2026-10-13

裏日本 - Wikipedia

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裏日本

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
裏日本

裏日本(うらにほん)は、日本の国土において、本州の日本海に面する地域を指す呼称である[1]。現在は一般に(本州の)日本海側(にほんかいがわ)という。最大の都市は新潟市。

裏日本という言葉

日本語で「裏」という言葉は、衣服の裏地を指す言葉から派生した表現で、もともとは何ら否定的な意味合いを持つものではなかった[2]。本来は単に「表」と対比する意味であるが、歴史的背景が絡みながら今日では侮蔑的なイメージを少なからず持つ[3]。

かつては、天気予報などで地域を指す言葉として普通に使われていたが、NHKでは新潟県から苦情が寄せられたため、1960年代末頃から差別的・侮蔑的であるとして「裏日本」という用語を使わなくなり、民放や地方紙などでも1970年代後半ごろから徐々に使わなくなっていった[4]。現在のテレビ・ラジオや大手新聞等で使用されることは基本的にない[4]。

平成以降では、新潟県長岡市の合併協議で1926年(大正15年)制定の「長岡市歌」が3番の歌詞に「裏日本」を含んでいたために合併に加わる他の市町村から反発を受けて合併後に2代目の市歌を制定したり[5]、2009年(平成21年)には富山県滑川市で1954年(昭和29年)制定の「滑川市の歌」で2番に含まれた「裏日本に」を「広く日本に」と置き換える等の事例も存在する[6]。

裏日本の対義語に「表日本」という語がある。

そのような背景から、現在は「裏日本」「表日本」という呼称は「日本海側」「太平洋側」に改められた。また中国や韓国、ロシアとの経済交流を促進する意味合いで、「環日本海」といった呼称も使用されるようになった[7]。

なお中国地方では山陰地方と山陽地方に分けられるが、これは陰陽思想で北を陰、南を陽とするのに基づいて名付けられた山陰道と山陽道に由来する。

この言葉には前述のように差別的・侮蔑的な印象を与える可能性があるが、本稿では記述のため、原義通り、差別的意図を含めていない。 ただし、地元住民からは裏と言われることに差別意識はある。

地理的・気候的特徴

関口武による日本の気候区分では、裏日本は日本の6種類の気候区のうち、日本海型に分類される。米山以東(中越地方以北)はそのうち1b型(東北・北海道型)、米山以西(上越地方以西)は1c型(北陸・北近畿・山陰型)に分類される[8]。

時代背景

「裏日本」という語は、地理学者の矢津昌永が1895年(明治28年)に発表した「中学日本地誌」に最初に登場した[3][† 1]。それまでこの地域は裏日本と呼ばれず「内日本」と、表日本は「外日本」と呼ばれていた。裏日本という語が使われ始めた当初は、首都である東京を玄関口であるという意味で「表」とした場合、自然と日本海側が「裏」となる事から単に地理用語として用いられ、侮蔑的な意味合いは持っていなかった[3]。このように明治以降の日本の近代化で先進的な表日本に対比して用いられ始めた[9]。

かつて裏日本は北前船、蝦夷地(アイヌモシリ)などとの海上交易の拠点として重要な役割を演じていた。ところが、幕末・明治時代以降、殖産興業や鉄道・港湾などの投資は太平洋側に集中し、日本海側にはあまり行われなかった。これには、近代化が進むにつれ、大型船の入るのに便利な港の必要性が高まったことが関係する。日本海側は海岸線が単調でそのような港をつくりにくい[要出典]。また、土砂の堆積が起こりやすい河口の港が多く、港湾の拡張や維持に多額の費用がかかった[要出典]。明治維新では日本海側では唯一、新潟港が開国時の条約港に選ばれたが、上記の理由により盛んに貿易は行われず、内湾が多く、良港を作りやすい太平洋側に比べ大変不利な条件となった。

裏日本と太平洋ベルト

20世紀に入ると、裏日本という語は、自然と表日本と対比した際の経済的格差を表す語として使われるようになっていた[4]。更に高度経済成長期に太平洋ベルトに位置する工業地帯(京浜工業地帯、中京工業地帯、阪神工業地帯)に向けて人口が移動し、裏日本と呼ばれる地方は一層衰えた。高度経済成長期には、「金の卵」と呼ばれた団塊の世代が労働力として、上越線や米原経由のルートを通じて太平洋側へと大量に移動した。

1970年代になると、裏日本である新潟県中越地方から、田中角栄が有力な政治家として登場し、表日本に偏った政策を変えようと、「日本列島改造論」を発表した。これは、交通網を日本全国一様に敷設することで地域間格差を解消できるという考えであり、当時の国土開発計画に大きな影響を与えた。しかしオイルショックが発生したのちロッキード事件で失脚、以降は「東京基点」の路線が優先的に作られ、却って東京一極集中を押し進める結果になった面もある(ストロー効果)。

1980年代になると、東北新幹線が表日本内陸側の宮城県・岩手県を通って開通した。これにより太平洋ベルトから外れているために表日本との格差が顕著でなかった東北地方でも、「日本海側vs内陸vs太平洋側」の格差が意識されるようになる[要出典]。盛岡市が北東北の交通の要所となり、東北地方における仙台市への一極集中が起こった[要出典]。

近代以前

近代以前には「表日本・裏日本」という言葉は無く、「裏日本」に該当する地方は、「表日本」に該当する地方と大きな差はなかった。それどころか、かつては「内日本」と呼ばれ、当時「外日本」と呼ばれた「表日本」以上に栄えていた時代があった。

裏日本の海岸沿いには、港に適した潟が多くあり、裏日本同士の海上交易のほか、日本海を挟んで向かい合う中国や朝鮮半島などに栄えた国家との海上交易が盛んであったため、古代日本では、裏日本はむしろ日本の表玄関であった。

出雲国(島根県東部)は、古くから出雲大社を中心にした神道の拠点であったほか、良港を多く持ち大陸などとも交易し、大和政権などに伍する古代日本有数の政治勢力でもあった。

古代の丹後半島には有力な勢力が存在し(→丹後王国論)、日本海沿岸の各地や大陸各地との交易を物語る出土品が多数あるほか、日本でも有数の巨大な前方後円墳が幾つも存在し、ヤマト政権とアジア大陸とを結ぶ富裕な政治勢力だったと見られている。

山陰や北近畿の外にも、北陸一帯には、越(こし)などヤマト王権に伍する大勢力が存在した。継体天皇は、越前国で成長して壮年期まで在住した後、畿内に進出して即位している。なお、明確な根拠は一切なく、想像の域を超えることはないが、それまでの天皇とは血縁関係のない、北陸を背景にした勢力による新王朝と見る説[要出典]が主張されることもある。

人口や経済力の面でも、裏日本は主要な地であった。江戸時代、北前船は蝦夷地から日本海側各地と瀬戸内海を経由して大坂や全国へとつながる物流の幹線であり、米や紅花、昆布、木材、織物などの各地の産品が北前船によって大量輸送され、全国に流通した。この時期、太平洋は、海の荒さなどから日本海ほど物流路は大きくなっていない。

裏日本には、能代、秋田、酒田、富山、松江など、新田開発や豊富な水量による豊かな稲作や、北前船による交易を背景に、文化や工芸が発達した都市が多く現れた。特に金沢は、「加賀百万石」の城下町と呼ばれ、江戸時代には三都(江戸、大坂、京都)に次ぐ、名古屋と同定度の規模の人口(10万人以上)を誇っていた。また越後は江戸時代に人口が増加し、旧国別人口において武蔵や陸奥に次ぐ人口をかかえ、明治時代に入ると、1873年(明治6年)6月10日 - 1876年(明治9年)8月20日、1881年(明治14年)2月7日 - 1883年(明治16年)中頃、1887年(明治20年)11月4日 - 1893年(明治26年)3月31日の間、新潟県は東京府(現東京都)を超えて日本一の人口を有する県であった(近代以前の日本の人口統計、国勢調査以前の日本の人口統計等参照)。

