伴 ゆりな:日本による旧韓国皇族の処遇
日本による旧韓国皇族の処遇
――1910~20年代の皇室制度整備に関して――
はじめに
王室間が婚姻関係を持つヨーロッパとは異なり、日本の皇室=天皇家は他国の王室との婚姻関係を想定していない。しかし、1910年に韓国を併合すると、1916 年には旧韓国皇太子(王世子李垠)と日本の皇族女性(梨本宮方子)との婚姻が決定し、皇室典範に規定のないこの婚姻をいかに実現するかという問題が生じた。また、旧韓国皇族に対する日本における法的処遇も、従来の大日本帝国憲法と皇室典範の枠組では処理出来ないものであった。
本報告では、日本が旧韓国皇族をいかに日本の制度内に包摂したのか、それによって日本の国家制度がいかなる変化を迫られたのかについての研究を紹介する1。
1.帝室制度審議会による王公家軌範案起草
1910年の韓国併合に際し、旧韓国皇族の処遇は次のように規定された。すなわち「韓国併合条約」において「日本皇帝陛下ハ韓国皇帝陛下太皇帝陛下皇太子殿下竝其ノ后妃及後裔ヲシテ各其ノ地位ニ応シ相当ナル尊称威厳及名誉ヲ享有セシメ且之ヲ保持スルニ十分ナル歳費ヲ供給スヘキコトヲ約ス」(第三条)、「日本皇帝陛下ハ前条以外ノ韓国皇族及其ノ後裔ニ対シ各相当ノ名誉及待遇ヲ享有セシメ且之ヲ維持スルニ十分ナル資金ヲ供与スルコトヲ約ス」(第四条)として旧韓国皇族の併合後の優遇を約束し、「韓国併合ニ関スル詔書」においても「韓国皇帝陛下及其ノ皇室各員ハ併合ノ後ト雖モ相当ノ優遇ヲ享クヘク」としている。敬称については「前韓国皇帝ヲ冊シテ王ト為スノ詔書」において太皇帝・皇帝・皇太子(王世子)及びそれぞれの妃を「王族」とし、「李ො及李熹ヲ公ト為スノ詔書」で両者とその妃を「公族」とした。李ොは王世子李垠の兄、李熹は太皇帝の兄である。この両詔書において王族及び公族に対して「待ツニ皇族ノ礼ヲ以テシ殿下ノ敬称ヲ用ヰシム」として皇族相当の礼遇と皇族のみに与えられていた「殿下」の敬称を用いることが定められた。また「前韓国皇帝ヲ冊シテ王ト為スノ詔書」には「世家卒循ノ道ニ至リテハ朕ハ当ニ別ニ其ノ軌儀
伴 ゆりな
ヲ定メ李家ノ子孫ヲシテ奕葉之ニ頼リ」、すなわち王族のための規定を後日別途設けることが約束されている。しかし併合の段階では、彼ら王族及び公族(以下、合わせて「王公族」と称する)が、日本において国法上いかなる地位にあるのかは明確ではなかった。
これを審議する契機となった出来事が、1916年、日本と植民地朝鮮との結びつきを強化するための方策の一つとして、王世子李垠と梨本宮方子との婚姻計画が持ち上がったことであった。皇族女性の結婚については、皇室典範第三十九条に「皇族ノ婚嫁ハ同族又ハ勅旨ニ由リ特ニ認許セラレタル華族ニ限ル」と限定されていた。これにより王族である李垠との婚姻は皇室典範に違背するため、何らかの方法で合法化する必要があった。
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フランス共同ゼミ「パリ・ディドロ(第7)大学とお茶の水女子大学:日本学の新たな構築の試み」 |
