2026-08-10

金達寿 - Wikipedia [내 아리랑의 노래>(わ가 アリランの 歌, 1977)『わが文学と生活』

金達寿 - Wikipedia


金達寿

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
金 達寿
(김달수:キム タルス / キム ダルス)
『新日本文学全集 第13巻』(集英社、1965年3月)
ペンネーム金達寿, 大澤達雄, 金光淳, 朴永泰, 孫仁章, 金文洙, 白仁
生誕金達寿
1920年1月17日陰暦1919年11月27日
大日本帝国の旗 日本統治下朝鮮慶尚南道昌原郡内西面虎渓里(現・昌原市馬山会原区内西邑亀尾通
死没1997年5月24日(77歳没)
日本の旗 日本国東京都
墓地冨士霊園静岡県駿東郡小山町大御神888-2)
職業小説家古代史研究者
言語日本語朝鮮語
最終学歴日本大学専門部芸術科
活動期間1940年 - 1996年
ジャンル小説古代史
文学活動新日本文学会文学芸術社2日会リアリズム研究会現代文学研究会
代表作『後裔の街』(1948年)
『玄海灘』(1953年)
「朴達の裁判」(1958年)
『太白山脈』(1959年)
『日本の中の朝鮮文化』(全12巻 1970-91年)
主な受賞歴平和文化賞(1957年)、青丘文学賞(1974年)
デビュー作「位置」(1940年)
子供1人
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金 達寿
各種表記
ハングル김달수
漢字金 達寿
発音:キム タルス、キム ダルス
日本語読み:きん たつじゅ
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金 達寿キム・タルス/キムダルス김달수1920年大正9年1月17日陰暦1919年11月27日) - 1997年平成9年5月24日)は、在日朝鮮人小説家古代史研究家朝鮮民主主義人民共和国朝鮮総連を強く支持していたものの、実態を知り、1981年韓国訪問以降は第三者の立場を取った[1]

経歴・人物

青年期まで

日本統治下朝鮮慶尚南道昌原郡内西面虎渓里(現・大韓民国慶尚南道昌原市馬山会原区)に、中農の地主の三男として生まれる[2]。父・金柄奎、母・孫福南、長兄・金声寿、次兄・金良寿、妹・金ミョンス[3]がいた。

父柄奎が遊蕩に耽り、破産[4]1925年大正14年)、金達寿が5歳の時、両親は長男声寿と妹ミョンスを連れて、内地に渡る[5]。良寿・達寿は祖母と暮らすが、1928年昭和3年)頃に次兄良寿が病死し、次いで内地から父親の訃報が伝えられる[6]。以後、達寿は祖母と二人で極貧生活を送る[7]

1930年(昭和5年)10歳の時、長兄声寿に連れられて内地に渡る[1][8]。祖母は娘の嫁ぎ先に引き取られたが、数年内に死去した[8]

1931年(昭和6年)、東京市立大井尋常夜学校1年生に入学し、読み・書き・算術という簡単なものであるが、初めて日本語で教育を受けた[9]。1932年(昭和7年)末、東京府荏原郡源氏前尋常小学校3年生に編入[10]し、5年生まで過ごすが、6年生に進級したところで貧困のため退学[11]。以後、苦学しながら独学で文学を学んだ。その過程で志賀直哉の小説に出逢い、大きな影響を受ける[12]

日本大学専門部芸術科在学中の1940年(昭和15年)に最初の作品「位置」を発表し、その後も大学の雑誌や『文芸首都』に小説を発表する。1941年(昭和16年)12月に卒業後、1942年(昭和17年)1月20日に神奈川日日新報社の社会部記者となる[13]。同年2月に同社は同業他社と合併し、神奈川新聞社となった。在職中、日本人女性と恋愛するが、意識の違いに耐えられず、1943年(昭和18年)春、衝動的に京城に旅行し、強引に京城日報社に入社するとともに、日本人女性に離別の手紙を書く[14]。しかしその後、京城日報社が朝鮮総督府御用新聞社であることを知り衝撃を受け、1944年(昭和19年)2月に神奈川に戻り、1ヶ月ほど後に神奈川新聞社に復社した[15]

文学活動の開始

本格的な文学活動は、第二次世界大戦終戦後の1946年(昭和21年)4月から、自身が創刊から3年間編集長を務めた日本語雑誌『民主朝鮮』に連載を始めた長編小説『後裔の街』に始まる。骨太な文体で書かれたその作品は「朝鮮的なるもの」「民族的なるもの」を軸とし、日本人に対して痛烈な戦争責任を突きつけるものとして、思想を支持する日本人と在日朝鮮人の両方からは高い評価を受けた[16]。以後、『玄海灘』(『新日本文学』1952年(昭和27年)1月-1953年(昭和28年)11月。1954年(昭和29年)1月刊)-『太白山脈』(1969年(昭和44年))へと展開した。ただし金達寿自身は、『玄海灘』執筆中に自分の文学の限界を痛感し、志賀の文学を通じて学んできた自然主義リアリズムとの文学的闘争を開始した[17]

戦前の1941年(昭和16年)から『文芸首都』の同人となり、戦後は1946年(昭和21年)10月に新日本文学会会員となった[18]。『文芸首都』は朝鮮人先輩作家として金史良が活躍した雑誌でもあり、後輩には金泰生金石範がいた。『新日本文学』には初期の代表作である「玄海灘」の連載など多くの作品を発表して、『民主朝鮮』とともに金達寿が足場を置いた二大拠点であった。

1957年(昭和32年)、霜多正次西野辰吉窪田精小原元とともにリアリズム研究会を結成した。その後も日本民主主義文学同盟の結成に参加し、雑誌『民主文学』の名を考えるなど、民主主義文学運動の中でも活躍した。

雑誌『民主朝鮮』

1946年初頭、在日本朝鮮人連盟の神奈川県本部と横須賀支部で常任委員を兼ねていた金達寿の「朝鮮と朝鮮人とに対する日本人の誤った認識を正すための雑誌を出したい」という発案で、出資者の趙進勇を社長に、朝連の横須賀支部を事務所に同年4月に創刊、金が編集長を務めた[19]。当初、雑誌名は『朝鮮人』を予定していたが、朝連神奈川県本部委員長の韓徳銖の提案で『民主朝鮮』に決定した[19](前年に同名の北朝鮮政府機関誌の日刊紙が発刊している)。

創刊号はほとんど金達寿と元容徳(立教大学卒、朝連神奈川本部外務部長、筆名に金哲、林勲)が執筆し、その後在日朝鮮人作家のほか、朝鮮文学家同盟を中心とした本国の作家や、日本人の文学者や左翼的知識人の投稿も増えていった[19]。紙面構成は文学関係を中心に経済関係論文や記事,日本人との座談会などがあり、在日朝鮮人作家の日本語による作品は在日朝鮮人文学の確立に大きく寄与した[19]

1949年9月に朝連が解体、1950年6月に朝鮮戦争が勃発し、雑誌『民主朝鮮』も同年7月の第33号をもって終刊となった[19]

北朝鮮への接近・訣別

金達寿はもともと民族主義的青年[20]で、朝連も大衆団体として出発したが、朝鮮民主主義人民共和国建国後、「北」共和国を支持する立場へと押し出される形になった。「差別のない国」「労働者主人公の国」を表向き旗印にしていたため、実態は知らずとも北朝鮮を強く支持していた[1]

1958年(昭和33年)に発行された『朝鮮――民族・歴史・文化』が朝鮮総連に批判されていたものの、1959年(昭和34年)から本格化した在日朝鮮人・その日本人妻家族らの帰国事業を積極的に支援する原稿も書いていて、金達寿の親族にも帰国事業で北朝鮮に渡った人がいた[1]

1960年代を通じて少しずつ「北」支持の立場から遠ざかるようになった。北朝鮮は1967年(昭和42年)の党中央委員会第4期第15次全員会議で唯一指導体制を打ち出し、個人崇拝を強要し始めた。1970年代に入ると、金日成主席の長男である金正日総書記を後継者に指名する動きが起きた。この頃から「北朝鮮のやり方はおかしい」と反発し、北朝鮮・朝鮮総連と袂を分かった[1]。伝聞によれば金達寿は1972年(昭和47年)に朝鮮総連から除名された。

しかし南北統一の夢を諦めることなく、1975年(昭和50年)に『季刊三千里』を李進熙姜在彦らと創刊した。韓国の軍事独裁政権を批判する記事が目立ったが、朝鮮総連は関係者らに対し、『三千里』を読まないよう指導した。金達寿が主導した雑誌「日本のなかの朝鮮文化」を当時愛読していた在日朝鮮人は「金達寿は在日に誇りを取り戻してくれた人物だった。でも、総連から出て行った人間が活躍するのは面白くない、という雰囲気だった」と証言している。金達寿たちは『三千里』で、総連機関紙がしていた「反民族的行動」という批判へ反論していた[1]。金達寿らは東京都調布市にある呉文子の自宅で『三千里』の編集会議を開くことがあったが、金達寿はよく「今の北朝鮮は間違っている」と主張する一方、「社会主義はこんな思想ではないはずだ」とも語っていた。呉によると当時は韓国に比べて、北朝鮮の実態は十分明らかになっていなかった。そのため、帰国した在日朝鮮人が悲惨な生活をしていることは把握していたものの、まだまだ美化されたものが残っていた。呉は「北朝鮮を批判する日本人も少なかった時代で、金達寿先生も北朝鮮を見限ることができなかったのでしょう」と語っている[1]

