2026-07-30

花岡「和解」と私たち - 法務省が管轄する出入国管理体制下の外国人差別と抑圧の構造における日本人の加害者性に向き合いつつ、

花岡「和解」と私たち - 法務省が管轄する出入国管理体制下の外国人差別と抑圧の構造における日本人の加害者性に向き合いつつ、70年代から... | Facebook


法務省が管轄する出入国管理体制下の外国人差別と抑圧の構造における日本人の加害者性に向き合いつつ、70年代から台湾出身の天文学者である劉彩品さんの入管闘争の支援運動に参与されてきた美術家の内海信彦さんのこちらの投稿( https://www.facebook.com/share/p/1JbVP7JZHR/?mibextid=wwXIfr )のコメント欄に、鹿島花岡裁判の元支援者の田崎敏孝氏がまたしても花岡「和解」に関する「事情通」としてしゃしゃり出て、ぞんざい極まりない「解説」を垂れ流しています。田崎氏は、劉彩品さんの花岡「和解」批判の核心的な論点を完全に取り違えています。2006年4月25日に雑誌『前夜』の企画で、花岡「和解」批判の内容を掲載するという条件で、鄭栄桓さんによる劉彩品さんへのインタビューが劉さんのご自宅で行われました。そのインタビュー記録の中で(劉彩品「私は『反日』と言ってはばからないーー七〇年入管闘争の経験から」『季刊 前夜』2006年7月夏号)、劉彩品さんは花岡「和解」の問題点として、まず第一に「花岡の和解書の第一項目には鹿島の法的責任は認めないってある。 老人たちが和解書の内容を知った上で踏み切ったならしょうがないと思う。でも老人たちはそれを知らなかった。 老人たちが事前に見た中国語に訳された和解書は違う内容だった。 これが一番の問題なの。」(p.112)を挙げています。つまり、実際に結ばれることになった当の和解文書を弁護団が原告たちに事前に提示して正しく内容を説明した上で、了承を得るという当たり前の基本的手続きさえ踏まずに和解を結んだという、花岡和解をどう「評価」するかなどという以前の問題が指摘・批判されているのです。田崎氏は「劉彩品さんが“中国人の立場で”反対される気持ちは、よく分かります」などと上から目線で述べていますが、このような最低限の義務さえ果たさない背任(背信)行為は戦後補償運動に限らず、一般社会における信任関係に基づくあらゆる専門家-非専門家の間の関係で決して許されないことです。しかも代理人弁護士は、原告たちの根本要求さえも鹿島に売り渡す内容の「和解条項」第一項の「但し書き」の追加を原告に無断で許しながら、鹿島との交渉のありのままの実情・実態を原告たちに伝えずに、逆に原告たちには「鹿島は罪行を認め、再び謝罪を表明し補償すると言っている」と伝え、和解の最終案が原告の基本要求を満たすものであるかのように原告たちを瞞着して、「和解」達成のお祝いの書の揮毫を耿醇さんに求め、かつ原告全員にそこに署名させ、和解成立当日の記者会見でその書を掲げて和解の「合意」を演出したのです。何から何まであり得ない不義不正を重ねていると言えます。田崎氏は「私も、劉彩品さんが思われることを新美隆弁護士に直接尋ねたのです。新美さんは「和解条項の第1項として書かれていることが全てだ」という返事(詳しい解説もあり)をもらい納得したのでした。」と述べていますが、和解条項の第一項に関する新美隆の「説明」や「解釈」など後付けの支離滅裂なものでしかありませんし、そもそも事前に「和解条項」を原告たちに書面の形で提示もせず、「和解勧告書」から重大な変更のあった「和解条項」の第一項の変更点に関する「同意」を得るための透明性のある手続きを欠いたまま和解を成立させるという原告に対する重大な背任行為から責任逃れをし続けています。まさに上記で劉彩品さんが第一に問題視している弁護団の原告に対する根本的な裏切り行為について、代理人弁護士は故・新美隆氏にしろ内田雅敏氏にしろ何一つ説明責任を果たしていないのです。
なお、田崎氏が書いているように劉彩品さんは「花岡裁判が始まる前から関わっていた」方で、花岡事件の解決に向けて提訴前から尽力し、原告たちに寄り添ってこられた方です。墨面氏やおかだだい氏や青木茂氏や最近では池田香代子氏の番組の中で安田浩一氏がそれこそ馬鹿の一つ覚えのように「和解批判は、運動のために汗を掻いたこともない、事情を何も知らない外野からの揚げ足取りや非難・攻撃に過ぎない」と判で捺したように同じ言葉を繰り返しているのが、いかに空虚な発言であるかを示しています。他にもいくらでも例は挙げられます。要するに運動内からの批判を封じ込めて排除するための工作に過ぎません。劉さんのインタビューのなかで語られているように、劉彩品さんたちが和解を批判するととたんに「反日」呼ばわりする日本人支援者たちの姿もさもありなんで、これも運動内排除の論理と言えます。和解批判を批判する者たちは、こんな「たわごと」をいつまで繰り返すつもりなのでしょうか。
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内海信彦さんの投稿に対する田崎敏孝氏のコメントは以下の通り。
『私は、鹿島・花岡裁判に日本人支援者として深く関わりましたので、事情はほぼ分かっています。