一方、明治以来の皇室制度整備は中途の段階にあり、未制定の皇室令が複数存在した。これらの皇室令は伊藤博文を総裁とする帝室制度調査局において起草され裁可を待つまでに至っていたものの、明治天皇崩御のために制定公布が滞っていたものである。李垠と梨本宮方子の婚姻問題の解決が必要になったことを機に、憲法起草以来、帝室制度調査局においても副総裁を務めるなど伊藤博文のもとで制度整備に関与していた伊東巳代治が意見書「皇室制度再査議」2を寺内正毅首相や波多野敬直宮内大臣らに提出した。伊東はこの意見書の中で未制定の皇室令の再審議と王公族に関する規定の起草のために新たな機関の設置が必要であると訴え、この伊東の主張が容れられ、同年、宮内省下に伊東を総裁とする帝室制度審議会が設置された。では、帝室制度審議会は王公族をいかなる存在として位置付けようとしたのか。当時の日本国内の身分は、天皇を元帥として、皇族、臣民の首班としての華族、一般臣民が存在していた。法的には皇族のみ皇室令が適用され、それによって臣民とは異なる法的処遇がなされた(ただしその多くは前述のように未制定であり、帝室制度審議会の再審議にかけられていた)。伊東は「皇室制度再査議」において「皇室典範ヲ始メ皇族ノ為メニ規定セラレタル皇室令其ノ他ノ法規ハ特別ノ明条ヲ存セサル現今ノ状態ニ於テ固ヨリ王族公族ニ適用又ハ準用セラルヘキ限リニ在ラス」として、法的には王公族も一般臣民と同様の処遇を受けざるを得ない現状を指摘し、その上で「果シテ然リトセハ特ニ皇族ノ礼ヲ以テ遇シタマフ所ノ珠典ト精神トニ於テ甚タシク軒輊スルモノト言ハサルヘカラス是レ畢竟法制ノ欠漏不備ニ職由スト言ハサルヲ得ス」と述べてこれを解決すべき問題であるとしている。伊東の考えでは併合時の詔書及び条約が規定した「皇族ノ礼」は法的優遇でなければ実がなく、そのためには法整備が必要であった。帝室制度審議会はこの方針で審議を進め、王公族の身位を規定する「王公家軌範」案(詔書における「世家卒循ノ道」)を皇室令をモデルとして起草した。帝室制度審議会による王公家軌範案は王公族に対して一般臣民とは異なる法的処遇を規定したもの、すなわち王公族のための立法を含んだものであり、その形式は「皇室令」とされた。
しかし併合時の詔書及び条約は王公族に対する優遇が法的優遇であるとは明言していない。このため「殿下」の敬称を用いる等「尊称威厳及名誉」の礼遇にとどまるものと解釈することも可能であった。帝室制度審議会は併合時において約束された優遇が法的優遇であることを明示するために、王公家軌範案とともに天皇の名において「惟フニ王族公族ハ皇族ニ准シテ其ノ身位権義ハ臣籍ニ在ル者ト自ラ揆ヲ異ニシ」と述べる詔書案を作成している3。
一方、李垠と方子の婚姻に関しては、このような皇族相当の礼遇を受けるべき王公族は、当然、一般臣民の首班たる華族よりも上位であり、皇族女性は華族にも婚嫁し得るのだから、王公族に婚嫁することは皇室典範に違背しない、という判断を下した。皇室典範の解釈によって婚姻を実現しようとする考えである。この方法に対しては、帝室制度審議会内でも「王公族ハ華族以上ナリト云フカ如キ勿論解釈ヲ採ルトセハ神聖ナル憲法皇室典範ノ解釈ニ対シ非常ナル悪影響ヲ及ホスコトナキヤ」4という懸念が出されたが、解釈による婚姻実現という判断の背景には「具体的一事件ノ為ニ改補ヲ為スカ如キハ鉅典ノ威厳ヲ侵犯スル嫌アラサルカ」5、「今之カ為ニ皇室典範ヲ改正スルカ如キハ断シテ容スヘカラサル事ニ属ス」6という皇室典範維持の姿勢があった。解釈の拡大を防ぐべきであるという主張と、明文上の変更を防ぐべきであるという主張は、いずれも日本の制度の維持を目的にしている点では同じであった。新規の存在である王公族をいかに捉えるかという問題は、日本の既存の制度にいかなる変更を加えるかという問題と結びついていたのである。2.王公家軌範案の取り下げと皇室典範増補