韓国訪問

その後、全斗煥政権下の1981年(昭和56年)に、在日朝鮮人「政治・思想犯」の助命や減刑を嘆願する目的で韓国を訪問したことにより、金石範や金時鐘(2003年(平成15年)韓国籍取得)ら北朝鮮に親和的・韓国に批判的である在日朝鮮人・左翼日本人からは総攻撃・批判を受けた。金達寿は製鉄所造船所など「漢江の奇跡」と呼ばれるほど発展した祖国を見て、「総連は、韓国では子どもが空き缶を持って物乞いをしていると教えていましたから今浦島の気分だ」と語っていた。在日朝鮮人らで出版していた『季刊三千里』も、韓国の実態を知って以降は、軍事独裁政権批判の論調から、韓国にも北朝鮮にも組しない南北統一を願う第3勢力のような論調に傾いていった[1]

朝鮮総連系の金融機関に勤めていた金達寿の長男は朝鮮総連に批判されていた父親の影響で昇進ができなくなり、父親と徐々に疎遠になっていった。長男は体を壊し、金達寿の死後に亡くなった[1]。2021年(令和3年)11月に呉文子は「今、金達寿先生が生きていれば、前面に立って、北朝鮮を批判し、人権民主化運動の先頭に立っていたでしょう」と語る。「気持ちの熱い人でした。自分の立場が悪くなろうとも、悪いことは悪いとはっきり語る人でしたから」と話している[1]

1974年(昭和54年)4月、朴正熙の独裁政権に反対するデモを起こした大学生らのうち180人が拘束される「民青学連事件」が発生[21][22]。7月16日までに、金芝河ら14人に死刑、15人に無期懲役、日本人の太刀川正樹と早川嘉春を含む26人に懲役15年から20年の刑が科せられた[23][24]。7月21日に金の死刑は無期懲役に減刑されるも[25]、金達寿、鶴見俊輔李進熙針生一郎ら4人は「金芝河氏ら全被告を釈放せよ」と抗議し、7月27日から30日にかけて数寄屋橋公園でハンガー・ストライキを行った[24][26][27]

晩年

創作活動が1982年(昭和57年)の『行基の時代』で終わったのに対し、「日本の中の朝鮮文化」シリーズはライフワークとして晩年まで続けられた。『民主朝鮮』・『文学芸術』・『新朝鮮』・『鶏林』・『リアリズム』(のち『現実と文学』と改題)・『日本のなかの朝鮮文化』・『現代と文学』・『季刊三千里』・『季刊青丘』など、〈解放〉後だけでも累計200冊以上の雑誌を編集した。

保存・展示

神奈川近代文学館では、2003年に金達寿の著作権継承者から原稿や書簡など1万点あまりを寄贈され、「金達寿文庫」として保存している[28]。2020年12月12日から、スポット展示・収蔵コレクション展19「生誕100年 金達寿展」が開催された[28][29]。新型コロナウイルス感染拡大による緊急事態宣言のため同館が臨時休館となり[28]、会期が中断し、5月22日から再開催された[30][31]

著作

小説

  • 『後裔の街 : 長篇小説』朝鮮文芸社、1948年3月1日。NDLJP:1703377
  • 『叛乱軍』冬芽書房、1950年
  • 『富士のみえる村で』東方社、1952年
  • 玄海灘筑摩書房、1954年 のち青木文庫、講談社文庫
  • 『前夜の章』東京書林、1955年
  • 『故国の人』筑摩書房、1956年
  • 『日本の冬』筑摩書房、1957年
  • 『番地のない部落』光書房、1959年
  • 『朴達の裁判』筑摩書房、1959年
  • 『夜きた男』東方社、1961年
  • 『密航者』筑摩書房、1963年
  • 『中山道』東方社、1963年
  • 『公僕異聞』東方社、1965年
  • 太白山脈』筑摩書房、1969年
  • 『小説 在日朝鮮人史』創樹社、1975年(短編集、全2巻)
  • 『落照』筑摩書房、1979年4月
  • 『対馬まで』河出書房新社、1979年10月
  • 金達寿小説全集』筑摩書房、1980年(全7巻)
  • 行基の時代』朝日新聞社、1982年3月

評論・エッセイ

  • 『私の創作と体験』葦出版社、1955年
  • 『朝鮮 -民族・歴史・文化-』岩波新書、1958年
  • 『日本の中の朝鮮文化 その古代遺跡をたずねて』講談社、1970-1991年(全12巻)
  • 『古代文化と「帰化人」』新人物往来社、1972年
  • 『古代遺跡の旅 飛鳥ロマンを散歩する』サンケイ新聞出版局、1972年
  • 『日本古代史と朝鮮文化』筑摩書房、1976年
    • のち『日本古代史と朝鮮』に改題し講談社学術文庫
  • 『金達寿評論集』筑摩書房、1976年
    • 上巻「わが文学」、下巻「わが民族」
  • 『日本の中の古代朝鮮』学生社、1979年1月
    • のち『古代朝鮮と日本文化』に改題し講談社学術文庫
  • 『古代日朝関係史入門』筑摩書房、1980年2月
  • 『故国まで』河出書房新社、1982年4月
  • 『私の少年時代 差別の中に生きる』ポプラ社、1982年8月
  • 『古代日本と朝鮮文化』筑摩書房、1984年9月
  • 『古代の日本と朝鮮』筑摩書房、1985年9月
  • 『渡来人と渡来文化』河出書房新社、1990年12月
  • 『見直される古代の日本と朝鮮』大和書房、1994年6月

共編著・対談

  • 司馬遼太郎上田正昭『日本の朝鮮文化 座談会』中央公論社、1972年
  • 司馬遼太郎、上田正昭『古代日本と朝鮮 座談会』中央公論社、1974年
  • 司馬遼太郎、上田正昭『日本の渡来文化 座談会』中央公論社、1975年
  • 谷川健一『日本文化の源流を求めて 討論』筑摩書房、1975年
    • のち『古代日本文化の源流』に改題し河出文庫
  • 『日本と朝鮮 金達寿対談集』講談社、1977年6月
  • 姜在彦『手記=在日朝鮮人』竜渓書舎、1981年6月
  • 司馬遼太郎、陳舜臣『歴史の交差路にて 日本・中国・朝鮮』講談社、1984年4月
  • 『回想 唐木邦雄』審美社、1987年2月
  • 谷川健一『地名の古代史 近畿篇』河出書房新社、1991年6月
  • 谷川健一『地名の古代史 九州篇』河出書房新社、1988年8月

翻訳

  • 李箕永『蘇える大地』ナウカ社、1951年(朴元俊共訳)

自伝

  • 『わがアリランの歌』中公新書、1977年6月
  • 『わが文学と生活』青丘文化社、1998年5月

研究文献

  • 崔孝先『海峡に立つ人──金達寿の文学と生涯』批評社、1998年12月
  • 辛基秀 編著『金達寿ルネッサンス』解放出版社、2002年2月
  • 廣瀬陽一『金達寿とその時代――文学・古代史・国家』図書出版クレイン、2016年5月
  • 廣瀬陽一『日本のなかの朝鮮 金達寿伝』図書出版クレイン、2019年11月

関連項目

脚注

  1.  司馬遼太郎と親交結んだ在日朝鮮人作家 北朝鮮を支持、そして裏切られた(GLOBE+)”. Yahoo!ニュース. 2021年11月24日閲覧。
  2.  金達寿『わがアリランの歌』(1977年 中公新書)p.3。
  3.  同前、pp.3-4。
  4.  同前、pp.9-10
  5.  同前、pp.9-10。
  6.  同前、pp.12-15。
  7.  同前、pp.20-30。
  8.  同前、p.30。
  9.  同前、pp.60-64。
  10.  同前、p.64。
  11.  同前、p.84。
  12.  同前、pp.169-170。
  13.  同前、p.212。
  14.  同前、pp.215-231。
  15.  同前、pp.237-247。
  16.  伊藤整「日本的思考を拡大/朝鮮民族の実質を感動的に表現」『日本読書新聞』1954年2月、p.4。佐多稲子「金達寿『玄海灘』」『群像』1953年月、p.167。姜在彦「文学が持っている魅力」『解放新聞』1954年3月、ページ数不明、原文朝鮮語
  17.  金達寿「視点について──どうかくかの問題・ノオト」『リアリズム』1958年10月。
  18.  金達寿『わが文学と生活』1998年12月、pp.149-153。
  19.  [ https://doi.org/10.15083/00037320 在日朝鮮人作家・金達寿と「解放」―― 日本語雑誌『民主朝鮮』を中心に ]閔東曄 『アジア地域文化研究』No. 11(2015. 3)
  20.  金達寿、同前、pp.133-135。
  21.  恩地洋介 (2022年7月29日). 故・金芝河さん(韓国の詩人) 独裁と闘った「抵抗詩人」”. 日本経済新聞. 2024年12月24日閲覧。
  22.  キム・ミヒャン (2018年12月10日). 白基玩・張俊河…民青学連裁判記録、45年ぶり公開”. ハンギョレ新聞. 2024年12月29日閲覧。
  23.  『朝日新聞』1974年7月17日付朝刊、19面、「韓国軍法会議の判決に 抗議行動広がる 東京ではハンスト 国際連帯も」。
  24.  金芝河 著、金芝河刊行委員会 訳『苦行 獄中におけるわが闘い中央公論社、1978年9月30日、660-670頁。
  25.  『コリア評論』1974年10月号、コリア評論社、57-60頁、「韓国日誌」。
  26.  中島健蔵『回想の文学 1』平凡社、1977年5月25日、8-9頁。
  27.  「民族詩人金芝河(キムジハ)の夕べ」における金達寿の所感(音声)”. 神奈川近代文学館 (2021年1月21日). 2024年12月24日閲覧。
  28.  作家・金達寿を知って 生誕100年展、HPで冊子紹介”. 朝日新聞デジタル. 2021年3月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年5月29日閲覧。
  29.  スポット展示・収蔵コレクション展19「生誕100年 金達寿展」”. 神奈川近代文学館. 2021年1月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年5月29日閲覧。
  30.  金達寿展が再開 異郷で書く意味を問う”. 毎日新聞. 2021年5月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年5月29日閲覧。
  31.  スポット展示・収蔵コレクション展19「生誕100年 金達寿展」”. 神奈川近代文学館. 2021年5月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年5月29日閲覧。

