
花岡事件と、損害賠償請求の「和解」決着について、大雑把に紹介する。
戦時中、日本帝国主義は国内の労働力不足のため、朝鮮人・中国人を強制連行し、工場、鉱山、土木作業の現場で酷使し、虐殺していた。
かつて銅や鉛などを産出していた秋田県花岡町(現・大館市)の花岡鉱山(1994年に閉山)は、戦時中、軍部の増産要求によって乱掘を続けていた。
採掘しつくした坑道の埋め戻しも行われていなかったため、1944年5月29日に「七ッ館坑」が落盤し朝鮮人や日本人の労働者が生き埋めになる大事故が発生。救助活動は途中で中断され、陥落した穴は土砂で埋め戻された。
同様の落盤事故を防ぐため、鉱床の真上を流れる花岡川の水路変更が計画された。これを鹿島組(現・鹿島建設)が請け負い、中国人強制連行被害者が動員された。彼らは、三光作戦の一環として拉致された農民や、捕虜となった国民党軍の兵士だった。中国人を率いる立場である「労工大隊長」に任命された耿諄(こうじゅん)さんも、国民党軍の将校だった。
鹿島組の「補導員」は中国人たちを、時には命を奪う残忍な暴力で支配し、粗末な食事と劣悪な環境下で長時間の重労働を強いた。こうして多くの仲間たちが虐殺されていくなかで中国人たちは1945年6月30日の夜に、耿諄さんを先頭に蜂起し、残忍な暴力を振るっていた補導員ら4人を殲滅し、逃走。
しかし翌日には全員が捕縛され、多くが虐殺された。当時の町内にあった「共楽館」の前に捕えられた中国人たちが縛られ、炎天下に水も与えられず放置されていたという。こうして強制連行されて花岡に送られた中国人986人のうち、終戦までに419人が犠牲となった。
蜂起を率いた耿諄さんは激しい拷問を受け、無期懲役を宣告されたが、1946年に帰国が叶い、家族の元に帰った。しかし国民党軍の将校だったため、文化大革命では「反革命分子」として罵られ、虐待を受けた。文革が終息するまで耿諄さんの立場は回復しなかった。
ノンフィクション作家の石飛仁さんは、花岡受難者であり日本在住の劉智渠さん・李振平さんと共に、花岡事件を語り継ぐ活動と、鹿島建設に当時の賃金の支払いを求める活動を始めた。この活動を中国の報道で知った耿諄さんが劉智渠さんに連絡し、1985年に劉智渠さんは石飛さんと共に耿諄さんを訪れ再会。
石飛さんは耿諄さんの同意を得て、鹿島建設との交渉に臨んだ。この時、石飛さんが相談した弁護士が、新美隆氏、内田雅敏氏だった。
以降の詳しい経緯は端折るが、1989年に耿諄さんら受難者、弁護士、それに一橋大学の田中宏教授、華僑の林伯耀氏も加わり、鹿島建設に対し、謝罪、「花岡殉難烈士紀念館」の建設、賠償金を求める交渉を開始した。石飛さんは交渉継続を断念。賠償ではなく未払い賃金の支払いを求める石飛さんの方針とは異なるものだった。
1995年に耿諄さんが原告団長となり、新美隆氏、内田雅敏氏が弁護人となり、鹿島建設へ損害賠償請求を提訴。
1997年、東京地裁は原告の請求を却下したが、控訴審で東京高裁が和解を勧告し、調整が進んだ。和解を進めるため耿諄さんを説得しようとする弁護団に対し、耿諄さんは「賠償額は譲歩してもいい、紀念館は希望している、しかし謝罪は最も重要で譲歩できない」「裁判は負けよう!我々が歴史的に踏みとどまるなら、我々は道義の上では勝利したことになる」「必ず尊厳を守る」と、譲らなかった。
2000年11月29日に和解が成立したが、その「和解条項」は、鹿島建設の「法的責任は無い」という主張を、原告も認めたかのような文言であり、5億円という額も賠償金ではなく「信託金」だった。謝罪も賠償も拒否する鹿島の態度を、裁判所と弁護団が認めたのだ。
しかも同時に発表された鹿島建設のコメント(アーカイブ)は、謝罪の言葉は一切なく、自社の責任を全く認めないものだった。これを知った耿諄さんは怒りで卒倒したという。受難者を再び侮辱するような和解になってしまったのである。
詳しくは私のブログを参照願いたい。引用元は記してある。
花岡事件: 記憶の断片 (旧タイトル 不条理日記)
2010年に大館市に花岡平和記念館が完成した。私も訪れたことがあるがその展示内容は、もちろん受難者の苦しみを記しているが、「花岡和解は画期的なことだった」と称賛するものだ。弁護団や支援者の立場が反映されている。かつて受難者の納骨堂があった信正寺も近い。
毎年6月30日は大館市の主催で、市内の十瀬野公園墓地にて「中国人殉難者慰霊式」が行われている。

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