1900年(明治33年)に初版が出版された鉄道唱歌北陸編で、新潟は「戸数万余の大都会」と歌われ、金沢も「さすが賑わう町のさま」と歌われている。その他の北陸地方の都市でも、長岡は「町は名だたる繁華の地」、富山は「越中繁華の地」、高岡は「商業繁華の高岡」と歌われた。

近代以降

1894年(明治27年)に出版された志賀重昂の『日本風景論』では、「裏日本」という言葉はないが、「日本海岸は在来交通の利便甚だ少し」とか「太平洋岸よりも人口少し」などと書いている。

都道府県

1871年(明治4年)に明治政府によって廃藩置県が実施された当初は、「3府72県」と呼ばれる体制であった。その中でも、裏日本には現存する秋田県・山形県・新潟県・長野県・富山県・石川県・福井県・鳥取県・島根県に加えて、酒田県(庄内)、柏崎県(上越・中越)、七尾県(能登)、敦賀県(若狭)、豊岡県(三丹)、浜田県(石見)が分立していた。しかし、1873年 - 1876年にかけて県の合併が相次いだ結果、1880年代に分立を果たした地域を除き、県庁を奪われて行政的にも疎外される地域が溢れる結果になった。

交通網

鉄道

日本の近代化と工業化の動きにより鉄道が日本全国に敷設されたが、裏日本は表日本に比べて大きく遅れた。例えば、山陽本線と山陰本線を例にとって説明すると、表日本である山陽本線の最初の区間が山陽鉄道によって1888年(明治21年)に開通した[10]のに対し、裏日本の山陰本線は京都鉄道が1895年に免許を取得し、1897年に最初の区間が開通した[11]。同様に全区間開通に関しても、山陽本線が下関駅まで1901年に全区間開通したのに対し、山陰本線が下関(幡生駅)まで全区間開通したのは1933年(昭和8年)であった[12]。鉄道の敷設段階で大きく遅れをとっただけではない。山陽本線は1942年(昭和17年)に世界初の海底トンネルである関門鉄道トンネルを開通させ、1944年までには全線の複線化が完了、1964年(昭和39年)には全線の電化が完了した[12]のに対して、山陰本線は2020年現在も非電化単線区間が多く存在する[13]。

同様に東北本線・常磐線・羽越本線の3本を比較した場合、表日本内陸の東北本線は、1891年(明治24年)に全線が開通した後、1968年(昭和43年)に全線の複線化及び電化が完了している。表日本沿岸の常磐線は、1898年に全線が開通した後、1967年に全線電化が完了しているが、複線はいわき駅(電化当時は平駅)以南のままで、同駅以北は大部分が単線となっている。しかし、仙台から三陸沿岸ルートで八戸に至る「三陸本線」は開通せず、路線が幾つにも分かれている。

本州日本海側の羽越本線は、1924年(大正13年)に各県境区間が接続して全通し、1972年(昭和47年)にようやく全線の電化が完了しているものの、2024年現在も多くに複線区間と単線区間が残る。

路線網の発達の観点では、例えば大阪駅から青森駅への、表日本経由のルートは1891年に繋がっていた一方、本州日本海側ルートは1924年まで繋がっていなかった。また大阪から下関へは、表日本ルートは1901年に繋がっていた一方、裏日本ルートは1933年まで繋がっていなかった。北陸本線の敦賀駅から奥羽本線の青森駅に至る路線は、一本の路線としても機能している。これらの路線はかつて、国鉄内部において「裏(日本)縦貫(線)」とも呼ばれていたが、高度成長期以降は「日本海縦貫線」の呼称が用いられるようになった。

新幹線の敷設も表日本(特に東京)を中心に実施されている。裏日本を完全に縦貫する路線は存在せず、上越新幹線と北陸新幹線、ミニ新幹線の山形新幹線と秋田新幹線がそれぞれ東京へ向かっており、羽越新幹線、山陰新幹線は建設の目処が立っていない。

海上交通

明治維新以前、水上交通は、太平洋よりも日本海の方が主流であった。特に北前船と呼ばれる船を利用して、貿易品の地域間での価格差によって利潤を獲得していた北前船貿易が、商人たちによって盛んに行われていた。

日本の近代化が行われている最中である1880年には、日本全体で汽船製造が盛んになっていたが、裏日本では汽船の製造はほとんど行われておらず、伝統的な和船の製造が続いた[要出典]。中でも、北前船の伝統を持つ石川県やその周辺で、日本全体の2割以上の和船を製造していた[要出典]。しかし、1884年に大阪で大阪商船が設立され、翌1885年には東京で郵便汽船三菱会社と共同運輸会社が合併して日本郵船が設立された。これらの商船会社は、近代的な西洋汽船の運航が主であったため、和船から汽船への入れ替わりは益々顕著になって来た。その流れの中、1888年には500石以上の和船の製造が禁止されることとなったが、裏日本では西洋船の製造が進まなかったため、多くが旧式の和船を使い続けることとなった[要出典]。和船から汽船へと変遷するに伴い、造船業が石川県(日本海岸)から大阪府(瀬戸内海岸)に完全に変遷し、かつて日本海が中心だった船の航路も、鋼鉄製の汽船の登場や航海技術・気象観測技術の進歩によって波の荒い太平洋でも安全に航行できるようになったため、次第に太平洋が主流になって行った[要出典]。

日本海の航路の整備はなかなか進まず、政府の援助を得て、ようやく1892年に新潟と佐渡島を結ぶ佐渡汽船が整備された。その後、日本郵船の汽船が小樽 - 神戸を週1便のペースで定期運航を始めると、地域間価格を利用して個人で商売を行っていた北前船は衰えた。

時代が完全に汽船に変遷し、和船が終わりを迎えていた頃、北陸地方では、日本全体の和船の半分近い47隻がいまだに現役であった。汽船の本格的な造船所は、裏日本には新潟県に1工場(新潟造船)が作られたのみで、大部分が太平洋側と瀬戸内海側と東シナ海側、それに北海道に集中していた。[要出典]

近年は環日本海の各国などとの国際的な貿易や交流が重視されている。2011年に国土交通省が、貿易や旅客輸送および災害発生時など多様な目的に対応する整備を目指すとして5港を選定した日本海側の「総合的拠点港」には、裏日本に所在する中核国際港湾に指定された新潟港および伏木富山港が含まれている[14][15]。

高速道路

高速道路の整備も、対東名阪は充実しているが、縦貫線は表日本に対して遅れている。この格差をなくすよう国や県に働きかける動きもある[16]。

裏日本の高速道路は、既に全線が開通し全線4車線化が行われた北陸自動車道と一部暫定2車線ながら2014年7月20日に全線開通した舞鶴若狭自動車道[17]を除けば、日本海東北自動車道[18]や山陰自動車道[19]には、未開通区間があり、開通区間も大半は暫定2車線である。

東日本大震災の際に東北自動車道と常磐自動車道が一時寸断された経験から、地元自治体などから未着手だった日本海沿岸東北自動車道朝日まほろばIC - あつみ温泉IC間、遊佐IC - 象潟IC間の2区間の早期着手の要望を受け、国土交通省は2013年度にこの2区間について事業着手した[20]。

表日本の東北自動車道[† 2]、東名高速道路、名神高速道路、山陽自動車道は、既に全線開通済みで4車線となっているだけでなく、東名高速道路と名神高速道路ではそれぞれ平行する2本目の高速道路、新東名高速道路と新名神高速道路の建設が行われている[21][22]。一方、表日本でも太平洋岸の常磐自動車道と三陸自動車道は開通が遅れ、常磐自動車道の全通は2015年、三陸自動車道の全通は2019年であった。