外部リンク



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금달수

출처 : 무료 백과 사전 "Wikipedia (Wikipedia)"
김달수
(김달수:김탈스 / 김달수)
“신일본 문학 전집 제13권”( 슈에이샤 , 1965년 3월)
펜네임김달수, 오자와 타츠오, 김광준, 박영태, 손인장, 김문수, 백인
탄생달수 1920년 1 월 17일 ( 음력 1919년 11월 27일 ) 일본 통치조선 경상남도 창원군 내서면 호랑 계리

대일본 제국의 국기
사망1997년 5월 24일 (77세몰) 일본국 도쿄도
일본의 국기 
묘지후지 영원 ( 시즈오카 스루토군 오야마 초 오오카미 888-2)
직업소설가 · 고대사 연구자
언어일본어조선어
최종 학력일본 대학 전문부 예술과
활동 기간1940년 -1996
장르소설 · 고대사
문학 활동신일본 문학회 · 문학 예술사 · 2일회 · 리얼리즘 연구회 · 현대 문학 연구회
대표작
'후예의 거리 '(1948년) '현해탄
'(1953
년)
'박달의 재판'(1958년)
주요 수상 경력평화문화상 (1957년), 아오오카 문학상 (1974년)
데뷔작「위치」(1940년)
어린이1인
 위키 포털 문학
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금 달수
각종 표기
한글 :김달수
한자 :금 달수
발음:김탈스, 김달스
일본어 읽기:킨 타츠쥬
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김달수 ( 김탈수 / 김달수 , 김달수 , 1920년 < 다이쇼 9년 > 1월 17일 ( 음력 1919년 11월 27일 ) - 1997년 < 2009 년 > 5월 24일 )는 재일조선인 소설가 고대사 연구가 . 조선민주주의인민 공화국 · 조선총련 을 강하게 지지하고 있었지만 실태를 알고 1981년 한국 방문 이후 에는 제3자의 입장을 취했다 [ 1 ] .

경력・인물

청소년기까지

일본 통치하 조선경상남도 창원군 내서면 호계리 (현·대한민국 경상남도 창원시 마산회원구 )에 중농 지주 의 삼남으로 태어난다 [ 2 ] . 아버지·금무늬규, 어머니·손복남, 장형·김성수, 차형·김양수, 여동생·김명수 [ 3 ] 가 있었다.

아버지 녀석이 놀이에 빠져 파산 [ 4 ] . 1925년 ( 다이쇼 14년 ), 김달수가 5세일 때, 부모는 장남 성수와 여동생 명수를 데리고 내지 로 건너간다 [ 5 ] . 양수·달수는 할머니와 살지만, 1928년 ( 쇼와 3년 ) 무렵에 차형 양수가 병사해, 이어서 내지로부터 아버지의 포기가 전해진다 [ 6 ] . 이후 달수는 할머니와 둘이서 극빈생활을 보낸다 [ 7 ] .

1930년(쇼와 5년) 10세 때, 장형성수에 데려져 내지에 건너는 [ 1 ] [ 8 ] . 할머니는 딸의 아내 앞으로 끌려갔지만, 몇 년 안에 사망했다 [ 8 ] .

1931년(쇼와 6년), 도쿄 시립 오오이 심상야학교 1학년에 입학해, 읽기·쓰기·산술이라고 하는 간단한 것이지만, 처음으로 일본어로 교육을 받았다 [ 9 ] . 1932년(쇼와 7년) 말, 도쿄부 에바라군 겐지마에 심상 초등학교 3학년에 편입 [ 10 ] 하고, 5학년까지 보내지만, 6학년에 진급한 곳에서 빈곤 때문에 퇴학 [ 11 ] . 이후 고학하면서 독학으로 문학을 배웠다. 그 과정에서 시가 나오야 의 소설에 만나 큰 영향을 받는다 [ 12 ] .

일본 대학 전문부 예술과 재학중인 1940년 (쇼와 15년)에 최초의 작품 「위치」를 발표하고, 그 후도 대학의 잡지나 「문예 수도」에 소설을 발표한다. 1941년(쇼와 16년) 12월에 졸업 후, 1942년(쇼와 17년) 1월 20일에 가나가와 일일신보사 의 사회부 기자가 된다 [ 13 ] . 같은 해 2월에 동사는 동업 타사와 합병해, 가나가와 신문사 가 되었다. 재직 중, 일본인 여성과 연애하지만, 의식의 차이를 견디지 ​​못하고, 1943년(쇼와 18년) 봄, 충동적으로 경성 에 여행해, 강인하게 경성일보사 에 입사함과 동시에, 일본인 여성에게 이별의 편지를 쓴다 [ 14 ] . 그러나 그 후 경성일보사가 조선총독부어용 신문사임을 알고 충격을 받아 1944년(쇼와 19년) 2월에 가나가와로 돌아와 1개월 정도 뒤에 가나가와신문사에 복사했다 [ 15 ] .

문학 활동 시작

본격적인 문학활동은, 제2차 세계대전 종전 후인 1946년 (쇼와 21년) 4월 부터, 자신이 창간으로부터 3년간 편집장을 맡은 일본어 잡지 ' 민주 조선 '에 연재를 시작한 장편 소설 '후예의 거리'에서 시작된다. 굵은 문체로 쓰여진 그 작품은 '조선적인 것' '민족적인 것'을 축으로 하고 일본인에 대해 통렬한 전쟁책임 을 찌르는 것으로서 사상을 지지하는 일본인과 재일조선인 모두에게서 높은 평가를 받았다 [ 16 ] . 이후, 「겐카이탄」(「신일본 문학」1952년(쇼와 27년) 1월-1953년(쇼와 28년) 11월. 1954년 (쇼와 29년) 1월간)-『태백산맥』( 1969년 (쇼와 44년))으로 전개했다. 다만 금달수 자신은 '현해탄' 집필 중에 자신의 문학의 한계를 통감하고 시가의 문학을 통해 배운 자연주의 리얼리즘 과의 문학적 투쟁을 시작했다 [ 17 ] .

전전의 1941년(쇼와 16년)부터 『문예 수도』의 동인이 되어, 전후는 1946년(쇼와 21년) 10월에 신일본 문학회 회원이 되었다 [ 18 ] . '문예 수도'는 조선인 선배 작가로서 사료가 활약한 잡지이기도 하며 후배 에게는 김태생 과 김석범 이 있었다. ' 신일본문학 '에는 초기 대표작인 '현해탄' 연재 등 많은 작품을 발표해 '민주조선'과 함께 김달수가 발판을 둔 2대 거점이었다.

1957년 (쇼와 32년), 서미타 마사지 , 니시노 타츠요시 , 쿠보타 세이 , 오하라모토 와 함께 리얼리즘 연구회 를 결성했다. 그 후도 일본 민주주의 문학 동맹 의 결성에 참여해 잡지 '민주 문학'의 이름을 생각하는 등 민주주의 문학 운동 속에서도 활약했다.

잡지 『민주조선』

1946년 초, 재일본 조선인 연맹 의 가나가와현 본부와 요코스카 지부에서 상임 위원을 겸하고 있던 김달수의 “조선과 조선인에 대한 일본인의 잘못된 인가 "식을 바로잡기 위한 잡지를 내고 싶다"는 발안으로 출자자 조진용을 사장으로, 조련의 요코스카 지부를 사무소로 같은 해 4월에 창간, 김이 편집장을 맡았다 . 19 ] . 당초 잡지명은 '조선인'을 예정하고 있었지만, 조련 가나가와현 본부위원장의 한덕장의 제안으로 '민주조선'으로 결정했다 [ 19 ] (전년에 동명의 북한 정부기관지 일간지가 발간하고 있다).

창간호는 거의 김달수와 전용덕( 릿쿄대학 졸, 아연 가나가와 본부 외무부장, 필명에 김철, 임훈)이 집필하고, 그 후 재일조선인 작가 외에 조선 문학가 동맹 을 중심으로 한 본국의 작가와 일본인 문학자와 좌익적 지식인의 투고 도 늘었다 . 지면 구성은 문학관계를 중심으로 경제관계논문이나 기사, 일본인과의 좌담회 등이 있어, 재일조선인 작가의 일본어에 의한 작품은 재일조선인문학 의 확립에 크게 기여했다 [ 19 ] .