王公家軌範案は1917年末に完成し、寺内首相の確認を経て、翌1918年に枢密院に諮詢された。しかしここで王公家軌範案は枢密院による強硬な反対に遭う。枢密院顧問官の一木喜徳郎は、大日本帝国憲法と皇室典範という日本の制度に従って考えるならば、国法上、一般臣民と異なる規定を持ち得るものは皇族だけであって、王公族といえども臣民と同様の処遇を受けるべきである、「立法事項ハ命令ヲ以テ定ムルコト能ハスト断言セサルヘカラス」7と、強い口調で王公家軌範の法的不備を突いた。一木の論では、もし王公族を法的に優遇し、そのための立法事項を含む王公家軌範を制定するならば、必ず何らかの法的根拠が必要であり、それがない以上は、王公家軌範案から立法事項を削除し、尊称その他の礼遇のみを規定すべきというのである。また、皇室令とは皇族のための形式であるから、王公家軌範が皇室令であることは間違いであるとも指摘した。
李垠と方子の婚姻についても、枢密院は帝室制度審議会の解釈に反対し、皇室典範には皇族か華族への婚嫁しか規定されていないのだから、王公族との婚姻を実現するためには皇室典範を改正すべきであると述べた。枢密院では大半がこれらの一木の意見に同調し、帝室制度審議会に理解を示したのは、僅かに金子堅太郎一人であった。彼は一木らの意見に対し「諸君ノ意ハ今日ニ於テハ韓国皇帝ノ形跡ヲ全然抹消シテ仕舞フ積リナルヤ」「今日ニ至リテ僅ニ朝鮮王公族ノ残骸丈ヲ遺シ置ケハ足レリトスルノ説果シテ其ノ当ヲ得ルヤ否ヲ何人カ十分ニ説明シテ明白ナラシメンコトヲ欲ス」8と述べ、併合時の理念に則して王公族に法的優遇を与えるべきとし、立法事項を含む王公家軌範に賛同した。
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従来の制度が王公族の存在を想定していないにも関わらず、あくまでその制度の枠内で判断するのなら、先に見た通り、枢密院側の示した法律論は帝室制度審議会内においても審議の段階からすでに認識されていたものであり、法律論としては正当なものであった。枢密院による強い反対の背景には、この時期の枢密院が山県有朋の牙城であり、彼は朝鮮統治に強大な影響力をもつ人物であって、王公族の処遇に関して伊藤博文の流れを汲む伊東の考えが強く反映されることを好まなかったという事情がある。伊藤没後の皇室制度整備の全体に関しても伊東の独占的態度は警戒されていたと見られる。王公家軌範案と同時に諮詢された皇族裁判令案もまた枢密院の反対に遭っていたが、この対立にも政治的牽制という理由が大きかったことが、『原敬日記』の記述「聞く処によれば、伊東近来枢密院に於て山県系より圧迫され、皇室制度の如き其起草に係るものは全く通過せざる様になり、加ふるに伊藤系に於ても末松謙澄とは不和となり、今は金子堅太郎の外に味方なしと、左までの事なるや否や知るべからざるも、多少の根拠あらんか、末松との不和は事実なり、又山県は一木をして伊東に対抗せしむる外に、穂積陳重等数人の学者も入れたるは之が為めならんも知るべからず」9からも窺える。
帝室制度審議会は困難な状況におかれた結果、一旦は妥協案を試みたが、譲歩の度合いを見て、王公家軌範案及び皇族裁判令案を取り下げることに決定した。しかし皇室典範の問題に関しては、婚姻がすでに決定した事項である以上、早急な解決が必要とされた。枢密院側は皇室典範第三十九条に但書を書き加えるべきとし、「皇室典範第三十九条ニ左ノ但書ヲ加フ 但女王ハ王族又ハ公族ニ嫁スルコトヲ得」という典範改正の草案を提示した。皇室典範第三十九条が「皇族女子ハ」と規定しているのに対して、この草案は「女王ハ」とすることによって内親王の婚嫁を除外しており、その理由として「但女王ニ限リテ内親王ニ及ハス嫁ヲ許シテ娶ヲ許サヽルハ各位ヲ重ンスルノ道ニ於テハ然ラサルヲ得サルナリ」と述べていた10。この草案を皇室典範第三十九条と合わせて見れば、婚姻においては王公族を華族以下と見なしていることと同様であった。