主要な高速道路網
路線名起点終点主な経由地
北陸自動車道米原市新潟市敦賀・福井・小松・金沢・高岡・富山・糸魚川・上越・柏崎・長岡
日本海東北自動車道新潟市秋田市[† 3]新発田・村上・鶴岡・酒田・象潟・由利本荘・秋田
能越自動車道砺波市輪島市小矢部・高岡・氷見・志賀・穴水

空港

空港の整備も表日本と比較して、裏日本は遅れた[要出典]。新潟空港(1930年開港)を除き、全て戦後になってから整備された。それだけでなく、絶対的な人口の差から、表日本の空港と比較して利用者数が少ないため、あまり設備投資が行われていない。そのため、共用飛行場の小松と米子、東京線に大型機材を投入する必要があった秋田、中距離海外路線を持ち2500m級滑走路整備が必要となった新潟を除けば、ジェット化されていても滑走路長は2000m級の空港がほとんどである。なお、京都府のみ空港が存在しない。そのため、最寄りの空港は兵庫県の神戸空港もしくは大阪府・兵庫県の大阪国際空港(伊丹空港)である。また、新潟と米子は1945年から1958年まで米軍による占領を経験している。そのため長らく軍用として利用されていた[† 4]が、米子が1954年に、新潟が1958年に初の定期路線を就航させた[† 5]。

各県の空港一覧

路線網は東京・大阪便を中心とした日本国内便の他、中国や韓国、台湾・ロシア極東などといった比較的短距離の航空路線が中心で、機体も小型・中型機が多い。

なお、ソウルの仁川国際空港と日本の間の国際路線は、成田国際空港・東京国際空港・関西国際空港・中部国際空港・福岡空港だけではなく、その他の日本各地の地方空港とを結ぶ便が多数就航している。この状況により、日本の地方空港 - 仁川国際空港 - 世界の各都市との間で国際線を乗継いで利用され、事実上、日本のハブ空港として機能している[要出典]。(詳細は後述)

産業

1886年に都道府県別で行われた綿作の生産量調査では、富山県が10位、新潟県が14位、島根県が17位、鳥取県が18位であった。それから山陰地方ではますます綿作が発達し、1912年の農商務省による調査では島根県、鳥取県、茨城県の3県が最も盛んであったとされている。

本州日本海側全域で米の生産が盛んであり、名産物ともなっている。品種としては特に、当初新潟県で交配された後に福井県で品種改良によって生まれたコシヒカリが食味のよさから有名である。

北陸地方には北陸工業地域がある。山陰ではたたら製鉄も発達した。1884年では島根県のたたら製鉄工場の数が218工場であり、日本全体の10.3%を占めていた。新潟県中越・下越地方と秋田県では、古くから石油が産出された。そのため日本のエネルギー産業では、新日本石油(現ENEOS)やコスモ石油など、中越・下越地方に源流を持つ企業が存在する。現在でもINPEX(旧帝国石油)や東北電力などのLNG基地が存在するほか、本州日本海側は太平洋側に対して農作物や労働力や電力の供給を行っている。電力は効率的な大量生産が可能であるが、放射性物質を用いる原子力発電は、人口が密集していて電力需要が多い太平洋側よりも本州日本海側により多く設置されている。若狭湾沿岸の日本原電敦賀発電所や関西電力美浜発電所および大飯発電所や高浜発電所、新潟県中越地方の東京電力柏崎刈羽原子力発電所、島根県の中国電力島根原子力発電所がこの例であり、長大な送電線を通じて太平洋側へ電力を供給している。これら原子力発電所が建設されることにより、雇用を確保できる点や、多額の原発交付金を受けられる点などから、自治体によって積極的に誘致される例もある(表日本にも同様の事情により青森県下北、宮城県、福島県、茨城県、静岡県、愛媛県などに原子力発電所が立地しているが、いずれにせよ太平洋ベルト周辺に多く立地する火力発電所とは立地状況が大きく異なっている[要出典])。

日本の漫画史に大きな影響を与えたトキワ荘出身者の多くが本州日本海側出身である(藤子不二雄など)。新潟県には漫画家を目指す学生の専門学校がある。

都市

政令指定都市は新潟市[† 9]だけであり、中核市は金沢市、富山市、秋田市、松江市、鳥取市、福井市、山形市、青森市の8市。特例市は長岡市、上越市の2市のみである。全体的に過疎地域が多く[要出典]、村落部では人口減少や後継者不在問題が深刻になっている。


経済

2011年の東日本大震災を機に今後太平洋側で大規模災害が発生した場合経済を支える取り組み(高速道路の整備加速など)が各自治体で行われている。

教育

日本が国策として教育に力を入れ始めた明治時代に、旧制高等学校(ナンバースクール)という制度が始まった。設立順に番号が付けられた高等学校を指し、裏日本には金沢に旧制第四高等学校が設置された。新潟も旧制高等学校の誘致を積極的に行ったもの、1899年の新潟県の就学率は、日本全体で下から数えて沖縄、北海道に次ぎ3番目であった[23]。1900年の旧制第六高等学校の誘致で岡山に敗れ、それ以後の旧制第七高等学校と旧制第八高等学校の誘致も失敗に終わった。結果、新潟にはナンバースクールは設置されず、都市名が校名となる旧制新潟高等学校が設置された。裏日本に設置された旧制高等学校としては、他に旧制山形高等学校、旧制松江高等学校、旧制富山高等学校(当初県立、後に官立に移管)がある。

金沢では、北陸帝国大学の設置運動が、第二次大戦前と第二次大戦後に起こった。1911年1月に衆議院議員戸水寛人らが、東京・京都・東北・九州に次ぐ「北陸帝国大学設立に関する建議案」を第27回帝国議会に提出し、翌月可決したが、帝国大学の設置は裏日本には行われなかった[24]。第二次大戦後には、市民レベルで金沢への総合大学設置運動が展開され、1946年6月3日に「北陸総合大学設置期成同盟会」を結成した。結成会には、石川県だけでなく、富山県と福井県の知事、富山市、福井市、敦賀市[25]各市長が出席した。8月には、第90回臨時帝国議会に「金沢市に北陸帝国大学を設置に関する建議案」が提出された。建議書では、太平洋側に帝国大学が偏在することの弊害を述べ、日本海側の帝国大学設置を提案したが、憲法改正草案などの審議などのため、審議に至らなかった[25]。

大学令に基づく旧制大学として、金沢医科大学や新潟医科大学が設置され、戦後の学制改革の際に、各々金沢大学医学部や新潟大学医学部に改組されている。

軍事・治安維持

最初に近代的な軍の拠点が置かれた都市は、仙台、東京、名古屋、大阪、広島、熊本と、いずれも太平洋側と瀬戸内海側(九州は東シナ海側)であり、これらのうち熊本以外は中央省庁の出先機関の密集地でもあった。裏日本に最初に置かれたのは日清戦争後の1898年に第9師団が金沢に、それに続いて1908年に高田(現在の上越市南部)に第13師団が置かれた。

対ロシアの戦略上、日本海軍は日本海側へ海軍の軍事拠点を欲しており、1889年(明治22年)に、湾口が狭く防御に適し、湾内は波静かで多くの艦船が停泊できるなど軍港としては格好の地形であった舞鶴湾に白羽の矢をたて、舞鶴に鎮守府を設置する事になった。舞鶴の軍港建設費用は日清戦争によって清国から支払われた賠償金が充てられる事になった。初めに設けられた海軍施設は1893年(明治26年)完成の石炭貯蔵庫で、日清戦争による賠償金が充てられるようになると建設は飛躍的に進み、1896年(明治29年)には臨時海軍建築部支部(支部長:中溝徳太郎中佐)が設置された。舞鶴は山地が多いため、敷地開削工事に多額の費用を要したが、1899年(明治32年)末に土地造成工事はほぼ完了した。これに並行して鎮守府諸施設の工事が始まり、1901年(明治34年)10月1日に舞鶴鎮守府が開庁、初代司令長官は当時海軍中将であった東郷平八郎が任命された。