1949년 9월에 조련이 해체, 1950년 6월에 조선전쟁이 발발하고, 잡지 '민주조선'도 같은 해 7월 제33호를 가지고 종간이 되었다 [ 19 ] .

북한에의 접근·결별

김달수는 원래 민족주의적 청년 [ 20 ] 에서 조련도 대중단체로 출발했지만 조선민주주의인민공화국 건국 후 '북' 공화국을 지지하는 입장으로 밀려나가는 형태가 되었다. ' 차별이 없는 나라' ' 노동자주인공 의 나라'를 표 향기표로 하고 있었기 때문에 실태는 모르고도 북한을 강하게 지지하고 있었다 [ 1 ] .

1958년(쇼와 33년)에 발행된 『조선―민족・역사・문화』가 조선총련에 비판되었지만, 1959년(쇼와 34년)부터 본격화한 재일조선인・그 일본인 아내 가족들의 귀국사업 을 적극 지원하는 원고도 북한 1 .

1960년대를 통해 조금씩 '북' 지지의 입장에서 멀어지게 되었다. 북한은 1967년(쇼와 42년) 당 중앙위원회 제4기 제15차 전원회의에서 유일하게 지도체제를 내세워 개인 숭배 를 강요하기 시작했다. 1970년대에 들어서 자 김일성 주석의 장남인 김정일 총서기를 후계자로 지명하는 움직임이 일어났다. 이 무렵부터 "북한의 방식은 이상하다"고 반발해 북한·조선총련과 추모를 알았다 [ 1 ] . 전문에 따르면 김달수는 1972년(쇼와 47년)에 조총련에서 제명되었다.

그러나 남북 통일 의 꿈을 포기하지 않고 1975년(쇼와 50년)에 ' 계간 삼천리 '를 이진희 · 강재히코 등으로 창간했다. 한국의 군사독재 정권을 비판하는 기사가 눈에 띄었지만 조총련은 관계자들에게 '삼천리'를 읽지 않도록 지도했다. 김달수가 주도한 잡지 '일본의 조선문화'를 당시 애독하고 있던 재일조선인은 "김달수는 재일에 자부심을 되찾아준 인물이었다. 하지만 총련에서 나간 인간이 활약하는 것은 재미없다는 분위기였다"고 증언하고 있다. 김달수들은 '삼천리'에서 총련 기관지가 하고 있던 '반민족적 행동'이라는 비판에 반론하고 있었다 [ 1 ] . 김달수 등은 도쿄도 조후시 에 있는 오분코 의 자택에서 '삼천리'의 편집회의를 열기도 했지만, 금달수는 자주 “지금의 북한은 틀렸다”고 주장하는 한편, “ 사회주의 는 이런 사상이 아닐 것”이라고도 말했다. 우에 따르면 당시 한국에 비해 북한의 실태는 충분히 밝혀지지 않았다. 그 때문에 귀국한 재일조선인이 비참한 생활을 하고 있는 것은 파악했지만 아직 미화된 것이 남아 있었다. 우는 “북한을 비판하는 일본인도 적었던 시대에, 김달수 선생님도 북한을 볼 수 없었을 것입니다”라고 말하고 있다 [ 1 ] .

한국방문

그 후, 전두환 정권하의 1981년(쇼와 56년)에, 재일조선인 「정치·사상범」의 조명이나 감형을 탄원할 목적으로 한국을 방문한 것에 의해, 김석 범과 김시종 (2003년 2003년 한국적 취득) 등 북한에 친화적·한국에 비판적인 재일조선인· 좌익 일본인으로부터는 총공격·비판을 받았다. 김달수는 제철소조선소 등 ‘ 한강의 기적 ’으로 불릴 정도로 발전한 조국을 보고, “총련은 한국에서는 아이들이 빈 깡통 을 들고 구걸을 하고 있다고 가르쳤으니 이마 우라 시마 의 기분”이라고 말했다. 재일조선인들로 출판하고 있던 '계간 삼천리'도 한국의 실태를 알고 이후는 군사독재 정권 비판의 논조에서 한국에도 북한에도 어울리지 않는 남북통일을 바라는 제3세력과 같은 논조에 기울여갔다 [ 1 ] .

조총련계 금융기관에 근무했던 김달수의 장남은 조총련에 비판된 아버지의 영향으로 승진을 할 수 없게 되어 아버지와 서서히 소원해졌다. 장남은 몸을 부수고, 금달수의 사후에 죽었다 [ 1 ] . 2021년(영화 3년) 11월 오분코는 “지금 김달수 선생님이 살아 있다면 전면에 서서 북한을 비판하고 인권민주화운동 의 선두에 서 있었을 것”이라고 말한다. “기분의 뜨거운 사람이었습니다. 자신의 입장이 나빠지더라도, 나쁜 것은 나쁘다고 분명히 말하는 사람이었으니까”라고 말하고 있다 [ 1 ] .

1974년(쇼와 54년) 4월 박정희 의 독재 정권에 반대하는 시위를 일으킨 대학생들 중 180명이 구속되는 ' 민청학련 사건 '이 발생 [ 21 ] [ 22 ] . 7월 16일까지 김시바하 등 14명에게 사형 , 15명에게 무기징역 , 일본인 태도가와 마사키와 하야카와 가춘 을 포함한 26명에게 징역 15년부터 20년의 형이 부과되었다 [ 23 ] [ 24 ] . 7월 21일 금 사형은 무기 징역 으로 감형되기도 [ 25 ] , 김달수, 쓰루미 슌스케 , 이진희 , 침생이치로 등 4명은 “가네 시 바하 씨 등 전 피고 석방하라”고 항의해, 7월 27 일부터 30일에 걸쳐 수기 다리 공원 에서 ] [ 27 ] .

만년

창작 활동이 1982년 (쇼와 57년)의 『행기의 시대』에서 끝난 것에 대해, 「일본 속의 조선 문화」시리즈는 라이프 워크로서 만년까지 계속되었다. 『민주조선』・『문학예술』・『신조선』・『닭림』・『리얼리즘』(나중에 『현실과 문학』과 개제)

보존·전시

가나가와 근대 문학관 에서는, 2003년에 금달수의 저작권 계승자로부터 원고나 서간 등 1만점 넘게를 기증되어 「금달수 문고」로서 보존하고 있다 [ 28 ] . 2020년 12월 12일부터 스포트 전시·수장 컬렉션전 19 「탄생 100년 금달수전」이 개최되었다 [ 28 ] [ 29 ] . 신형 코로나바이러스 감염 확대에 의한 긴급 사태 선언 때문에 이 관이 임시 휴관이 되고 [ 28 ] , 회기가 중단되어 5월 22일부터 재개최되었다 [ 30 ] [ 31 ] .

저작

소설

  • 『후예의 거리  : 나가편 소설』 조선 문예사, 1948년 3월 1일. NDLJP : 1703377 .
  • 『반란군』 동아서방, 1950년
  • 『후지노무라마을에서』 동방사, 1952년
  • 겐카이탄』 쓰쿠마 서방 , 1954년 이후 아오키 문고, 코단샤 문고
  • 『전야의 장』 도쿄 서림, 1955년
  • 『고국의 사람』 쓰쿠마 서방, 1956년
  • 『일본의 겨울』 쓰쿠마 서방, 1957년
  • 「번지가 없는 부락」광서방, 1959년
  • 『박달의 재판』 쓰쿠마 서방, 1959년
  • 『밤에 온 남자』도호사, 1961년
  • 『밀항자』 쓰쿠마 서방, 1963년
  • 『나카야마도』 동방사, 1963년
  • 『공종이문』 동방사, 1965년
  • 태백산맥』 쓰쿠마 서방, 1969년
  • 『소설 재일조선인사』 창수사, 1975년(단편집, 전2권)
  • 『낙조』 쓰쿠마 서방, 1979년 4월
  • 「쓰시마까지」가와 데 서방 신사 , 1979년 10월
  • 금달수 소설 전집』 쓰쿠마 서방, 1980년(전 7권)
  • 행기 의 시대』 아사히 신문사 , 1982년 3월

평론·에세이

  • 『내 창작과 체험』갈대 출판사, 1955년
  • '조선 -민족·역사·문화-' 이와나미 신서 , 1958년
  • 『일본 속의 조선문화 그 고대 유적을 묻고』코단샤 , 1970-1991년(전 12권)
  • 「고대 문화와 「귀화인」」신인물 왕래사 , 1972년
  • 「고대 유적의 여행 아스카 로망을 산책한다」산케이 신문 출판국, 1972년
  • 『일본 고대사와 조선문화』 쓰쿠마서방, 1976년
    • 나중에 「일본 고대사와 조선」으로 개정하여 코단샤 학술 문고
  • 『금달 수평 논집』 쓰쿠마 서방, 1976년
    • 카미마키 「우리 문학」, 하권 「우리 민족」
  • 『일본 안의 고대 조선』학생사, 1979년 1월
    • 나중에 "고대 조선과 일본 문화"로 개정하여 코단샤 학술 문고
  • 『고대 일조 관계사 입문』 쓰쿠마 서방, 1980년 2월
  • 『고국까지』 카와데 서방 신사, 1982년 4월
  • 『내 소년 시대 차별 속에 사는』 포플러사, 1982년 8월
  • 『고대 일본과 조선문화』 치쿠마 서방, 1984년 9월
  • 『고대의 일본과 조선』 쓰쿠마 서방, 1985년 9월
  • 『도래인과 도래 문화』 가와데 서방 신사, 1990년 12월
  • 「재검토되는 고대의 일본과 조선」야마토 서방, 1994년 6월