帝室制度審議会は辞表をもってこの草案に断固反対し、このような内容は併合時の詔書に逆らうものであり、朝鮮統治政策上も問題があると主張した11。その結果、皇室典範の「増補」という過去にも例のある形式で、1918年、最終的に次のような一条が制定されることとなった。それが「皇族女子ハ王族又ハ公族ニ嫁スルコトヲ得」である。皇室典範の解釈のみによって婚姻を実現するという帝室制度審議会の当初の意見は通らなかったが、この増補であれば皇室典範第三十九条の婚嫁の対象に王公族が加えられたのみであり、枢密院側の草案のように王公族の国法上の地位を限定することはない。ただし、帝室制度審議会側も内親王の婚嫁や王公族から皇族への婚嫁(「娶」)を実現可能性のあることと認識していたわけではなく、明文上そのことを述べるべきではないという考えであった。
皇室典範増補によって李垠と梨本宮方子の婚姻は合法となり、1920年に実現した。しかし王公家軌範案は撤回されたままであり、王公族の制度内への位置づけの問題は先延ばしになった。1921年、二人の間に第一王子李晋が誕生した際には「王世子ノ系嗣ニ殿下ノ敬称ヲ用ヰシムル詔書」を渙発して対応している。3.大正時代末期の皇室制度整備
1922年、山県有朋が死去すると彼を中心とする政治勢力(山県閥)は名実ともに崩壊した。一方、伊東巳代治は枢密院を中心として自らの政治的発言力を増大させていった。大正時代末期になると、大正天皇崩御の兆しの中で宮内省は皇室制度整備に積極的になり、帝室制度審議会の審議は再び活発化した。
1925年、かつて枢密院による反対論の急先鋒であった一木喜徳郎が宮内大臣に就任した。立法事項を含む王公家軌範を制定するためには法的根拠が必要であるという一木の意見に変化はなかったが、彼は皇室制度整備そのものに対しては積極的であり、一木宮内大臣のもとで帝室制度審議会はこの法的不備を「王公族ノ権義ニ関スル法律」によって解決することに成功した。これは「王族及公族ノ権義ニ関シテハ皇室令ヲ以テ別段ノ規定ヲ定ムルコトヲ得」と規定するものであり、1926年、この法案は伊東巳代治の政治的発言力を反映して無事に議会を通過し法律第八三号として制定された。
こうして法的根拠を得た王公家軌範は、帝室制度審議会内の再審議によって多少内容に変更が加えられたものの、1918年に枢密院に諮詢されたものとほぼ同様の内容で再び諮詢されて可決し、1926年、帝室制度審議会の管轄であった多くの皇室令とともに成立を見た。成立した王公家軌範は帝室制度審議会の当初の希望通り王公族に法的優遇を認めるものであり、その形式も皇室令であった。
おわりに
明治以降、大日本帝国憲法と皇室典範を根本として成立していた日本の制度は、王公族という新規の存在に直面して変革を迫られた。併合によって旧韓国皇族を制度内に取り込んだために、日本の制度そのものも影響を受けることとなったのである。この問題は、王公族を法的に特別待遇するか否か、皇室典範の解釈を拡大すべきか改正すべきかを争点とする意見の衝突をもたらした。王公族の法的優遇を主張した帝室制度審議会は枢密院勢力に部分的に敗北し、皇室典範は王族と皇族女性との婚姻のために増補を経た。しかし王公族の処遇そのものは先延ばしの可能な問題であったため、成立の時機が窺われ、1926年になってかつて求められた法的根拠を新たな法律の制定によって確保した上で、立法事項を含む王公家軌範が合法的に制定された。