とはいえ、軍事工場も含めた軍事施設の大部分が表日本にあり、日本軍の中心は表日本であった。そのため逆に日本本土空襲では比較的空襲を受けなかったほか、表日本には東京都、神奈川県、山口県などに大規模な米軍基地が立地するが、本州日本海側には2014年の丹後半島の経ヶ岬に経ヶ岬通信所運用開始[26]まで、自衛隊の米軍一時利用可能施設を除き米軍施設は存在しなかった[27]。

戦後、北朝鮮による日本人拉致問題が発生した。

1997年のナホトカ号重油流出事故の際、およそ20万人がひしゃくや手で重油をすくった。これは日本全体で11隻あった重油配属船のうち、本州日本海側には1隻も配属されていなかったためである。[† 10]さらに油吸着材も、日本海側には全国にあるうちの1割未満しか置いていなかった[28]。

2020年代前半の新型コロナウイルス感染症においては比較的感染者・死者が少なかった。

北海道・大阪との関わり

裏日本は、江戸時代から北前船の西廻り航路で北海道・大阪と強く結びついていた。さらに、朝鮮・関東州・樺太といった当時日本が領土・租借地として獲得したばかりの「外地」との関わりを抜きには語れない[要出典]。北陸地方や東北地方日本海側からは主に北海道や樺太へ、山陰地方からは主に朝鮮・満州へ、近代化や開拓に向けて移住した者が多かった[要出典]。さらに、北陸・新潟地方の地主・商人は北海道開発に多くの資本を提供した[要出典]。特に「新天地」と呼ばれた北海道へ移住した者は、農地の開拓や商業の設立で成功を収めた例が数多く、現在も札幌を拠点に営業を行っている百貨店の丸井今井を創設した新潟県出身の今井藤七などが、成功した例であるといえる。現在では上越新幹線や関越自動車道で関東地方と直結しているため、大阪より東京志向が強い。

日本海沿岸地域(札幌から京都をへて大阪)を走り抜けた寝台特急トワイライトエクスプレス(2006年、富山駅)

北陸地方[† 11]は古くから大阪との関係が深かった。そのため北陸本線などを経由する特急列車が多く設定された。しかし近年は利用者の減少で相次いで夜行列車は廃止となり、北陸新幹線の延伸開業(特に2024年の敦賀駅延伸)に伴い、北陸特急「サンダーバード」の運行区間の短縮が行われており、さらなる関西離れが懸念されている。

方言

裏日本には、いわゆる「ズーズー弁」といわれる共通の音声特徴をもつ方言が分布する。裏日本方言を参照。

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출처 : 무료 백과 사전 "Wikipedia (Wikipedia)"
뒤 일본

뒤일본 (우라니혼)은, 일본 의 국토 에 있어서, 혼슈 의 일본해 에 면하는 지역을 가리키는 호칭이다 [ 1 ] . 현재는 일반적으로(혼슈의) 일본해측 (니혼카이가와)이라고 한다. 최대의 도시는 니가타시 .

뒤 일본이라는 말

일본어로 '뒤'라는 말은 옷의 안감 을 가리키는 말에서 파생된 표현으로 원래는 아무것도 부정적인 의미를 가지지 않았다 [ 2 ] . 본래는 단순히 「표」와 대비하는 의미이지만, 역사적 배경이 얽히면서 오늘은 모멸적인 이미지를 적지 않게 가진다 [ 3 ] .

예전에는 날씨 예보 등으로 지역을 가리키는 말로 보통 사용되고 있었지만, NHK 에서는 니가타현 에서 불만이 전해졌기 때문에, 1960년대 말부터 차별적·모멸적이라고 해서 「뒤일본 」 이라는 용어 를 사용하지 않게 되어, 민방이나 지방지 등에서도 1970 년대 후반 . 현재의 텔레비전 · 라디오 나 대기업 신문 등에서 사용되는 것은 기본적으로 없다 [ 4 ] .

헤이세이 이후에서는, 니가타현 나가오카시 의 합병 협의에서 1926년 ( 다이쇼 15년) 제정의 「나가오카시 노래」가 3번의 가사에 「뒤일본」을 포함하고 있었기 때문에 합병에 참가하는 다른 시정촌으로부터 반발을 받아 합병 후에 2대째의 시가를 제정 하거나 [ 5 ] 2009년 (헤세이 21년)에는 도야마현 나미 카와시 에서 1954년 (쇼와 29년) 제정의 「나라카와시의 노래」로 2번에 포함된 「뒤 일본에」를 「넓게 일본에」로 옮겨놓는 등의 사례도 존재한다 [ 6 ] .

뒤일본의 대의어에 「오모테 일본」이라는 단어가 있다.

이러한 배경에서 현재는 '뒤일본', '표일본'이라는 호칭은 ' 일본해측 ', ' 태평양측 '으로 바뀌었다. 또 중국 과 한국 , 러시아 와의 경제교류를 촉진하는 의미로 ' 환일본해 '라는 호칭도 사용되게 되었다 [ 7 ] .

또한 중국지방 에서는 산인지방 과 산양지방 으로 나눌 수 있지만, 이는 음양사상 으로 북쪽을 그늘, 남쪽을 양으로 하는 것에 근거하여 명명된 산음도와 산양 도 에서 유래한다.

이 말에는 앞서 설명한 바와 같이 차별적·모멸적인 인상을 줄 가능성이 있지만, 본고에서는 설명을 위해 원칙대로 차별적 의도를 포함하지 않는다. 다만, 현지 주민으로부터는 뒤라고 불리는 것에 차별 의식은 있다.

지리적·기후적 특징

세키구치 타케에 의한 일본의 기후 구분에서는, 뒤 일본은 일본의 6종류의 기후구 중, 일본해형으로 분류된다. 요네야마 이토( 나카에츠 지방 이북)는 그 중 1b형(도호쿠·홋카이도형), 요네야마 이서( 조에쓰 지방 이서)는 1c형(호쿠리쿠·호쿠긴키·산인형)으로 분류된다 [ 8 ] .

시대 배경

'뒤일본'이라는 단어는 지리학자 야츠 마사나가가 1895년 (메이지 28년)에 발표한 '중학 일본지지'에 처음 등장했다 [ 3 ] [ †1 ] . 그때까지 이 지역은 뒤일본이라고 불리지 않고 ' 내일본 '이라고 표 일본은 ' 외일본 '이라고 불렸다. 뒤일본이라는 단어가 사용되기 시작한 당초는 수도 인 도쿄 를 현관구라는 의미에서 ‘표’로 했을 경우 자연과 일본해 측이 ‘뒤’가 되는 것에서 단순히 지리 용어로 사용되었고, 모멸적인 의미는 갖고 있지 않았다 [ 3 ] . 이와 같이 메이지 이후의 일본의 근대화에서 선진적인 표 일본에 대비하여 이용되기 시작했다 [ 9 ] .