공편 저·대담

  • 시마 요타로 , 우에다 마사아키 “일본의 조선 문화 좌담회” 중앙 공론사, 1972년
  • 시마 요타로, 우에다 마사아키 “고대 일본과 조선 좌담회” 중앙 공론사, 1974년
  • 시마 요타로, 우에다 마사아키 “일본의 도래 문화 좌담회” 중앙 공론사, 1975년
  • 타니가와 켄이치 “일본 문화의 원류를 찾아 토론” 쓰쿠마 서방, 1975년
    • 나중에 "고대 일본 문화의 원류"로 개정하여 가와데 문고
  • 『일본과 조선 김달수 대담집』 코단샤, 1977년 6월
  • 강재히코『수기=재일조선인』 용계서사, 1981년 6월
  • 시마 요타로, 진현신『역사의 교차로에서 일본・중국・조선』 코단샤, 1984년 4월
  • 『회상 가라키 쿠니오』 심미사, 1987년 2월
  • 타니가와 켄이치 “지명의 고대사 긴키편 ” 가와데 서방 신사, 1991년 6월
  • 타니가와 켄이치 「지명의 고대사 규슈 」카와데 서방 신사, 1988년 8월

번역

  • 李箕永『소생하는 대지』 나우카사, 1951년(朴元俊共訳)

자전

  • 「우리 아리랑 의 노래」중공 신서, 1977년 6월
  • 「우리 문학과 생활」아오오카 문화사, 1998년 5월

연구문헌

  • 崔孝先 『해협에 서는 사람──김달수의 문학과 평생』비평사 , 1998년 12월
  • 신기수편 저 『금달수 르네상스』해방 출판사 , 2002년 2월
  • 히로세 요이치 「금달수와 그 시대――문학・고대사・국가」도서 출판 크레인, 2016년 5월
  • 히로세 요이치 『일본의 조선 김달수전』 도서 출판 크레인, 2019년 11월

관련 항목

각주

  1.  시마 요타로와 친교한 재일조선인 작가 북한을 지지하고 배신당했다(GLOBE+) ”. Yahoo!뉴스 . 2021년 11월 24일 열람.
  2.  금달수 『우리 아리랑의 노래』(1977년 중공신서) p.3.
  3.  이전, pp.3-4.
  4.  이전, pp.9-10
  5.  이전, pp.9-10.
  6.  이전, pp.12-15.
  7.  이전, pp.20-30.
  8.  이전, p.30.
  9.  이전, pp.60-64.
  10.  이전, p.64.
  11.  이전, p.84.
  12.  이전, pp.169-170.
  13.  이전, p.212.
  14.  이전, pp.215-231.
  15.  이전, pp.237-247.
  16.  이토 마사루 「일본적 사고를 확대/조선 민족의 실질을 감동적으로 표현」 「일본 독서 신문」1954년 2월, p.4. 사타이나코「카네타츠수『겐카이탄』」『군상』1953년월, p.167. 강재히코 「문학이 가지고 있는 매력」 「해방신문」 1954년 3월, 페이지수 불명, 원문조선어
  17.  금달수 「시점에 대해──어쩐지의 문제·노오토」 「리얼리즘」1958년 10월.
  18.  금달수 『우리 문학과 생활』 1998년 12월, pp.149-153.
  19.  [ https://doi.org/10.15083/00037320 재일조선인 작가 김달수와 '해방'―― 일본어잡지 '민주조선'을 중심으로 ] 민동조 '아시아지역문화연구' No. 11
  20.  금달수, 동전, pp.133-135.
  21.  온지 요스케 (2022년 7월 29일). 고·가나시바가와씨(한국의 시인) 독재와 싸운 “저항시인” ”. 일본 경제 신문. 2024년 12월 24일 열람.
  22.  김미향 (2018년 12월 10일). 백기완·장준하…민청학연재판 기록, 45년 만에 공개 ”. 한겨레 신문 . 2024년 12월 29일 열람.
  23.  『아사히신문』 1974년 7월 17일자 조간, 19면, 「한국군법회의의 판결에 항의행동 퍼진다 도쿄에서는 한스트 국제연대도」.
  24.  김시 바하 저, 긴바하 간행 위원회 번역 “ 고행 옥중에 있어서의 우리 싸움중앙 공론사 , 1978년 9월 30일, 660-670페이지 .
  25.  '코리아 평론' 1974년 10월호, 코리아 평론사, 57-60페이지, '한국일지'.
  26.  나카지마 켄조「회상의 문학 1」평범사, 1977년 5월 25일, 8-9페이지.
  27.  민족시인 김지하의 밤”에 있어서의 금달수의 소감(음성) . 가나가와 근대문학관 (2021년 1월 21일) .
  28.  작가·금달수를 알고 탄생 100년전, HP로 책자 소개 ”. 아사히 신문 디지털. 2021년 3월 3일 시점의 오리지널 보다 아카이브. 2021년 5월 29일에 확인함.
  29.  스포트 전시·수장 콜렉션전 19 “탄생 100년 금달수전” ”. 카나가와 근대 문학관. 2021년 1월 17일 시점의 오리지널 보다 아카이브.
  30.  금달수전이 재개 이향에서 쓰는 의미를 묻는다 ”. 매일 신문. 2021년 5월 20일 시점의 오리지널 보다 아카이브. 2021년 5월 29일에 확인함.
  31.  스포트 전시·수장 콜렉션전 19 “탄생 100년 금달수전” ”. 가나가와 근대 문학관. 2021년 5월 29일 시점의 오리지널 보다 아카이브.

외부 링크

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『わがアリランの歌』金達寿、1977年 
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사사키 히로지
5.0 out of 5 stars 금달수
Reviewed in Japan on March 4, 2026
Format: Paperback Shinsho
1919년 구미동이라는 마을에서 산성을 올린다. 이상하게도 3·1독립운동이 일어난 해. 집은 중소지주 중 하나였지만, '한일 합병' 그것에 의한 '토지조사'에 의해 부당하게 취해져 가게 되어 몰락. 그래도 밟으면 다르게 자취인 아버지가 자기가 되어 유탕해 재산을 다 사용한다. 곤궁의 별로 부모와 형 두 사람은 일본에 이득에 건너, 저자는 할머니의 밑에 남겨진다. 장남과 아버지가 사망한다. 10세가 되어, 저자도 일본에 가게 된다. 할머니는 한국에 뼈를 채우고 싶다고 긍지 없이 혼자 남기게 된다. 그리고 종전까지의 것이 그려져 간다. 금달수라고 해도 지금은 모르는 사람이 많을 것 같다. 나의 연대에서도 적은 것이 아닌가. 나는 재일조선인의 문학을 좋아해 읽으니까, 드물게 알고 있는 것이지만. 김사료도. 김사료의 작품집을 구입해 김달수의 편집인 것은 알고 있었지만, 친교가 있는 것까지는 몰랐다. 김사료는 '빛 속에서'밖에 읽지 않았지만 선명한 인상이 남아 있다. 친교라고 하면, 관련된 사람들에게 그 밖에도 개성적이다. 목욕탕에 근무했을 때, 그 번두는 어느 날 갑자기 "나는 앞으로 사회주의자가 될거야"라고 말했다. 1935년의 가을. 지금 1928년 3월 15일 이른바 ‘3·15사건’ 이후 번두가 말한 그 사회주의 운동은 잇따른 탄압을 받고 있다. 마츠바라 히로시 교수. 등등. ‘2·26사건’도 있다. 신문 기자가 되고, 괴로운 사랑도 있어. 『현계탄』의 거리라고 한다. 기본 사소설인 것 같다는 것에 놀란다. 일본 특유의 좁은 단순하고 처음 젖은 작풍이 아니기 때문에. '조선인부락'이라든가 '통명'에 대한 지견을 얻을 수 있는 수수께끼 의미 있는 곳이 있었고, 무엇보다 읽는 것으로 맛이 있어도 좋다. 역시 좋아한다고 생각한다.
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요시
3.0 out of 5 stars 김달수씨의 자신사
Reviewed in Japan on June 21, 2014
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재일조선인의 도탄의 고통을 어떻게 이해할까? 그런 관점에서 읽기 시작했습니다. 소설가가 쓴 「자신사」로서는, 정리가 없고 기재에 레플레인이 많은 등, 낙담입니다. 다만, 왜, 부모님이 일본에 건너왔는가 하는 이유가 명쾌하고 나의 연구(임백언)에 매우 도움이 되었습니다.
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5.0 out of 5 stars 입장에 관계없이 한 사람의 인생으로 읽을 수있었습니다.
Reviewed in Japan on January 7, 2020
자신의 이력을 가능한 한 정확하게 철자하고 있는 책이라고 생각합니다.
소설이 아니기 때문에 이야기성을 요구하면 도중에 질려 오는 느낌은 있습니다만, 당시의 모습이나 냄새를 알기 위해서는, 중립적인 문체가 돌아와 이쪽의 상상력을 작동시켜 주는 책이라고 생각합니다. 종전 후부터는 또 다음과 권말에 있었지만, 나오지 않았을까요? 당시의 그 후를 알고 싶었습니다만, 매우 유감입니다.
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금달수 「우리 아리랑의 노래」사사키 히로지의 독서 수상

