2026-07-30

Nobuhiko Utsumi - 2015年7月18日... | Facebook

(3) Nobuhiko Utsumi - 2015年7月18日... | Facebook

2015年7月18日
 今日、勇気のある外国人の友人の投稿を読んで、劉彩品さんのことを思い出しました。日本社会では今日もなお、外国人への差別・排外主義はなくなるばかりか、ネット特にツイッターを凶器とした、より陰湿で攻撃的な差別が加えられ、人権問題と国際問題にまで発展しています。
 外国人への差別への私の批判を、「言葉狩りだ」と言ってのけた安保法制に反対すると称する人がいます。想像以上に深刻な根深い差別構造が、政府を批判する人々の中にまで胎生し、急速に拡大していると思います。
 実はこうした問題は、「国民」から排除されるか、同化を迫られるか、すでに外国人の間にも、日本で暮らすことへの恐怖と憤りになりつつあります。外国人の中にも、極右化する日本人に歩み寄る人たちが、少しずつではありながら増えてきたと、ある外国人は憂いています。
 このままいけば、そう遠くない将来、日本は非人道的な差別制度と、差別への寛容さを装った根強い排外主義によって、国際社会わけても東アジアから完全に孤立するでしょう。ということは、現状に対抗する主体そのものが厳しく問われていることを意味しているのではないでしょうか。
 私は1970年、高校生の時に、劉彩品さんの入管当局との闘いを知り、東京大学などでの支援運動に参加したことがあります。私は劉彩品さんを通して、初めて日本民衆の一員としての外国人が、法務省当局による出入国管理体制という、非人道的な排外主義的な制度のもとで、抑圧者としての日本人から受けている差別が存在していることを学びました。
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『台湾の、ある女性の記憶  東アジア文史哲ネットワーク編『小林よしのり<台湾論>を超えて』 作品社、2001年4月刊所収  太田昌国
 三〇年前のむかし劉彩品という女性がいた。台湾生まれの彼女は一九五七年、私費留学生として来日し、東大で天体物理学を専攻する学生・院生となった。その後日本人男性と結婚し、婚姻届も提出した。在留資格変更と永住許可申請を申し出たが、日本の入管当局によって拒否されたまま、やがて中華民国政府発行の旅券は失効期限がきた。
 ビザも切れた。一九七〇年、彼女はビザの更新と永住許可を再度申請した。彼女は、日本の入管当局が「不法滞在者」の強制送還を繰り返し行なっていること、台湾から日本の大学に留学していた複数の友人が帰国後、交友関係を基に「台湾独立分子」と接触した容疑で逮捕・拷問され、死刑を求刑されていることなどの事実を知っていた。
 そこで、旅券更新のために必要な、同胞の連帯保証人を頼むことなどは誰に対してもできないと考えたのだった。法務省は最終的に、中華民国政府大使館に「絶縁状」を出せば無国籍者として在留を許可するとした。
  彼女は思想・信条の立場から「中華民国を拒否し、中華人民共和国を自分の国として選ぶ」との文書を提出した。さらに若干の紆余曲折を経て、劉彩品は三年間のビザを獲得した。日本が台湾の国民党政府を唯一正統な中国政府と承認して、北京の中華人民共和国とは国交を持っていなかった一九七〇年の話である。劉彩品は翌一九七一年、招かれて大陸中国へ渡った。
 当時、主として友人の日本人たちによる劉彩品支援運動が広く展開された。劉は、たとえ支援者に対してであろうと「抑圧民族の一員としての」日本人の立場性を厳しく問う人であった。
  劉支援の活動に直接的には関わってはいなかった私も、出入国管理法案問題、南ベトナム政府を批判した在日ベトナム人留学生の在留問題、在日朝鮮人の国籍書き換え問題など、アジア諸民族との関係がさまざまなレベルで問われていた当時の情況の中で、劉彩品が次々と出すビラの文章を緊張感をもって読んでいたことを思い出す。
 それは、民族・植民地問題が提起する課題の重要性にまだまだ無自覚であった時期の私たちに、歴史認識上の大きな転機を促す動きのひとつだったと言える。私は、劉彩品が行なう国民党政府批判は当然としても、「毛沢東思想万歳!」という捉え方には同意できなかったが、それは思想的・政治的立場の違いであり、日本と中国の歴史的関係と現状を思えば、日本法務省と入管に対する劉の要求は認められるべきだと考えていた。
 それから二五年が過ぎた一九九六年、思いがけないことに私は劉彩品と新聞紙上で「再会」した。中国へ行って後、彼女は南京・紫金山天文台の教授を務める傍ら、八三年以降三期にわたって全国人民代表会議(全人代)台湾省代表一三人のうちのひとりだったという。
 だが、九六年三月に開かれた全人代には出席しなかった。その心境を大要次のように朝日新聞に語った(一九九六年三月二二日付)。
「台湾近海でのミサイル試射・実弾射撃訓練は明白な軍事威嚇であり反対だが、最近は全人代で李鵬首相などに何を言っても聞いてもらえず、無力感をおぼえる。
  背景には、共産党指導部が台湾の民心を理解していないことや天安門事件の武力鎮圧が成功だったと考えていることにある。
 また、人民解放軍の地位の誇示とか共産党内部での権力争いも関わっていると思う。台湾の人たちは『怖くない』と言っているが、やはり怖いに違いない。その心情を思うとたまらない気持ちだ。
  中国は、なぜ台湾で『独立』の声が強くなったかを考えるべきだ。私が中国へ行った一九七一年当時とはイメージが変わり、周恩来首相などにあった原則が弱まり、大国主義的な傾向が強くなっていると思う」。
 劉は当然にも苦い気持ちをこめて、これらの言葉を発したにちがいない。一方には、「台湾省」を含めた中国蹂躙の歴史を辿った日本帝国主義と「その奴隷となり走狗となった」国民党政府を批判し、「中華人民共和国万歳!」と叫ぶ二五年前の劉彩品がいる。
  他方には、全人代代表として、「出身省」である台湾の民意に無理解をきわめる共産党指導部に対する絶望感と台湾民衆に対する深い思いを吐露する二五年後の劉がいる。
 そこにはまた、中国革命の「変質」の過程のみならず、台湾を「好ましからざる政権の統治する地域」として関心の対象から外し「奇妙な無関心」(いずれも若林正文の言葉)のエアポケットにおいていた、〈戦後左翼〉あるいは〈進歩派〉としての私たちの二五年間の彷徨の姿も投影されているように思える。
  小林よしのりの『台湾論』なる作品は、この空白地帯を、ある意味で巧みに占領している。歴史に対する小林の無知とデマゴギーに満ちた主観主義的な解釈と、相も変わらぬ父権主義的な態度などは当然にも批判するに値しよう。批判しなければならぬ。
 そのことは自明の前提である。そのうえで、私たちが等閑視してきた問題領域がここでも、これらの歴史偽造派たちに占拠されている事実に、私たちは痛切に自覚的であるべきだろう。』
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『今、夫妻は埼玉県川越市の団地で静かに仲むつまじく暮らす。中国に別れを告げるきっかけとなったのは、89年6月、民主化を求める学生や市民を軍が武力で殺傷した天安門事件だった。
 「民衆に銃を向けたのは絶対に許せなかった」。南京にいた劉は北京の全人代常務委員会に、当時の李鵬首相の罷免を求める電報を打った。
 南京大学生だった次男は学生運動への関与について厳しい取り調べを受けたことを苦にして日本へ。木村は次男を追って90年に帰国し、劉も96年に夫と合流した。
 「家族にはほんとうに迷惑をかけた。木村は東大助手の職を捨て、中国に一緒に来てくれた。おかげで、中国と東アジアの天文学のために貢献できた。今度は私が尽くす番。死ぬ前は彼に『ありがとう』と言うことにしているの」。劉はこう言いながら、 にっこり笑った。
ラジカルさゆえ衝突も  戦争責任、独裁を批判
 劉彩品は日本の戦争責任を追及し、中国共産党の独裁体制を容赦なく批判してきた。そのラジカルさゆえに衝突もあった。支援してきた花岡事件の損害賠償訴訟の和解には徹底的に反対した。
 戦争末期、秋田県の花岡鉱山に強制連行された中国人が過酷な労働に抵抗して蜂起、多数が死傷した同事件で、生存者や遺族ら中国人11人が雇用主の鹿島(旧鹿島組)を訴えた。
 2000年11月、鹿島が5億円で被害者救済基金を設立することで和解したが、「鹿島の法的な責任」を問わず、それを原告側に伝えないまま和解したと批判。日本人支援グループは劉を「反日」と非難した。
 海部宣男は「劉さんはけっして反日ではない。言葉は強いが、心はとても温かい。人を突き放しても、ちゃんと心配しているんだ」と擁護した。
 劉は中国国籍だが、今の中国社会については「資本主義でお金ばかりを追求している。社会主義の理想を模索していたころの方がよっぽどいい。共産党に権力が集中し、一部の人が特権を握る。だから汚職がなくならない」と手厳しい。
 中台統一についても「台湾住民の民意を尊重して決めるべきだ。統一したいなら中国はもっと台湾住民の支持を得なければならない」と主張。「中国は『台湾は固有の領土』というが、歴史を見れば、中国の国境線はいつも変化してきた」と中国の硬直的な姿勢を批判した。』
http://www.47news.jp/47topics/ningenmoyou/160.html