일찌기 일본은 키타마에선 , 에조지 ( 아이누모시리 ) 등과의 해상 교역의 거점으로서 중요한 역할을 맡고 있었다. 그런데 에도 막부 말기 · 메이지 시대 이후 식산흥업 이나 철도 · 항만 등의 투자는 태평양 측에 집중해 일본해 측에는 그다지 진행되지 않았다. 여기에는 근대화가 진행됨에 따라 대형선이 들어가기 편리한 항구의 필요성이 높아진 것이 관련된다. 일본해 측은 해안선이 단조롭고 그러한 항구를 만들기 어렵다 [ 요출전 ]. 또, 토사의 퇴적이 일어나기 쉬운 하구의 항구가 많아, 항만의 확장이나 유지에 다액의 비용이 들었다 [ 요출전 ]. 메이지 유신에서는 일본해 측에서는 유일하게 니가타항이 개국시 조약항 으로 선정되었지만, 위의 이유로 활발히 무역은 이루어지지 않고, 내만이 많아 양항을 만들기 쉬운 태평양 측에 비해 매우 불리한 조건이 되었다.

뒤 일본과 태평양 벨트

20세기 에 들어서면, 뒷일본이라는 단어는 자연과 표 일본과 대비했을 때의 경제적 격차 를 나타내는 단어로서 사용되게 되었다 [ 4 ] . 또한 고도경제성장기 에 태평양벨트 에 위치한 공업지대( 게이힌공업지대 , 중경공업지대 , 한신공업지대 )를 향해 인구가 이동해 뒤일본으로 불리는 지방은 더욱 쇠퇴했다. 고도 경제성장기 에는 '금알'이라 불리는 단괴 세대 가 노동력으로 조에쓰선과 요네하라 경유 로를 통해 태평양 쪽으로 대량으로 이동했다.

1970년대가 되면, 뒷일본인 니가타현 나카고시 지방 에서, 타나카 각영 이 유력한 정치가로서 등장해, 겉 일본에 치우친 정책을 바꾸려고, 「일본 열도 개조론」을 발표했다. 이는 교통망을 일본 전국 균일하게 부설함으로써 지역간 격차를 해소할 수 있다는 생각으로 당시 국토개발계획에 큰 영향을 미쳤다. 그러나 오일 쇼크 가 발생한 뒤 록히드 사건 으로 실각, 이후는 「도쿄 기점」의 노선이 우선적으로 만들어져, 거기서 도쿄 일극 집중 을 추진하는 결과가 된 면도 있다( 빨대 효과 ).

1980년대가 되면 도호쿠 신칸센 이 오모테 일본 내륙측 미야기현 이와테현을 통해 개통했다. 이로 인해 태평양 벨트에서 벗어나 있기 때문에 표 일본과의 격차가 현저하지 않았던 도호쿠 지방에서도, 「일본해측 vs 내륙 vs 태평양 측」의 격차가 의식되게 된다 [ 요출전 ]. 모리오카시 가 북동북의 교통의 요점이 되어, 동북 지방에 있어서의 센다이시 에의 일극 집중이 일어났다 [ 요출전 ].

근대 이전

근대 이전에는 ‘표일본·뒤일본’이라는 말은 없고, ‘뒤일본’에 해당하는 지방은 ‘표일본’에 해당하는 지방과 큰 차이는 없었다. 오히려 과거에는 '내일본'이라 불리며 당시 '외일본'이라 불리던 '표일본' 이상으로 번성했던 시대가 있었다.

뒤일본의 해안가에는 항구에 적합한 갯벌이 많아 뒤일본끼리의 해상교역 외에 일본해를 끼고 마주하는 중국 이나 한반도 등에 번성한 국가와의 해상교역이 활발했기 때문에 고대 일본에서는 뒤일본은 오히려 일본의 표현관이었다.

이즈모국 (시마네현 동부)은, 옛부터 이즈모타이샤를 중심으로 한 신도 의 거점이었고, 양항을 많이 가지고 대륙 등과도 교역해, 야마토 정권 등에 묻는 고대 일본 유수의 정치 세력이기도 했다.

고대의 단고반도 에는 유력한 세력이 존재하고(→ 단고왕국론 ), 일본해 연안의 각지나 대륙 각지와의 교역을 이야기하는 출토품이 다수 있는 것 외에 일본에서도 유수의 ​​거대한 전방 후원 분이 몇개도 존재해, 야마토 정권과 아시아 대륙을 잇는 부유한.

산인 이나 호쿠긴키 의 밖에도 호쿠리쿠 일대에는 코시 등 야마토 왕권 에 묻는 대세력이 존재했다. 계체천황 은 에치젠국가 에서 성장해 장년기까지 거주한 후 기내에 진출해 즉위하고 있다. 덧붙여 명확한 근거는 일절 없고, 상상의 영역을 넘는 것은 아니지만, 그때까지의 천황과는 혈연 관계가 없는, 호쿠리쿠를 배경으로 한 세력에 의한 신왕조라고 보는 설 [ 요출전 ]가 주장될 수도 있다.

인구나 경제력의 면에서도, 뒤 일본은 주요한 땅이었다. 에도시대 , 키타마에선 은 에 조지 에서 일본해 측 각지와 세토내해를 경유하여 오사카 나 전국으로 이어지는 물류의 간선이며, 쌀 이나 홍화 , 다시마 , 목재, 직물 등 각지의 산품이 키타마에선에 의해 대량 수송되어 전국에 유통되었다. 이 시기 태평양은 바다의 거칠기 때문에 일본해만큼 물류로는 커지지 않았다.

뒤 일본에는 노시로 , 아키타 , 사카타 , 도야마 , 마쓰에 등, 닛타 개발과 풍부한 수량에 의한 풍부한 벼농사와, 키타마에선에 의한 교역을 배경으로, 문화나 공예 가 발달한 도시가 많이 나타났다. 특히 가나자와 는 가가 백만석 의 성시로 불리며 에도 시대 에는 삼도 ( 에도 , 오사카 , 교토 )에 이은 나고야 와 동정도 규모의 인구(10만명 이상)를 자랑했다. 또한 에치고는 에도 시대에 인구가 증가하고, 구국별 인구에서 무사시 와 육안 에 이어 인구를 걸고, 메이지 시대에 들어가면, 1873년(메이지 6년) 6월 10일 - 1876년(메이지 9년) 8월 20일, 1881년(메이지 14년) 2월 7일 1883년(메이지 16년) 중반, 1887년(메이지 20년) 11월 4일~1893년(메이지 26년) 3월 31일의 사이, 니가타현은 도쿄부 (현 도쿄도 )를 넘어 일본 제일의 인구를 가지는 현이었다( 근대 이전의 일본의 인구 통계 , 국세 조사 이전

1900년 (메이지 33년)에 초판이 출판된 철도 창가 호쿠리쿠편으로, 니가타 는 「호수만여의 대도시」라고 부르며, 가나자와 도 「역시 붐비는 마을의 님」이라고 부르고 있다. 그 밖의 호쿠리쿠 지방의 도시에서도 나가오카 는 「마을은 이름이 되는 번화의 땅」, 도야마 는 「에치나카 번화의 땅」, 다카오카 는 「상업 번화의 다카오카」라고 불렸다.

근대 이후

1894년 (메이지 27년)에 출판된 시가 시게타의「일본 풍경론」에서는, 「뒤 일본」이라는 말은 없지만, 「일본 해안은 재래 교통의 편리하다 조금」이라든가 「태평양 연안보다 인구 조금」등이라고 쓰고 있다.

도도부현

1871년 (메이지 4년)에 메이지 정부에 의해 폐번치현이 실시된 당초는, 「3부 72현」이라고 불리는 체제였다. 그 중에서도, 뒤일본에는 현존하는 아키타현 · 야마가타현 · 니가타현 · 나가노현 · 도야마현 · 이시카와현 · 후쿠이현 · 돗토리현 · 시마네현 에 더해, 사카타현 (쇼나이), 카시와 자키현 (조에쓰· 나카고시), 나나오현 (노토), 쓰시가현 (와카다), 토요 오카현 (토요오카현). 그러나 1873년 - 1876년에 걸쳐 현의 합병이 잇따른 결과, 1880년대에 분립을 이룬 지역을 제외하고 현청을 빼앗겨 행정적으로도 소외되는 지역이 넘치는 결과가 되었다.