劉彩品さんには、花岡裁判の提訴の前に、全人代の一人の代表として全人代の大会で、当時の銭其琛・外交部長(外務大臣)に「中国政府は日本政府に戦争賠償を放棄したが、中国人の個人が日本に対して持っている戦争賠償の請求権は現在も存続しているか」という質問をしてもらい、銭其琛・外交部長から「中国政府は、個人が持つ請求権を放棄することは出来ないので、当然個人請求権は存続している」との回答を得ました。そこから花岡裁判の準備が進められました。
劉彩品さんには、花岡裁判が始まる前から関わっていただいていたのです。
ただ残念ながら、和解成立時には和解内容が不十分だとのことで、和解に反対の立場を取られました。
私も劉彩品さんが“中国人の立場で”反対される気持ちは、よく分かります。私も、劉彩品さんが思われることを新美隆弁護士に直接尋ねたのです。新美さんは「和解条項の第1項として書かれていることが全てだ」という返事(詳しい解説もあり)をもらい納得したのでした。
劉彩品さんが日本に戻られた後、花岡裁判を支援する日本人メンバーを自宅に招待され、餃子を作って皆で頂いたことも思い出されます。』
#季刊前夜 #劉彩品 #花岡和解 #入管闘争
See translation

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법무성이 관할하는 출입국 관리 체제하의 외국인 차별과 억압의 구조에 있어서의 일본인의 가해자성에 마주하면서, 70년대부터 대만 출신의 천문학자인 리채품씨의 입관 투쟁의 지원 운동에 참가해 온 미술가의 내해 신히코씨의 이쪽의 투고( https://www.facebook.com/share/p/1JbVP7JZHR/?mibextid=wwXIfr )의 코멘트란에, 카시마 하나오카 재판의 전 지원자인 타자키 토시타카씨가 다시 한번 하나오카 「화해」에 관한 「사정통」으로서 딸꾹 나오고, 엄청나게 극히 없는 「해설」. 타사키 씨는 리우 사야카 씨의 하나오카 '화해' 비판의 핵심적인 논점을 완전히 다루고 있습니다. 2006년 4월 25일에 잡지 「전야」의 기획에서, 하나오카 「화해」비판의 내용을 게재한다고 하는 조건으로, 정영환씨에 의한 유채품씨에의 인터뷰가 리우씨의 자택에서 행해졌습니다. 그 인터뷰 기록 속에서(유채품 「나는 『반일』이라고 해서는 안 된다――70년 입관 투쟁의 경험으로부터」 『계간 전야』 2006년 7월 여름호), 유채품씨는 하나오카 「화해」의 문제점으로서, 우선 「하나오카의 화해서의 제1항목에는 카시마 노인들이 화해서의 내용을 알고 나서 밟아야 한다고 생각한다. 하지만 노인들은 그것을 알지 못했다. 즉, 실제로 연결되게 된 당의 화해문서를 변호단이 원고들에게 사전에 제시하고 제대로 내용을 설명한 후, 승낙을 얻는 당연한 기본적 절차조차 밟지 않고 화해를 맺었다는 하나오카 화해를 어떻게 '평가'할 것인가 등의 이전 문제가 지적·비판되고 있는 것입니다. 타자키씨는 “리채품씨가 “중국인의 입장에서” 반대되는 기분은, 잘 알 수 있습니다”등이라고 위로부터 시선으로 말하고 있습니다만, 이러한 최저한의 의무조차 완수하지 않는 배임(배신) 행위는 전후 보상 운동에 한정되지 않고, 일반 사회에 있어서의 신임 관계에 근거하는 모든 전문가-비전문가의. 게다가 대리인 변호사는 원고들의 근본 요구조차도 가시마에 팔아주는 내용의 '화해조항' 제1항의 '단서'의 추가를 원고에 무단으로 용서하면서 가시마와의 협상이 있는 그대로의 실정·실태를 원고들에게 전하지 않고, 재차 원고들에게는 '가시마는 죄행을 인정 라고 하고 있다”고 전해, 화해의 최종안이 원고의 기본 요구를 채우는 것인 것처럼 원고들을 명착해, “화해” 달성의 축하의 책의 휘호를 耿醇씨에게 요구하고, 또한 원고 전원에게 거기에 서명시켜, 화해 성립 당일의 기자 회견으로 그 책을 내걸고. 무엇부터 아무것도 있을 수 없는 불의부정을 거듭하고 있다고 말할 수 있습니다. 타사키씨는 「나도, 리우 사야카씨가 생각되는 것을 신미 다카시 변호사에게 직접 물었습니다.신미씨는 「화해 조항의 제1항으로서 쓰여져 있는 것이 전부다」라고 하는 회답(자세한 해설도 있어)을 받아 납득한 것이었습니다. 」라고 말하고 있습니다만, 화해 조항의 제1항에 관한 신미 다카시의 「설명」이나 「해석」등 후부의 지리 멸열인 것 밖에 없고, 원래 사전에 「화해 조항」을 원고들에게 서면의 형태로 제시도 하지 않고, 「화해 권고서 」에서 중대한 변경이 있던 「화해조항」의 제1항의 변경점에 관한 「동의」를 얻기 위한 투명성이 있는 수속을 결여한 채 화해를 성립시킨다고 하는 원고에 대한 중대한 배임 행위로부터 책임 피해를 계속하고 있습니다. 바로 위에서 유채품씨가 제일에 문제시하고 있는 변호단의 원고에 대한 근본적인 배신 행위에 대해서, 대리인 변호사는 고·신미 다카시씨에게 해 내치 마사토시씨에게 해도 하나 하나 설명 책임을 다하고 있지 않습니다.