사사키 히로지
2026년 4월 4일 14:03


 저자 김달수는 1919년 구미동이라는 마을에서 산성을 올린다. 이상하게도 3·1독립운동이 일어난 해. 집은 중소지주 중 하나였지만, '한일 합병' 그것에 의한 '토지조사'에 의해 부당하게 취해져 가게 되어 몰락.
 그래도 밟으면 다르게 자취인 아버지가 자기가 되어 유탕해 재산을 다 사용한다. 곤궁의 별로 부모와 형 두 사람은 일본에 이득에 건너, 저자는 할머니의 밑에 남겨진다. 자연스럽게 장남과 아버지가 죽는다. 10세가 되어, 저자도 일본에 가게 된다.
 할머니는 한국에 뼈를 채우고 싶다고 긍지 없이 혼자 남기게 된다. 그리고 종전까지의 것이 그려져 간다.
 금달수라고 해도 지금은 모르는 사람이 많을 것 같다. 나의 연대에서도 적은 것이 아닌가. 나는 재일조선인의 문학을 좋아해 읽으니까, 드물게 알고 있을 뿐일 것이다. 김사료도, 물론. 김사료의 작품집을 구입해 김달수의 편집인 것은 알고 있었지만, 친교가 있는 것까지는 몰랐다.
 김사료는 '빛 속에서'밖에 읽지 않았지만 선명한 인상이 남아 있다. 친교라고 하면 관련된 사람들 외에도 개성적이다. 목욕탕에 근무했을 때, 그 번두는 어느 날 갑자기 "나는 앞으로 사회주의자가 될거야"라고 말했다. 1935년의 가을. 지금 1928년 3월 15일 이른바 ‘3·15사건’ 이후 번두가 말한 그 사회주의 운동은 잇따른 탄압을 받고 있다. 마츠바라 히로시 교수, 등등.
 ‘2·26사건’도 있다. 신문 기자가 되고, 괴로운 사랑도 있어. 『현계탄』의 거리라고 한다. 확실히 읽고 떠올랐던 것이다. 기본 사소설이라고 하는지, 자신의 경험을 주로 스트레이트에 소재로 하고 있는 것에 놀랐다.
 사소설이라는 일본 특유의 좁은 단순하고 처음 젖은 작풍이 아니기 때문에.
 또 깜짝 놀란 것은 시가 나오야를 나 숙하고 있던 곳. 나는 시가 나오야를 그런 것은 아니다고 생각하지만, 역시 한때까지 소설의 하나님과 숭배받고 있었기 때문일 것이다. 금달수의 문장에 도움이 되는 곳이 있었기 때문에, 그것은 그것으로 좋았을지도 모른다.
  '조선인부락'이라든가 '통명'에 대한 지견을 얻을 수 있는 수수께끼 의미 있는 곳이 있었고, 무엇보다 읽는 것으로 맛이 있어도 좋다. 역시 금달수는 좋아한다고 생각한다.
 덧붙여서 아리랑(아리랑)이란, 일본에서 말하면 민요와 같은 것 같다. 토착의 심성,이 노래되고 있을 것이다.
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재일조선인 문학의 금자탑을 쌓은 김달수(金達壽, 1919~1997)의 회고록 <내 아리랑의 노래>(わ가 アリランの 歌, 1977)는 식민지와 해방, 그리고 이국 땅에서의 삶을 포괄하는 경계인의 자전적 서사이다. 이 작품은 단순한 개인의 일대기나 피해자로서의 고백을 넘어, 제국의 중심부에서 피지배자이자 민중으로서 근대를 살아야 했던 조선인의 실존적 고뇌와 정체성 탐구를 담아낸 중요한 문학적·역사적 증언이다.

1. 시대적 배경과 작품의 위치

김달수는 경상남도 창원에서 태어나 어린 시절 부모를 따라 일본으로 건너갔다. 그는 일제강점기 말기 밑바닥 노동을 전전하면서도 문학을 향한 열정을 놓지 않았고, 해방 후에는 일본어로 작품 활동을 이어가며 재일조선인 문학의 사상적·예술적 기틀을 마련했다. 1977년에 발표된 <내 아리랑의 노래>는 작가가 환갑을 앞둔 시점에서 자신의 유년기와 청년기, 그리고 식민지 시기 일본 사회에서의 삶을 반추하며 써 내려간 자전적 기록이다.

이 책은 <현해탄>이나 <박달나무의 기적> 등 그의 소설 세계를 이루는 경험적 토대를 보여주는 동시에, 식민지 조선과 제국 일본이라는 두 세계 사이에 끼어 있던 재일조선인 1세대의 정신사를 극명하게 보여준다.

2. 주요 서사 내용 요약

유년기의 이주와 차별의 기억

작품은 한반도 남부의 가난한 농촌에서 시작하여 현해탄을 건너 도쿄와 가나가와 일대의 조선인 밀집 지역(슬럼)으로 이어지는 민족적 이주의 궤적을 그린다. 어린 김달수가 목도한 것은 일본 사회의 노골적인 차별과 멸시, 그리고 최하층 노동자로 몰린 조선인들의 피폐한 삶이었다. 그는 '조센징'이라는 멸칭 속에서 느꼈던 깊은 수치심과 공포, 그리고 그것이 내면화되어 형성된 열등감을 사실적으로 고백한다.

문학과의 만남과 지적 성장

극심한 가난과 차별 속에서도 그는 야간학교를 다니고 독학으로 문학을 접한다. 도공, 배달원, 공장 노동자로 일하면서 야간에 세계문학과 일본 문학, 그리고 서구 사상을 탐독하는 과정은 그에게 단순한 지식 습득이 아니라 실존을 지탱하는 유일한 구원 방식이었다. 특히 일본어로 글을 써야만 하는 이중적 상황 속에서 언어에 대한 깊은 번민을 겪는다. 피지배자의 언어인 조선어를 빼앗긴 채, 가해자의 언어인 일본어로 자신의 존재와 한을 표현해야 하는 비극적 역설이 서사의 중심을 이룬다.

일제 말기의 암두와 해방의 순간

태평양 전쟁이 파탄으로 치닫던 일제 말기, 전쟁 동원 체제 아래에서 재일조선인들이 겪어야 했던 물적 수탈과 경찰의 감시, 그리고 학병 및 징용의 공포가 객관적이면서도 서정적인 필치로 기록된다. 이어 맞이한 1945년 8월 15일의 해방은 완전한 구원이 아니었다. 고국으로 돌아가지 못하고 일본에 남겨진 재일조선인들이 '남겨진 자'로서 겪어야 했던 새로운 정체성의 혼란과 해방 직후의 이념적 분열이 묘사된다.

3. 요약 평론: 경계인의 시선과 아리랑의 현대적 재해석

(1) '아리랑'의 사상적 승화

제목에 포함된 '아리랑'은 단순한 민요나 향수를 상징하는 데 그치지 않는다. 김달수에게 아리랑은 유랑과 수난의 역사 속에서 조선 민중이 삶을 버텨낸 '저항과 생명력의 가락'이다. 제국의 한복판에서 차별받던 조선인 노동자들이 술에 취해 부르던 아리랑은, 파편화되고 짓밟힌 개인들이 민족적 유대와 인간적 존엄을 확인하는 유일한 언어적 안식처였다. 작가는 이 아리랑을 재일조선인의 특수한 수난사를 넘어, 제국주의 폭력 아래 스러져간 모든 민중의 보편적 한(恨)과 희망의 서사로 승화시킨다.

(2) 언어의 이중성과 경계인으로서의 정체성

<내 아리랑의 노래>가 지닌 문학적 고유성은 이 작품이 '일본어'로 쓰였다는 사실 자체에서 비롯된다. 김달수는 제국의 언어를 매개로 삼아 제국의 모순을 비판하는 이중적 위치에 서 있다. 그는 조선인이라는 정체성을 놓지 않으면서도, 일본 문단과 지식인 사회 속에서 근대적 문학 형식을 취해야 했다. 이러한 경계인적 위치는 그로 하여금 자국 중심적 민족주의에 빠지지 않고, 식민지 지배의 구조적 폭력과 인간의 실존적 고뇌를 보다 객관적이고 서구 근대 지성적인 안목으로 바라보게 만드는 동력이 되었다.

(3) 식민지 근대성에 대한 비판적 증언

작품은 제국 일본이 자랑하던 근대화의 그늘 뒤에 조선인 노동자들의 피와 땀, 그리고 철저한 배제가 있었음을 증언한다. 도쿄의 번화함과 대비되는 조선인 촌락의 피폐함, 그리고 근대 교육 시스템이 식민지 민중을 일등 국민이 아닌 하층 노동자로 순응시키는 과정을 냉철하게 포착한다. 이는 일제강점기 경험을 단순한 '피해'로만 규정하는 것을 넘어, 제국주의 근대성이 내포한 허구성을 정면으로 고발하는 의미를 갖는다.