교통망

철도

일본의 근대화와 공업화의 움직임에 의해 철도가 일본 전국에 부설되었지만, 뒤일본은 앞일본에 비해 크게 늦었다. 예를 들면, 산요 본선 과 산인 본선 을 예로 들어 설명하면, 표일본인 산요 본선의 최초 구간이 산요 철도 에 의해 1888년 (메이지 21년)에 개통한 [ 10 ] 에 대해, 뒷일본의 산인 본선은 교토 철도 가 1895년 에 면허 를 취득해, 1897년 에 최초 의 구 . 마찬가지로 전 구간 개통에 관해서도 산요 본선이 시모노세키역 까지 1901년 에 전 구간 개통한 반면, 산인 본선이 시모노세키( 하타세역 )까지 전 구간 개통한 것은 1933년 (1983년)이었다 [ 12 ] . 철도의 부설 단계에서 크게 늦은 것만은 아니다. 산요 본선은 1942년 (쇼와 17년)에 세계 최초의 해저 터널 인 간몬 철도 터널 을 개통시켜, 1944년 까지는 전선의 복선화 가 완료, 1964년 (쇼 와 39년)에는 전선 의 전화가 완료한 [ 12 ] 에 비해 산인 본선 은 20 13 ] .

마찬가지로 도호쿠 본선 · 죠반선 · 하코시 본선 의 3개를 비교했을 경우, 표 일본 내륙의 토호쿠 본선은, 1891년 (메이지 24년)에 전선이 개통한 후, 1968년 (쇼와 43년)에 전선의 복선화 및 전화가 완료하고 있다. 겉일본 연안의 조반선은, 1898년에 전선이 개통한 후, 1967년에 전선전화가 완료되고 있지만, 복선은 이와키역 (전화 당시는 평역) 이남 그대로, 동역 이북은 대부분이 단선이 되고 있다. 그러나 센다이에서 산리쿠 연안 루트에서 하치노헤에 이르는 '산리쿠 본선'은 개통하지 않고 노선이 여러 개로 나뉘어져 있다.

혼슈 니혼카이측의 하네시 본선은, 1924년 (다이쇼 13년)에 각 현 경구간이 접속해 전통해, 1972년 (쇼와 47년)에 드디어 전선의 전화가 완료되고 있지만, 2024년 현재도 많은 복선 구간과 단선 구간이 남는다.

노선망의 발달의 관점에서는, 예를 들면 오사카역 에서 아오모리역 까지, 겉 일본 경유의 루트는 1891년에 연결되어 있었던 한편, 혼슈 일본해측 루트는 1924년까지 연결되어 있지 않았다. 또 오사카에서 시모노세키까지는 겉일본 루트는 1901년에 연결되어 있었던 반면, 뒤일본 루트는 1933년까지 연결되어 있지 않았다. 호쿠리쿠 본선의 쓰루가 역에서 오우 본선의 아오모리 역에 이르는 노선은 하나의 노선으로서도 기능하고 있다. 이들 노선은 한때 국철 내부에서 '뒤(일본) 종관(선)'이라고도 불렸지만, 고도성장기 이후에는 ' 일본해 종관선 '의 호칭이 사용되게 되었다.

신칸센 의 부설도 표 일본(특히 도쿄)을 중심으로 실시되고 있다. 뒤 일본을 완전히 종관하는 노선은 존재하지 않고, 조에쓰 신칸센 과 호쿠리쿠 신칸센 , 미니 신칸센 의 야마가타 신칸센 과 아키타 신칸센 이 각각 도쿄로 향하고 있으며, 하코시 신칸센 , 산인 신칸센 은 건설의 목적이 서 있지 않다.

해상 교통

메이지 유신 이전 수상교통은 태평양보다 일본해가 주류였다. 특히 북전선 이라고 불리는 배를 이용해 무역품 지역 간 가격차에 따라 이윤을 획득하던 북전선 무역이 상인들에 의해 활발히 이루어지고 있었다.

일본의 근대화가 진행되고 있는 도중인 1880년 에는, 일본 전체에서 기선 제조가 활발해지고 있었지만, 뒤 일본에서는 기선의 제조는 거의 행해지지 않고, 전통적인 일본선의 제조가 계속되었다 [ 요출전 ]. 그 중에서도, 키타마에선의 전통을 가지는 이시카와현이나 그 주변에서, 일본 전체의 2할 이상의 일본선을 제조하고 있었다 [ 요출전 ]. 그러나 1884년 오사카에서 오사카 상선이 설립되었고, 다음 1885년에는 도쿄에서 우체선 미쓰비시 회사 와 공동 운수 회사 가 합병 하여 일본 우선이 설립되었다. 이들 상선사들은 현대적인 서양기선의 운항이 주였기 때문에 일본선에서 기선으로의 전환은 점점 현저해지고 있다. 그 흐름 속에서 1888년에는 500 석 이상의 일본선의 제조가 금지되게 되었지만, 뒤일본에서는 서양선의 제조가 진행되지 않았기 때문에, 대부분이 구식의 일본선을 계속 사용하게 되었다 [ 요출전 ]. 일본선에서 기선으로 변천함에 따라 조선업 이 이시카와현(일본해안)에서 오사카부(세토우치해안)로 완전히 변천하여 일찍이 일본해가 중심이었던 배의 항로도 강철제 기선의 등장이나 항해 기술·기상 관측 기술의 진보에 의해 파도의 거친 태평양에서도 안전하게 항행할 수 있게 되었기 때문에, 점차 태평양이 주류가 되어 실시했다 [ 요출전 ].

일본해 항로의 정비는 좀처럼 진행되지 않고 정부의 원조를 얻고, 드디어 1892년에 니가타 와 사도섬 을 연결하는 사도 기선이 정비되었다. 그 후 일본 우선 기선이 오타루 - 고베 를 주 1편의 페이스로 정기 운항을 시작하자 지역간 가격을 이용해 개인으로 장사를 하고 있던 키타마에선은 쇠퇴했다.

시대가 완전히 기선으로 변천해, 일본선이 끝을 맞이하고 있었을 무렵, 호쿠리쿠 지방 에서는, 일본 전체의 일본선의 절반 가까운 47척이 아직도 현역이었다. 기선의 본격적인 조선소 는, 뒤 일본에는 니가타현 에 1공장( 니가타 조선 )이 만들어진 것만으로, 대부분이 태평양측과 세토내해측과 동중국해측, 거기에 홋카이도 에 집중하고 있었다. [ 요출전 ]

최근에는 환일본해의 각국 등과의 국제적인 무역과 교류가 중시되고 있다. 2011년 국토교통성이 무역이나 여객수송 및 재해 발생시 등 다양한 목적에 대응하는 정비를 목표로 5항을 선정한 일본해측의 '종합적 거점항'에는 뒤일본에 소재하는 핵심 국제항만 으로 지정된 니가타항 및 후 시기 도야마항이 포함되어 있다 [ 14 ] .

고속도로

고속도로 의 정비도, 대동 메이한은 충실하고 있지만, 세로관선은 겉 일본에 대해서 늦어지고 있다. 이 격차를 없애도록 나라나 현에 일하는 움직임도 있다 [ 16 ] .

뒤 일본의 고속도로는, 이미 전선이 개통해 전선 4차선화가 행해진 호쿠리쿠 자동차도와 일부 잠정 2차선 이면서 2014년 7월 20일에 전선 개통한 마이즈루 와카사 자동차도 [ 17 ] 를 제외하면, 일본해 동북 자동차도 [ 18 ] 나 산인 자동차도 [ 19 ] 에는 미개통 구간이 있으며 개통 구간도 대부분은 잠정 2차선이다.