フランス共同ゼミ「パリ・ディドロ(第7)大学とお茶の水女子大学:日本学の新たな構築の試み」
注
1.この問題を扱った先行研究として、高久嶺之介「大正期皇室法令をめぐる紛争――皇室裁判令案・王公家軌範案・皇室典範増補――」上下(『社会科学』、同志社大学人文科学研究所、上=32号、1983年 下=34号、1984 年)、高久嶺之介「近代日本の皇室制度」(鈴木正幸編『近代の天皇』所収、吉川弘文館、1993年)、島善高「大正七年の皇室典範増補と王公家軌範の制定」(『早稲田人文科学研究』49号、1996年)、西川誠「大正後期皇室制度整備と宮内省」(『年報・近代日本研究20 宮中・皇室と政治』、山川出版社、1998年)、伊藤之雄「近代日本の君主制の形成と朝鮮――韓国皇帝・皇族等の日本帝国への包摂――」(『法学論叢』、京都大学法学会、2004年)などが挙げられる。
2.『伯爵伊東巳代治』(晨亭会、1928年)下巻所収3.島善高編『近代立法資料全集十七』(信山社、1996年)資料88
4.『平沼騏一郎関係文書』(国立国会図書館憲政資料室所蔵)韓議第五号、韓議第九号。
5.同上
6.『平沼騏一郎関係文書』リール29所収「王公家軌範案要綱」
7.『平沼騏一郎関係文書』リール27所収「大正七年六月十日午前九時半開会王公家軌範案ニ関スル枢密院特別委員ノ相談会」
8.同上
9.原圭一郎編『原敬日記』(福村出版、1965年)大正七年七月二十七日
10.小林達夫編『翠雨荘日記』(原書房、1966年)75頁
11.同上、77頁
ばん ゆりな/お茶の水女子大学 人間文化研究科 国際日本学専攻 博士後期課程2年
연구 배경 및 문제 제기
외국 왕실과의 통혼 및 제도적 공백: 일본 황실은 본래 타국 왕실과의 혼인을 상정하지 않았다
. 그러나 1910년 한일병합 후 1916년 영친왕(이은)과 일본 황족 여성 나시모토노미야 마사코(이방자)의 혼인이 결정되면서, 황실전범에 규정이 없던 혼인을 어떻게 적법화할 것인가가 쟁점으로 떠올랐다 .구 한국 황족의 법적 모호성: 병합 조약 및 조서를 통해 구 황실 인물들에게 '왕족' 및 '공족'(통칭 왕공족)이라는 칭호와 세비, 황족에 준하는 예우('전하' 경칭)가 약속되었으나
, 대일본제국 헌법 및 황실전범의 기존 틀 안에서 이들의 정확한 법적 지위는 규정되어 있지 않았다 .
1. 제실제도심의회의 <왕공가궤범> 안 기초와 대립
이토 미요지의 구상: 이토 히로부미 휘하에서 제도 정비에 관여했던 이토 미요지는 왕공족을 법적으로도 황족에 준해 대우해야 한다고 보고, 미제정 황실령 정비 및 왕공족 규정 마련을 위해 1916년 궁내성 산하에 <제실제도심의회>를 설치했다
.왕공가궤범안과 혼인 해석: 심의회는 왕공족의 신분을 규정하는 <왕공가궤범> 안을 황실령 형식으로 기초했다
. 또한 이은과 마사코의 혼인에 대해 "왕공족은 화족보다 상위이므로 황족 여성이 화족과 혼인할 수 있다면 왕공족과의 혼인도 황실전범에 위배되지 않는다"는 '해석론'을 펴 황실전범 개정 없이 혼인을 성립시키려 했다 .