4. 결론

김달수의 <내 아리랑의 노래>는 20세기 동아시아의 비극적 역사 속에서 피지배 민족의 한 개인이 어떻게 자신의 존재를 증명하고 문학적 자아를 확립했는가를 보여주는 고결한 기록이다. 리영희의 <역정>이 지식인으로서의 진실 추구와 비판적 의식의 형성을 다루고, 김은국의 <잃어버린 이름>이 정체성 상실에 대한 윤리적 성찰을 담아냈다면, 김달수의 이 회고록은 제국의 한복판에서 민중의 삶을 몸소 체현하며 경계인으로서 살아낸 한 문학인의 진솔한 고백이다. 이 작품은 오늘날에도 식민지 근대성의 비극과 재일조선인 역사, 그리고 인간 존엄성의 의미를 되새기게 하는 불후의 명작으로 남아 있다.


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『わが文学と生活』金達寿、1998年 
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김달수 <나의 문학과 생활> 요약 및 평론

1. 요약: 경계인으로서의 생애와 창작의 궤적

김달수의 자전적 자서전이자 문학론인 <나의 문학과 생활>은 재일조선인 1세대 문학의 금자탑을 쌓아 올린 한 지식인의 삶과 예술 세계를 조명한 노작이다. 식민지 시기 어린 나이에 일본으로 건너가 밑바닥 노동을 전전하면서도 문학에 대한 열정을 놓지 않았던 저자의 생애가 담담하면서도 날카로운 필치로 그려진다.

책은 저자가 겪은 민족적 차별과 정체성의 갈등, 그리고 지배국의 언어인 '일본어'로 글을 쓸 수밖에 없었던 역사적 비극을 정면으로 다룬다. 대표작 <현해탄>의 창작 배경과 해방 직후 <민주조선> 등 문학지 발행을 둘러싼 재일조선인 문단 형성 과정의 비화가 생생하게 서술된다. 나아가 후반부에서는

  •  소설가에서 한일 관계사와 답사기에 기반한 고대사 연구자(<일본 속의 조선 문화>)로 지평을 넓혀간 사상적 이행의 궤적을 명확히 보여준다.

2. 평론: 지배자의 언어로 세운 정체성과 문학적 유산

모순의 언어, 일본어를 통한 투쟁

김달수 문학의 근본적인 모순이자 역설은 '조선인'의 정체성을 고백하고 증언하는 매개체가 피전복 민족을 침탈한 '지배자의 언어(일본어)'였다는 점이다. <나의 문학과 생활>은 이러한 언어적 이중성에 대한 저자의 깊은 번민을 숨김없이 드러낸다. 그러나 저자는 모국어를 빼앗긴 비극에 좌절하는 대신, 일본어라는 도구를 극단까지 제련하여 식민지 지배의 불합리와 일본 사회의 내재적 모순을 파헤치는 무기로 전환했다. 이 자서전은 지배자의 언어로 지배 질서에 균열을 낸 한 지식인의 치열한 언어적 투쟁기다.

국경과 이념을 넘어서는 내러티브

이 작품이 지닌 독보적인 가치는 단순한 민족주의적 피학의 역사를 넘어선 데 있다. 저자는 일본 밑바닥 민중과의 연대를 소홀히 하지 않으면서도, 해방 후 한반도의 분단과 재일조선인 사회 내부의 이념적 갈등을 냉철한 시선으로 직시했다. 이데올로기의 광기에 휘말리지 않고 인간 본연의 존엄성과 현실적 삶의 조건에 밀착하려는 태도는 김달수 문학을 단단하게 지탱하는 버팀목이다.

문화적 경계인에서 연대의 중개자로

후반부에 제시되는 고대사 연구로의 이행은 문학적 전향이 아닌, 문학적 지평의 확장으로 해석해야 마땅하다. 역사 속에서 일본과 조선이 맺어온 교류의 흔적을 추적한 그의 활동은, 단절과 대립의 역사 속에서 양국이 공유하는 문화적 뿌리를 되살리려는 고도의 문화적 연대 모색이었다.

결론적으로 <나의 문학과 생활>은 한 개인의 수기를 넘어, 근대 동아시아가 낳은 비극적 역사 속에서 정체성을 상실하지 않고 타자와의 교류를 모색했던 재일조선인 문학의 근본적 질문을 던지는 명저다

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김달수(金達寿)의 <わが文学と生活(나의 문학과 생활)>은 1998년 청구문화사(青丘文化社)에서 출간된 301쪽 분량의 자전적 기록이다. 김달수가 1997년에 사망한 이듬해 출간되었으며, 생전에 여러 차례 써 두었던 자전적 글들을 토대로 그의 문학과 삶을 연결해 보여준다. 일본 도서관 자료에서도 이 책은 자서전·문학적 회고의 성격을 가진 저작으로 분류된다.

김달수(金達寿) <わが文学と生活>

— 1,000단어 요약·평론

1. 이 책은 단순한 작가 자서전이 아니다

<わが文学と生活>을 단순히 “소설가 김달수가 어떻게 작가가 되었는가”를 기록한 책으로 읽으면 그 중요성을 절반밖에 이해하지 못한다.

김달수에게 <생활>과 <문학>은 분리되지 않는다. 식민지 조선에서 태어나 일본으로 건너가 가난과 민족차별 속에서 성장하고, 일본어로 문학을 배우고, 1945년 해방을 맞은 뒤 재일조선인 정치·문화운동에 참여한 그의 삶 자체가 문학의 소재이자 문학을 써야 하는 이유가 된다.

따라서 제목의

<나의 문학과 생활>

이라는 말은 사실상

<나는 왜 일본에서 조선인으로서 일본어로 글을 써야 했는가>

라는 질문과 거의 같다.

Google Books의 책 소개 역시 이 책을 “정치·사회의 부조리와 민족차별에 엄격한 태도를 견지한 재일 1세 작가 김달수의 발자취를 더듬는 저작”으로 설명한다.


2. 식민지 조선인 소년이 일본에서 성장하다

김달수는 1919년 경상남도 창원에서 태어났다. 어린 시절 일본으로 건너와 성장한 이른바 재일조선인 1세대에 속한다.

그가 경험한 식민지는 서울이나 조선 농촌에서 바라본 식민지가 아니다.

<일본 본토에서 조선인으로 살아본 식민지 경험>이다.

이 점이 중요하다.

조선인은 일본 제국의 신민이라고 법적으로는 주장되었지만 실제 생활에서는 일본인과 동등하지 않았다. 학교, 노동현장, 주거, 인간관계 속에서 조선인이라는 사실이 끊임없이 의식되었다.

김달수에게 민족의식은 처음부터 추상적인 정치사상으로 생긴 것이 아니라 일상생활에서 자신이 “다른 사람”으로 취급되는 경험을 통해 형성되었다.

따라서 그의 민족주의는 상당히 생활세계적이다.

“조선이 식민지이기 때문에 독립해야 한다”는 명제 이전에

<왜 나는 이 사회에서 열등한 인간처럼 취급받아야 하는가?>

라는 경험이 존재한다.

이 경험은 이후 김달수 문학의 가장 지속적인 원천이 된다.


3. 그런데 그의 문학 언어는 일본어였다

여기서 김달수라는 작가의 근본적인 역설이 생긴다.

그가 싸워야 했던 사회는 일본 사회였지만, 그가 문학을 배우고 생각하고 글을 쓰는 언어 역시 일본어였다.

이것이 재일조선인 1세 문학의 가장 중요한 딜레마다.

김달수는 조선인이라는 민족적 정체성을 강하게 가지고 있었지만 일본어 문학세계 안에서 성장했다. 일본 근대문학을 읽고 일본 문학잡지를 통해 작가의 꿈을 키웠다.

그러므로 그의 일본어는 단순한 “식민자의 언어”라고 할 수 없다.

그것은 억압의 언어이면서 동시에

<자신의 경험을 표현할 수 있는 가장 능숙한 언어>

였다.

훗날 김달수가 “日本語で書かれる朝鮮文学”, 즉 <일본어로 쓰이는 조선문학>이라는 개념을 적극적으로 고민한 것도 이 때문이다. 연구자들은 이것을 김달수 문학의 핵심 문제로 다루어왔다.

이 점에서 김달수는 한국문학과 일본문학 어느 한쪽으로 간단히 분류하기 어려운 작가다.


4. 1945년 8월 15일 — “패전”과 “해방”의 차이

이 책에서 가장 중요한 역사적 순간은 역시 1945년 8월 15일이다.

일본인에게 이날은 <패전>이었지만 김달수에게는 <해방>이었다.

같은 일본 땅에 서 있으면서 같은 날짜가 전혀 다른 의미를 가진 것이다.

김달수 연보에는 8월 15일 그와 주변 조선인들이 해방을 기뻐하며 “활기충천”했다고 기록되어 있다.

그런데 해방은 곧바로 문제가 해결되었다는 뜻이 아니었다.

오히려 새로운 질문들이 시작되었다.

조선으로 돌아갈 것인가.

일본에 남을 것인가.

남과 북 가운데 어느 쪽을 지지할 것인가.

일본에 남는 조선인은 어떤 존재인가.

일본 사회와 어떤 관계를 맺어야 하는가.

김달수의 개인적 삶은 그 뒤 이러한 질문들을 피해갈 수 없게 된다.