동일본 대지진 때 도호쿠 자동차 도와 조반 자동차도가 일시 치단된 경험으로부터, 현지 자치체 등으로부터 미착수였던 일본해 연안 도호쿠 자동차도 아사히 마호로바 IC - 아츠미 온천 IC 간, 유사 IC - 아이가타 IC간의 2구간의 조기 착수의 요망 을 받아 국토교통성은 2 ] .

표 일본의 동북자동차도 [ †2 ] , 동명 고속도로 , 메이신고속도로 , 산요자동차도 는 이미 전선 개통이 끝난 상태에서 4차선이 되었을 뿐만 아니라, 토메이 고속도로와 메이신 고속도로에서는 각각 평행하는 2번째 고속도로, 신토메 고속도로 와 신 메이 진 고속도로 의 건설 이 이루어지고 있다 [ 21 ] . 한편, 겉 일본에서도 태평양 연안의 상반자동차도와 산 리쿠자동차도 는 개통이 늦어져, 상반자동차도의 전통은 2015년, 산리쿠자동차도의 전통은 2019년이었다.

주요 고속도로 네트워크
노선명기점종점주요 경유지
호쿠리쿠 자동차도로요네하라시니가타시쓰루가, 후쿠이, 고마쓰, 가나자와, 다카오카, 도야마, 이토 우가와, 조에츠, 카시와 자키, 나가오카
일본해 도호쿠 자동차도니가타시아키타시 [ †3 ]신발다·무라카미·쓰루오카·사카타·상가·유리 혼소·아키타
노에츠 자동차도로토나미시와지마시오야베, 타카오카, 히미, 시가, 구멍

공항

공항 의 정비도 표 일본과 비교해, 뒤 일본은 늦었다 [ 요출전 ]. 니가타 공항(1930년 개항)을 제외하고 모두 전후가 되고 나서 정비되었다. 뿐만 아니라, 절대적인 인구의 차이로부터, 겉 일본 공항에 비해 이용자 수가 적기 때문에, 별로 설비 투자가 행해지고 있지 않다. 그 때문에, 공용 비행장의 고마쓰 와 요나고 , 도쿄선에 대형 기재를 투입할 필요가 있던 아키타 , 중거리 해외 노선을 가지고 2500m급 활주로 정비가 필요하게 된 니가타 를 제외하면, 제트화되어도 활주로장은 2000m급의 공항이 대부분이다. 덧붙여 교토부만 공항이 존재하지 않는다. 그 때문에, 가장 가까운 공항은 효고현의 고베 공항 혹은 오사카부·효고현의 오사카 국제 공항 (이타미 공항)이다. 또, 니가타와 요나고는 1945년부터 1958년까지 미군에 의한 점령을 경험하고 있다. 그 때문에 오랫동안 군용으로 이용되고 있던 [ †4 ] 가 요나고가 1954년에, 니가타가 1958년에 첫 정기 노선을 취항시켰다 [ †5 ] .

각 현의 공항 일람

노선망은 도쿄·오사카편을 중심으로 한 일본 국내 항공편 외에 중국 과 한국 , 대만 · 러시아 극동 등 비교적 단거리 항공 노선이 중심으로 기체도 소형·중형기가 많다.

또한 서울 인천국제공항 과 일본 사이의 국제노선은 나리타국제공항 · 도쿄국제공항 · 간사이 국제공항 · 중부국제공항 · 후쿠오카공항 뿐만 아니라 그 외 일본 각지의 지방공항을 연결하는 항공편이 다수 취항하고 있다. 이 상황에 의해, 일본의 지방 공항 - 인천 국제 공항 - 세계의 각 도시와의 국제선을 승계하여 이용되고, 사실상, 일본의 허브 공항으로서 기능하고 있다 [ 요출전 ]. (자세한 것은 후술)

산업

1886년 에 도도부현별로 행해진 면작의 생산량 조사에서는 도야마현이 10위, 니가타현이 14위, 시마네현이 17위, 돗토리현이 18위였다. 그리고 산인지방에서는 점점 면작이 발달해, 1912년 의 농상무성 에 의한 조사에서는 시마네현, 돗토리현, 이바라키현의 3현이 가장 번성했다고 여겨지고 있다.

혼슈 일본해 측 전역에서 쌀 생산이 활발해져 명산물이기도 하다. 품종으로서는 특히 당초 니가타현에서 교배된 후 후쿠이현에서 품종 개량 에 의해 태어난 코시히카리 가 맛이 좋기 때문에 유명하다.

호쿠리쿠 지방 에는 호쿠리쿠 공업지역이 있다. 산인에서는 타타라 제철 도 발달했다. 1884년 에는 시마네현의 타타라 제철 공장 수가 218공장으로 일본 전체의 10.3%를 차지했다. 니가타현 나카고시·시모고시 지방과 아키타현에서는 예로부터 석유가 산출되었다. 따라서 일본의 에너지산업에서는 신일본 석유 (현 ENEOS)와 코스모 석유 등 나카고에·하에에 지방에 원류를 가지는 기업이 존재한다. 현재도 INPEX (구제국석유)와 동북전력 등의 LNG기지가 존재하는 것 외에 혼슈 일본해측은 태평양측에 대해 농작물 이나 노동력이나 전력 의 공급을 실시하고 있다. 전력은 효율적인 대량생산이 가능하지만 방사성물질을 이용한 원자력발전 은 인구가 밀집되어 전력수요가 많은 태평양측보다 혼슈 일본해측에 더 많이 설치되어 있다. 와카사만 연안의 일본 하라덴 쓰루가 발전소 나 간사이 전력 미하마 발전소 및 오이미 발전소 나 다카하마 발전소 , 니가타현 나카고시 지방 의 도쿄 전력 카시와자키 카리바 원자력 발전소 , 시마네현의 중국 전력 시마네 원자력 발전소 가 이 예이며, 장대한 송전선을 통해 태평양측에 전력을 이들 원자력발전소가 건설됨으로써 고용 을 확보할 수 있는 점이나, 다액의 원전 교부금을 받을 수 있는 점 등에서, 지자체 에 의해 적극적으로 유치되는 예도 있다(오늘 일본에도 같은 사정에 의해 아오모리 현 시모키타, 미야기현, 후쿠시마현, 이바라키현, 시즈오카현, 에히메현 등에 원자력 발전소가 입지하고 있지만, 어쨌든 태평양 벨트 주변에 많이 입지하는 화력 발전소와는 입지 상황이 크게 다르다 [ 요출전 ]).

일본의 만화사에 큰 영향을 준 토키와소 출신자의 대부분이 혼슈 일본해측 출신이다( 후지코 후지오 등). 니가타현에는 만화가를 목표로 하는 학생의 전문학교가 있다.

도시

정령 지정 도시 는 니가타시 [ † 9 ] 뿐이며, 핵심시 는 가나자와시 , 도야마 시 , 아키타 시 , 마쓰에시 , 돗토리시 , 후쿠이시 , 야마가타시 , 아오모리시 의 8시. 특례시 는 나가오카시 , 조에쓰시 의 2시만이다. 전체적으로 과소 지역이 많다 [ 요출전 ], 마을락부에서는 인구 감소나 후계자 부재 문제가 심각해지고 있다.


경제

2011년 동일본 대지진 을 계기로 향후 태평양 측에서 대규모 재해가 발생한 경우 경제를 지지하는 대처(고속도로의 정비 가속 등)가 각 지자체에서 행해지고 있다.