2. 추밀원의 반발과 <황실전범 증보>
이치키 기토쿠로의 법리적 반론: 1918년 제출된 왕공가궤범안은 추밀원에서 강력한 반대에 부딪혔다
. 이치키 기토쿠로 고문관 등은 헌법상 일반 신민과 다른 규정을 둘 수 있는 대상은 황족뿐이며, 법적 근거 없이 명령(황실령)으로 입법 사항을 정할 수 없으므로 왕공가궤범은 법적 결함이 크다고 지적했다 . 혼인 역시 황실전범을 명문으로 개정해야 한다고 주장했다 .정치적 배경과 심의회의 양보: 이러한 대립 이면에는 조슈벌의 영수이자 조선 통치에 영향력을 행사하던 야마가타 아리토모 세력이 이토 미요지의 독주를 견제하려는 정치적 계산도 깔려 있었다
. 심의회는 결국 왕공가궤범안을 철회했다 .황실전범 증보(1918년) 및 혼인(1920년): 혼인은 기정사실이었기에 긴급 처리가 필요했다
. 추밀원의 '여왕' 한정안을 거쳐 최종적으로 1918년 <황족 여자는 왕족 또는 공족에게 출가할 수 있다>라는 황실전범 증보가 성립되었고, 1920년 두 사람의 혼인이 실현되었다 .
3. 다이쇼 말기 제도 정비와 <왕공가궤범>의 성립
정치 지형의 변화: 1922년 야마가타 아리토모 사망 이후 야마가타벌이 무너지고, 이토 미요지의 발언권이 강화되었다
.법적 근거 마련: 1925년 궁내대신에 취임한 이치키 기토쿠로는 황실 제도 정비 자체에는 적극적이었다
. 심의회는 이치키의 요구대로 법적 근거를 마련하기 위해 의회를 통해 <왕공족의 권의(權義)에 관한 법률>(1926년 법률 제83호)을 제정했다 . 이 법률은 왕공족의 권리와 의무에 관해 황실령으로 별도 규정을 둘 수 있도록 위임 근거를 명시했다 .왕공가궤범 공포(1926년): 합법적 법률 근거를 확보한 왕공가궤범은 황실령 형식으로 1926년 정식 가결·성립되었으며, 왕공족에 대한 법적 특별 대우가 공식적으로 완성되었다
.
결론
메이지 유신 이래 확립된 대일본제국 헌법과 황실전범 체제는 '왕공족'이라는 이질적인 존재를 제국 내로 포섭하는 과정에서 제도적 변혁을 강요받았다
《일본에 의한 구한국 황족의 처우》
伴ゆりな(반 유리나), 〈日本による旧韓国皇族の処遇―1910〜20年代の皇室制度整備に関して―〉, pp. 288–291.
1. 논문의 중심 문제
이 논문은 1910년 한일병합 이후 일본 정부가 대한제국 황족을 일본의 법률과 황실제도 속에 어떻게 편입시켰는가를 분석한다.
논문의 핵심 주장은 다음과 같다.
일본은 한국을 병합하면서 대한제국의 황실을 없애지 않고 이라는 특별한 신분으로 보존했다. 그러나 일본의 기존 헌법과 황실전범에는 이러한 신분을 수용할 법적 근거가 없었다.
따라서 한국 황족을 일본 제국에 편입하는 과정에서 오히려 일본의 황실제도 자체를 수정해야 했다.
이 문제를 현실적인 정치·법률 논쟁으로 만든 사건이 영친왕 이은과 일본 황족 나시모토노미야 마사코(이방자)의 결혼이었다.
2. 1910년 한일병합과 왕공족의 탄생
1910년 한일병합조약 제3조와 제4조는 대한제국 황제와 황족들의 지위, 명예, 생활비 등을 보장하도록 규정했다.
고종과 순종, 황태자 이은 등은 왕족으로, 의친왕 이강과 이희 등은 공족으로 분류되었다.