5. <民主朝鮮>과 재일조선인 문화운동

해방 이후 김달수는 재일조선인 사회의 정치·문화운동에 적극적으로 참여한다.

특히 중요한 것이 잡지 <민주조선(民主朝鮮)>이다.

김달수가 이 잡지를 만들려 했던 이유를 그는 매우 명료하게 설명했다.

<조선과 조선인에 대한 일본인의 잘못된 인식을 바로잡기 위해>

잡지를 내고 싶었다는 것이다. 이 발언은 <わが文学と生活>에도 기록되어 있으며 후대 연구자들이 김달수 문학을 이해하는 핵심 자료로 사용하고 있다.

여기서 그의 문학관이 드러난다.

김달수에게 문학은 아름다운 작품을 쓰는 데 그치지 않는다.

<잘못된 역사 인식을 교정하는 일>

이기도 했다.

그의 소설이 자주 일본인의 조선인관, 식민지배의 기억, 재일조선인의 생활을 다루는 것은 우연이 아니다.


6. 그러나 조선인 사회도 하나가 아니었다

김달수의 회고가 흥미로운 것은 일본 대 조선이라는 단순한 이분법에 머물지 않는다는 점이다.

해방된 뒤 재일조선인 사회 내부에서도 상당한 차이가 있었다.

독립운동과 좌파운동에 적극적으로 참여하는 사람,

일본 사회에 동화되기를 원하는 사람,

돈을 벌어 성공하는 것이 중요하다고 생각하는 사람,

식민지 시절의 사고방식을 그대로 가지고 있는 사람,

남한 또는 북한을 지지하는 사람 등이 뒤섞여 있었다.

김달수의 대표적인 해방 직후 작품 <八・一五以後(8·15 이후)>에도 이러한 서로 다른 조선인들이 등장한다.

연구자들이 <わが文学と生活>과 이 소설을 대조해보면 상당수 사건과 인물이 김달수의 실제 경험과 대응한다. 즉 그의 소설은 허구이면서 동시에 재일조선인의 집단적 생활사를 기록하는 성격이 강하다.

이것은 김달수 문학의 큰 특징이다.

<개인의 자서전 → 소설 → 재일조선인 집단의 역사>

가 서로 겹친다.


7. 좌파 지식인으로서의 김달수

김달수는 해방 후 상당히 오랫동안 마르크스주의와 조선민족운동의 영향을 강하게 받았다.

따라서 그의 초기 문학에는 계급·민족·식민지 문제가 긴밀하게 연결되어 있다.

일본의 진보적 문학인들과도 교류했고 <신일본문학(新日本文学)>과 같은 전후 좌파 문학운동과 관계를 맺었다.

그러나 여기에도 긴장이 있었다.

일본 좌파라고 해서 식민지 문제를 충분히 이해하는 것은 아니었다.

일본 공산주의자와 진보 지식인들 사이에서도 일본 중심주의가 남아 있을 수 있었다.

따라서 김달수는 일본 보수사회만을 비판한 것이 아니라

<일본 진보진영의 조선 이해>

에도 끊임없이 문제를 제기해야 했다.

이 점은 재일조선인 지식인의 독특한 위치를 보여준다.


8. 문학에서 역사로

김달수의 생애에서 흥미로운 변화가 하나 더 있다.

그는 중년 이후 점차 소설만큼이나 <일본 속의 조선문화>를 찾는 작업에 몰두한다.

대표적인 것이 방대한 <日本の中の朝鮮文化(일본 속의 조선문화)> 연작이다.

일본 각지를 답사하면서 고대 한반도와 일본 사이의 문화교류, 도래인, 유적과 전승 등을 조사하였다.

1949년 무렵부터 교토 등의 유적을 찾아다닌 경험이 그 출발점 가운데 하나였다고 그의 자전적 기록은 전한다.

언뜻 보면 소설에서 고대사·문화사로 방향을 바꾼 것처럼 보인다.

그러나 사실 문제의식은 동일하다.

<일본과 조선은 정말 서로 완전히 다른 민족인가?>

<일본 문화 속에서 조선의 존재가 왜 이렇게 지워졌는가?>

라는 질문이다.

청년 김달수가 현대 일본의 조선인 차별과 싸웠다면, 중년 이후 김달수는

<일본의 역사 서술에서 지워진 조선>

을 되찾으려 했다고 볼 수 있다.


9. 이 책의 가장 큰 장점 — 역사를 “생활”로 보여준다

<わが文学と生活>의 가장 큰 가치는 바로 제목의 <生活>에 있다.

식민지사를 정치외교사로 읽으면

1910년 병합,
3·1운동,
황민화정책,
강제동원,
1945년 해방

같은 사건들이 중심이 된다.

그러나 김달수의 기록을 읽으면 식민지가 완전히 다르게 보인다.

<한 소년이 어떤 말을 사용했는가>

<학교에서 자신을 어떻게 느꼈는가>

<일본 친구들과 어떻게 지냈는가>

<조선인이라는 사실을 언제 의식했는가>

<일본 문학을 좋아하면서 일본의 식민지배를 어떻게 생각했는가>

와 같은 문제들이 보인다.

바로 이것이 자서전 자료의 가치다.


10. 그러나 비판적으로 읽어야 할 부분도 있다

김달수의 기억을 그대로 역사적 사실로 받아들일 수는 없다.

첫째, 이것은 젊은 시절 바로 작성한 일기가 아니라 훗날 자신의 삶을 회고하며 쓴 글이다.

따라서 청년기의 경험이 훗날 형성된 민족주의와 정치적 세계관을 통해 재구성되었을 가능성이 있다.

둘째, 김달수는 매우 강한 민족의식을 가진 지식인이었다.

따라서 평범한 재일조선인 모두가 그처럼 식민지 경험을 해석했다고 생각해서는 안 된다.

셋째, 그의 초기 세계관에는 마르크스주의와 민족해방론의 영향이 상당히 강하다. 때문에 일본인=지배민족, 조선인=피지배민족이라는 구조가 실제 생활세계의 훨씬 복잡한 인간관계를 단순화할 위험도 있다.

특히 오늘날의 시각에서 보면 여성의 경험은 상대적으로 주변화되어 있다. <8·15 이후>에 대한 현대 연구에서도 김달수의 민족주의적 서사에서 여성, 특히 아내와 어머니가 민족운동을 떠받치는 희생적 존재로 처리되는 문제가 지적되고 있다.


11. 이 책을 어떻게 평가할 것인가

나는 이 책을 <재일조선인 1세대 지식인의 정신적 자서전>이라고 보는 것이 가장 적절하다고 생각한다.

그리고 그 정신세계에는 세 가지가 끊임없이 충돌한다.

<조선인으로서의 민족의식>

<일본어 작가로서의 문화적 형성>

<좌파 지식인으로서의 사회변혁 의식>

이다.

김달수는 이 가운데 어느 하나만을 선택하여 편안하게 살아갈 수 없었다.

바로 그 불편한 경계가 그의 문학을 만들었다.

그래서 김달수는 흔히 말하는 “한국에서 일본으로 이민 간 작가”와도 다르고, 일본의 소수민족 작가라는 말만으로도 충분하지 않다.

그는

<식민지에 의해 일본인이 되도록 강요받았지만 일본인이 될 수 없었고, 해방으로 조선인이 되었지만 조선으로 돌아가서 살아가는 사람도 되지 못한 인물>

이었다.

그 상태에서 일본어로 조선인에 관해 썼다.

이것이 김달수 문학의 근원이다.


종합평가

<わが文学と生活>은 문학적으로 세련된 자서전이라기보다 역사적으로 매우 중요한 자기증언에 가깝다.

특히 가치가 큰 것은 김달수가 한 개인의 삶을 통해

<식민지 → 일본 이주 → 민족차별 → 일본어 문학 → 1945년 해방 → 재일조선인 운동 → 남북분단 → 일본과 조선의 역사관계 탐구>

라는 20세기 재일조선인 지식인의 전체 궤적을 보여준다는 점이다.

따라서 김달수를 읽을 때 가장 중요한 질문은

<그는 일본을 좋아했는가 싫어했는가?>

가 아니다.

오히려

<한 사람이 자신을 차별한 사회의 언어와 문화를 자기 자신의 지적 자산으로 받아들이면서도, 그 사회의 식민주의를 어떻게 비판하며 살아갈 수 있었는가?>

이다.

바로 이 모순 때문에 김달수의 삶은 재일조선인 문학사뿐 아니라 식민지 경험 자체를 이해하는 데도 매우 좋은 사례가 된다.

특히 <식민지를 직접 살아본 사람이 일상생활에서 그것을 어떻게 경험하고 기억했는가>라는 관점에서는, <わが文学と生活>은 상당히 중요한 책이라고 평가할 수 있다. 김달수의 자전적 저술로는 앞서 나온 <わがアリランの歌(나의 아리랑 노래)>(1977)도 있으며, 두 책을 함께 읽으면 그의 삶과 자기해석의 변화까지 비교할 수 있다.

다음 단계로는 <김달수(1919) — 리영희(1929) — 김은국(1932)> 세 사람의 식민지 경험을 비교해보면 특히 흥미롭습니다. 세 사람은 <조선 국내/일본 본토/식민지 말기 아동기>라는 서로 상당히 다른 위치에서 일본 제국을 경험했기 때문입니다.

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