교육

일본이 국책으로서 교육에 주력하기 시작한 메이지 시대에 구제 고등학교 (넘버스쿨)라는 제도가 시작되었다. 설립순으로 번호가 매겨진 고등학교를 가리키고, 뒤 일본에는 가나자와 에 구제 제4고등학교 가 설치되었다. 니가타 도 구제 고등학교의 유치를 적극적으로 실시한 것, 1899년의 니가타현의 취학률 은, 일본 전체에서 아래로부터 세어 오키나와, 홋카이도에 이어 3번째였다 [ 23 ] . 1900년 의 구제 제6고등학교 의 유치로 오카야마에 패해, 그 이후의 구제 제7고등학교 와 구제 제8고등학교 의 유치도 실패로 끝났다. 그 결과, 니가타에는 넘버 스쿨은 설치되지 않고, 도시명이 교명이 되는 구제 니가타 고등학교 가 설치되었다. 뒤 일본에 설치된 구제 고등학교로서는, 그 밖에 구제산형 고등학교 , 구제 마쓰에 고등학교 , 구제 도야마 고등학교 (당초 현립, 후에 관립으로 이관)가 있다.

가나자와에서는 호쿠리쿠 제국 대학의 설치 운동이 제2차 대전 전과 제2차 대전 후에 일어났다. 1911년 1월에 중의원 의원 토수관 인 등이 도쿄·교토·도호쿠·규슈에 이은 「호쿠리쿠 제국대학 설립에 관한 건의안」을 제27회 제국의회에 제출해 다음 달 가결했지만, 제국대학 의 설치는 뒤 일본에는 행해지지 않았다 [ 24 ] . 제2차 대전 후에는, 시민 레벨에서 가나자와에의 종합대학 설치 운동이 전개되어, 1946년 6월 3일에 「호쿠리쿠 종합대학 설치기성동맹회」를 결성했다. 결성회에는, 이시카와현뿐만 아니라, 도야마현과 후쿠이현의 지사, 도야마시, 후쿠이시, 쓰루가시 [ 25 ] 각 시장이 참석했다. 8월에는 제90회 임시제국의회에 “가나자와시에 호쿠리쿠제국대학 설치에 관한 건의안”이 제출되었다. 건의서에서는 태평양 측에 제국대학이 편재하는 것의 폐해를 말하고, 일본해측의 제국대학 설치를 제안했지만, 헌법 개정 초안 등의 심의 등 때문에 심의에 이르지 않았다 [ 25 ] .

대학령 에 근거한 구제 대학 으로서, 가나자와 의과 대학 이나 니가타 의과 대학이 설치되어, 전후의 학제 개혁시에, 각각 가나자와 대학 의학 부나 니가타 대학 의학부 에 개조되고 있다.

군사·치안 유지

최초로 근대적인 군 의 거점이 놓여진 도시는 센다이 , 도쿄 , 나고야 , 오사카 , 히로시마 , 구마모토 와 모두 태평양 측과 세토 내해 측(규슈는 동중국해 측)이며, 이들 중 구마모토 이외는 중앙부처 의 출처 기관의 밀집지이기도 했다. 뒤 일본에 최초로 놓인 것은 닛신 전쟁 후인 1898년에 제9사단이 가나자와에, 이어 1908년에 타카다 (현재의 조에쓰시 남부)에 제13사단이 놓여졌다.

대러시아의 전략상, 일본 해군은 일본해 측에 해군의 군사 거점을 갖고 있어, 1889년(메이지 22년)에, 만구가 좁게 방어에 적합해, 만내는 파도 조용하고 많은 함선이 정박할 수 있는 등 군항으로서는 모습의 지형이었던 마이즈루만 에 시라부의 화살을 세우고, 마이즈루. 마이즈루의 군항 건설 비용은 닛신 전쟁에 의해 청국에서 지급된 배상금이 채워지게 되었다. 처음에 설치된 해군 시설은 1893년(메이지 26년) 완성의 석탄 저장고로, 닛신 전쟁에 의한 배상금이 채워지면 건설은 비약적으로 진행되어, 1896년(메이지 29년)에는 임시 해군 건축부 지부(지부장:나카미조 토쿠타로 중령)가 설치되어 마이즈루는 산지가 많기 때문에 부지 개삭 공사에 많은 비용을 요했지만, 1899년(메이지 32년) 말 토지 조성 공사는 거의 완료되었다. 이에 병행하여 진수부 제시 시설의 공사가 시작되어 1901년(메이지 34년) 10월 1일에 마이즈루 진수부가 개청, 초대 사령장관은 당시 해군 중장이었던 도고 히라하치로가 임명되었다.

그렇다고는 해도, 군사 공장 도 포함한 군사 시설 의 대부분이 겉 일본에 있어, 일본군 의 중심은 겉 일본이었다. 그 때문에 반대로 일본 본토 공습 에서는 비교적 공습을 받지 않았고, 겉 일본에는 도쿄도, 가나가와현, 야마구치현 등에 대규모 미군 기지가 입지하지만, 혼슈 일본해 측에는 2014년 탄고 반도 의 경가곶 에 경가곶 통신소 운용 개시 [ 26 ] 까지 , 자위대는 27 ] .

전후 북한에 의한 일본인 납치 문제 가 발생했다.

1997 년 나호토카호 중유 유출 사고 때 약 20만명이 국자나 손으로 중유를 헹구었다. 이는 일본 전체에서 11척이었던 중유배속선 중 혼슈 일본해측에는 1척도 배속되지 않았기 때문이다. [ † 10 ] 또한 기름 흡착재도 일본해 측에는 전국에 있는 가운데 10% 미만밖에 두지 않았다 [ 28 ] .

2020년대 전반의 신형 코로나바이러스 감염증 에서는 비교적 감염자·죽은 사람이 적었다.

홋카이도・오사카와의 관계

뒤 일본은 에도 시대 부터 키타마에선 의 서쪽 항로 에서 홋카이도 오사카 와 강하게 연결되어 있었다. 게다가, 조선 ·관동주· 자타 등 당시 일본이 영토·조차지로서 획득한지 얼마 안된 「외지」와의 관계를 빼놓으려면 말할 수 없다 [ 요출전 ]. 호쿠리쿠 지방이나 도호쿠 지방 일본해 측에서는 주로 홋카이도와 사타에, 산인 지방에서는 주로 조선·만주로, 근대화나 개척을 향해 이주한 자가 많았다 [ 요출전 ]. 게다가 호쿠리쿠·니가타 지방의 지주·상인은 홋카이도 개발에 많은 자본을 제공했다 [ 요출전 ]. 특히 ‘신텐지’로 불린 홋카이도로 이주한 자는 농지 개척과 상업 설립으로 성공을 거둔 예가 많으며, 현재도 삿포로 를 거점으로 영업을 하고 있는 백화점 마루이 이마 이를 창설한 니가타현 출신인 이마이 토시치 등이 성공한 예라고 할 수 있다. 현재는 조에쓰 신칸센 이나 간에츠 자동차도로 관동 지방 과 직결되어 있기 때문에 오사카보다 도쿄 지향이 강하다.

일본해 연안 지역(삿포로에서 교토를 건너 오사카)를 뛰어넘은 침대 특급 트와일라잇 익스프레스 (2006년 도야마역)

호쿠리쿠 지방 [ †11 ] 은 오랫동안 오사카와의 관계가 깊었다. 그 때문에 호쿠리쿠 본선 등을 경유하는 특급 열차 가 많이 설정되었다. 그러나 최근에는 이용자 감소로 잇따라 야간 열차는 폐지되어 호쿠리쿠 신칸센 의 연신개업(특히 2024년 쓰루가역 연신)에 따라 호쿠리쿠 특급 ' 썬더버드 '의 운행 구간 단축이 이루어지고 있어 더욱 간사이 거리가 우려되고 있다.

방언

뒤 일본에는 이른바 ' 주즈 밸브 '라고 불리는 공통의 음성 특징을 가진 방언이 분포한다. 뒤 일본 방언 을 참조.




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