이들에게는 일본 황족과 비슷한 예우를 제공하고, 일본 황족에게 사용하는 라는 경칭을 허용했다.
그러나 문제는 이들의 법적 지위였다.
당시 일본의 신분체계는 크게 황족, 화족, 일반 신민으로 나누어져 있었다. 왕공족은 어느 범주에도 정확하게 들어맞지 않았다.
특별한 법률이 없는 상태에서는 왕공족도 일반 신민과 같은 법적 처우를 받을 수밖에 없었다.
따라서 일본 정부 내부에서는 왕공족에게 황족에 준하는 법적 지위를 부여할 것인가를 놓고 논쟁이 시작되었다.
3. 영친왕과 이방자의 결혼이 일으킨 헌법적 문제
1916년 일본 정부는 영친왕 이은과 일본 황족 이방자의 결혼을 결정했다.
그 결혼은 일본과 식민지 조선의 결합을 강화한다는 정치적 목적을 가지고 있었다.
그런데 일본 황실전범 제39조는 황족 여성이 결혼할 수 있는 상대를 황족 또는 천황이 특별히 허가한 화족으로 제한하고 있었다.
영친왕은 황족도 화족도 아니었다.
따라서 두 사람의 결혼은 기존 황실전범으로는 허용할 수 없었다.
이를 해결하려는 방안을 놓고 일본 정부 내부에서 심각한 갈등이 발생했다.
4. 두 가지 입장의 충돌
이 논문에서 가장 중요한 부분이다.
① 제실제도심의회와 이토 미요지(伊東巳代治)의 입장
이토 미요지는 왕공족이 화족보다 높은 신분이며 황족에 준하는 예우를 받는 존재이므로, 황족 여성과의 결혼을 허용할 수 있다고 주장했다.
그는 기존 황실전범을 개정하지 않고 해석을 확대하여 문제를 해결하려 했다.
또한 왕공족에게 특별한 법적 지위를 부여하는 을 제정하려 했다.
② 추밀원과 이치키 기타로(一木喜徳郎)의 입장
이치키는 이러한 해석에 반대했다.
왕공족에게 황족과 비슷한 법적 특권을 부여하려면 명확한 법률적 근거가 필요하며, 황실전범에 없는 결혼을 허용하려면 정식으로 규정을 수정해야 한다는 것이었다.
그의 주장은 기존 헌법과 황실제도의 법적 체계를 유지하려는 입장이었다.
저자는 두 진영의 갈등이 단순한 법률 논쟁이 아니었다고 설명한다.
이토 히로부미 계열의 정치세력과 야마가타 아리토모 계열의 정치세력 사이의 권력관계도 중요한 배경이었다.
5. 1918년 황실전범의 증보와 1920년 결혼
결국 1918년에 황실전범을 증보하는 방식으로 타협이 이루어졌다.
새로운 규정은 다음과 같았다.
황족 여자는 왕족 또는 공족에게 시집갈 수 있다.
이 규정에 따라 영친왕과 이방자의 결혼이 합법화되었고, 두 사람은 1920년에 결혼했다.
그러나 왕공족의 전반적인 법적 지위를 정하는 왕공가궤범의 제정은 여전히 이루어지지 않았다.
결혼 문제는 해결되었지만 왕공족이라는 신분의 법적 성격은 미해결 상태로 남은 것이다.
6. 1926년 왕공가궤범의 제정
1922년 야마가타 아리토모가 사망하면서 정치적 세력관계가 변화했다.
이토 미요지의 정치적 영향력도 강화되었다.
1925년에는 과거 왕공가궤범에 반대했던 이치키 기타로가 궁내대신이 되었다.
이치키는 왕공족의 특별대우 자체를 무조건 반대한 것이 아니라 명확한 법률적 근거가 필요하다고 주장했던 인물이었다.
결국 1926년에는 왕공족의 권리와 의무를 황실령으로 별도 규정할 수 있도록 하는 법률 제83호가 제정되었다.