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日本人のあなたと中国人のわたし : 劉彩品支援運動の記録 / 劉さんを守る友人の会編
東京 : ライン出版 , [1971]











Toshitaka Tasaki

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私は、鹿島・花岡裁判に日本人支援者として深く関わりましたので、事情はほぼ分かっています。
劉彩品さんには、花岡裁判の提訴の前に、全人代の一人の代表として全人代の大会で、当時の銭其琛・外交部長(外務大臣)に「中国政府は日本政府に戦争賠償を放棄したが、中国人の個人が日本に対して持っている戦争賠償の請求権は現在も存続しているか」という質問をしてもらい、銭其琛・外交部長から「中国政府は、個人が持つ請求権を放棄することは出来ないので、当然個人請求権は存続している」との回答を得ました。そこから花岡裁判の準備が進められました。
劉彩品さんには、花岡裁判が始まる前から関わっていただいていたのです。
ただ残念ながら、和解成立時には和解内容が不十分だとのことで、和解に反対の立場を取られました。
私も劉彩品さんが“中国人の立場で”反対される気持ちは、よく分かります。私も、劉彩品さんが思われることを新美隆弁護士に直接尋ねたのです。新美さんは「和解条項の第1項として書かれていることが全てだ」という返事(詳しい解説もあり)をもらい納得したのでした。
劉彩品さんが日本に戻られた後、花岡裁判を支援する日本人メンバーを自宅に招待され、餃子を作って皆で頂いたことも思い出されます。
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    田崎 敏孝 さん、どうもありがとうございました。
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    劉彩品さん、鮮明に覚えています。
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    懐かしい名前を拝見いたしました。
     劉彩品さん、支援闘争に参加した事を思い出しました。

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