあ。こんなとこにいたんかって思う。 そういうこと なあ。うわ、なんか
うあ。 ええ、よく生きてたな。そうね。ね、
極感やからマイナ30°とか40°ぐらいになるやろ。
俺がにしたことはしました。 いや、なんか、なんかわかんないけどか。
[息をのむ音]
[鼻息] [息をのむ音]
ああ、よく生きてたね。
ああ。
ああね。海の匂いが。いや、この景色見たんだなあ。
そう。まあ、この山の景色や雲の景色
8月24 日に帰ってきてるんだよ。ついこないだよね。
8月24日って昨日じゃん。 え、今日
私がお帰りって言ってあげるわ。 お父ちゃんお帰りって。
お父ちゃんお帰り。 お父ちゃんお帰り。[叫び声]
で、ま、こうい、 父のことを知るにつれて 新たな感情も芽えてきたの。お話を聞いたこともないし、名前は聞いたことあります。
もうお父ちゃんの嫌な思いでしかここに なかったものがあ、実はそれだけではな
いっていうようなことが思い出されて、 あの、今ちょっとこう父を、ま、見直す
まではいかないんですが、あの、なんか こうもう1回親子としてのこう行き直し
みたいな、あの、もう父はすでにいないん ですけど、生き直しみたいな形で、あの、
もしも父が生きていたらどうやって声かけ てあげようかとか、
あの出産 公けの場で語ることで失ったものもあるんですが、その後は近所のおばあちゃんがものすごい妹と仲が良かったんです。
このPTSDの活動するまではもう月に 12回ランチに行ったりとかもう年に
2 回ぐらいかな旅行に行ったりとかでなんかあったらいつも相談し合ってたんでところがこの
PTSD の会をやり出した途端音信普通になりました。なんでか父のことを全く覚えていない。
3 歳ぐらいの時に父は亡くなってるしほとんど関わりが薄かったんですね。
妹には父をいじめてるように見える。父を さらし物にしてるように見える。だから
あんたのお父ちゃんかもしれんけど私の お父ちゃんやでって怒るんです。
こうやって話をするということはあの みんなの問題になっていくんだ。私の父の
話は家の恥でも何でもないんだ。日本が やった戦争の結果こういうことになってる
んだ。100ぴょっと閉め 家族が抱えたトラウマを
顔と名前を明して語れる人はほとんど言いない。 私はもうその顔が恐ろしくて
でも父が連れて帰った戦争をなかったことにはできなかった。くじ火を切る。 [音楽]
私が今やることで、あの、気づいてくれ はったりとか、あ、うちもそうなんちゃう
かって考えてくれはったりとか、ま、そう いうきっかけになればやっていこうと思う
し、今はまあ、とりあえず私しかいないん だろうから
私がやび
よし。 はい。今日も行くよ。
よいしょ。
藤岡さんの故郷と鳥取りおばちゃんおです。古本の三道千です。道を覚えてないか?金子さんとこの娘。
あ、元気な。 うん。えよ。おばあちゃんも元気だよ。
かつて父暮らした家は 20年ほど前に取り壊されたままだった。
もう該当のない道をね、酒担保だけ持って 買いに行かされてた。
もうこの景色は一緒ですわ。ここで育った なって。18歳までここにいたので。
まあないってない。なんかちょっと心が 軽い。楽[笑い]。
いや、まだ家があった。
うわ、った、あった、あった。
故郷に父の墓はない。廃オになったこの家だけが父の痕跡を残している。
うん。うん。してあげる。だよ。
よく見ときよ。写真の父に故郷を見せた。
戦争に行くまではいい人だった父。
よいしょ。[ベル]
はい。帰ってきました。
よしきましょう。よいしょ。あ。あ、いらっしゃい。
でございます。ありがとうございます。うわ、なんか豪華や。え、太らと思っても
いつも豪華でしょ。 豪華ですね。[笑い] これな、あの、手作りヨーグルトね。
ありがとう ね。さすが、 さすがでございます。 さすがえて あの人より自己免疫力
終戦の日 何か特別にすることはない。
なんかこうぼヤーんとしていた古本石松 さんが今ちょっとずつなんか形のある
古本石松さんに今なりつつあって、ま、 まだ未完成なんだけどなんかそれきちんと
[音楽]掴みてのがあってね、 理解するっていう工程ではあるけれど、
許しの工程ではないなと思って ずっとそのハカちの中の父とこういうこう
心で会話を積み重ねていったら あのまみれる日が来るのかどうかわかん
ないけど今全然あの想像もつかない。価値
があるから父に語りかけられるっていうか 。
うん。まだそういう段階。 [音楽]
戦後81年 父が連れて帰った戦争と
向き合い続ける。

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