이를 근거로 왕공가궤범도 제정되었다.
따라서 1910년 한일병합 당시 약속했던 왕공족의 특별한 법적 처우는 16년이 지난 1926년에야 제도적으로 확립되었다.
7. 저자의 결론
저자는 일본 제국이 대한제국 황실을 흡수하면서 예상하지 못했던 제도적 문제에 직면했다고 결론짓는다.
왕공족은 일본의 기존 황족도 아니고 일반 신민도 아니었다.
이 새로운 존재를 제국의 신분질서에 편입시키기 위해 일본은 황실전범을 증보하고 새로운 법률과 황실령을 제정해야 했다.
즉 한국병합은 조선의 정치제도를 변화시켰을 뿐 아니라, 일본 자신의 국가제도에도 변화를 요구했다.
8. 평론: 이 논문의 역사적 의미
이 논문은 짧지만 일본 제국주의의 통치구조를 이해하는 데 중요한 문제를 제기한다.
첫째, 일본의 식민지 지배는 단순한 동화정책이 아니었다.
일본은 대한제국의 황실을 없애지 않고 특수한 신분집단으로 보존했다. 조선왕조의 전통적 권위를 일본 제국의 정치적 질서에 이용하려는 것이었다.
둘째, 이러한 제도에는 근본적인 모순이 있었다.
왕공족은 일반 조선인보다 높은 지위를 누렸지만 독립국가의 황족은 아니었다. 일본 황족에 준하는 예우를 받았지만 일본 황족과 동일한 법적 존재도 아니었다.
셋째, 일본 정부 내부의 갈등은 식민지 통치정책에 관한 이견뿐 아니라 일본 정치엘리트 사이의 경쟁을 반영했다.
따라서 왕공족 제도는 조선과 일본 사이의 문제이면서 일본 내부의 헌법·정치 문제이기도 했다.
신조 미치히코의 《조선왕공족》과의 관계
앞서 살펴본 신조 미치히코의 《조선왕공족―제국 일본의 준황족》과 비교하면 두 연구의 관심에는 차이가 있다.
반 유리나의 이 논문은 왕공족 제도를 만드는 과정에서 일본의 법률과 황실제도가 어떻게 변화했는지에 초점을 맞춘다.
반면 신조의 저서는 왕공족 제도의 형성과 함께 왕공족 구성원들의 다양한 삶과 정치적 위치를 더욱 폭넓게 다룬다.
두 연구를 함께 읽으면 다음과 같은 구별이 가능해진다.
법적으로 왕공족은 어떻게 만들어졌는가? — 반 유리나의 중심 질문이다.
그 제도 안에서 조선왕조의 후손들은 어떻게 살아갔는가? — 신조 미치히코가 더욱 폭넓게 탐구하는 문제이다.
종합 평가
이 논문의 의의는 일본 제국주의의 지배가 피지배 사회뿐 아니라 지배국 자신의 제도에도 변화를 가져왔음을 보여준다는 데 있다.
왕공족은 제국의 통합을 상징하기 위해 만들어졌지만, 오히려 제국 안에 존재하는 신분적·민족적 차이를 드러냈다.
다만 논문은 왕공족의 법적 지위를 둘러싼 일본 정부 내부의 논쟁에 집중하기 때문에, 조선 사회가 이러한 제도를 어떻게 받아들였는지, 왕공족의 실제 생활과 정치적 행위가 어떠했는지는 깊이 다루지 않는다.
이것은 이 논문의 연구 범위에 따른 한계이다.
결국 이 논문에서 가장 중요한 역사적 역설은 다음과 같다.
일본은 대한제국의 주권을 없앴지만, 그 황실의 권위를 완전히 없앨 수는 없었다. 그래서 황실을 보존하면서도 독립적인 정치적 권한을 갖지 못하는 이라는 특수한 지위를 만들어야 했다.
바로 그 과정에서 일본 제국의 법적·정치적 모순이 드러난 것이다.
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