덧붙여 타자키씨가 쓰고 있는 것처럼 리우 사야카씨는 “하나오카 재판이 시작되기 전부터 관련되어 있었다” 쪽으로, 하나오카 사건의 해결을 향해 제소전부터 진력해, 원고들에게 다가와 온 분입니다. 스미 면, 오카다이 씨, 아오키 시게루, 최근에는 이케다 고요코 씨의 프로그램 중 야스다 코이치 씨가 그야말로 바보 중 하나 기억처럼 "화해 비판은 운동을 위해 땀을 긁힌 적도 없다 , 사정을 아무것도 모르는 외야로부터의 튀김 발걸음이나 비난·공격에 지나지 않는다”라고 판으로 날린 것처럼 같은 말을 반복하고 있는 것이, 어떻게 공허한 발언인지를 나타내고 있습니다. 그 밖에도 얼마든지 예를 들 수 있습니다. 요컨대 운동내로부터의 비판을 봉쇄하고 배제하기 위한 공작에 지나지 않습니다. 리우씨의 인터뷰 속에서 말해진 것처럼, 유채품들이 화해를 비판하자면 '반일'이라고 불리는 일본인 지원자들의 모습도 많기 때문에 이것도 운동내 배제의 논리라고 할 수 있습니다. 화해 비판을 비판하는 자들은 이런 '똥'을 언제까지 반복할 것인가?
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우치 카이 노부히코 씨의 투고에 대한 타사키 토시 타카 씨의 코멘트는 다음과 같습니다.
“나는, 카시마·하나오카 재판에 일본인 지원자로서 깊이 관여했으므로, 사정은 거의 알고 있습니다.
유채품 씨는 하나오카 재판의 제소 전에 전인대 중 ​​한 명의 대표로서 전인대 대회에서 당시 목전·외교부장(외무부 장관)에게 “중국 정부는 일본 정부에 전쟁 배상을 포기했지만 중국인 개인이 일본에 대해 가지고 있다. 전쟁배상의 청구권은 현재도 존속하고 있는가?라는 질문을 받고, 돈케이·외교부장으로부터 “중국 정부는 개인이 가지는 청구권을 포기할 수 없기 때문에 당연히 개인 청구권은 존속하고 있다”는 답변을 얻었습니다. 거기에서 하나오카 재판의 준비가 진행되었습니다.
유채품 씨는 하나오카 재판이 시작되기 전부터 관여해 주셨습니다.
단지 불행히도, 화해 성립시에는 화해 내용이 불충분하다는 것으로, 화해에 반대의 입장을 취할 수 있었습니다.
나도 유채품씨가 “중국인의 입장에서” 반대되는 기분은, 잘 알 수 있습니다. 저도 리우 아야카 씨가 생각하는 것을 신미 다카시 변호사에게 직접 물었습니다. 신미씨는 「화해 조항의 제1항으로서 쓰여져 있는 것이 전부다」라고 하는 회답(자세한 해설도 있어)을 받아 납득한 것이었습니다.
유채품씨가 일본으로 돌아온 후, 하나오카 재판을 지원하는 일본인 멤버를 자택에 초대되어, 만두를 만들어 모두로 받은 것도 생각나게 됩니다. 』
#계간전야  #리채채 #  하나  오카 화해
See translation
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이 사진은 재일 대만인 천문학자 류사이힌(劉彩品)의 인터뷰 기사를 담은 일본어 신문 또는 잡지 지면입니다. [1]
  • 인물 소개: 1936년 대만 출생으로 도쿄대에서 천문학을 전공한 천문학자 류사이힌의 인터뷰입니다 [*].
  • 주요 내용: 1970년대 재류 자격 취득 투쟁 및 '반일'과 관련된 경험, 대만·중국과의 역사적 배경을 다루고 있습니다 [*].
  • 기사 정보: 2006년 4월 25일 인터뷰로 표기되어 있으며, 정영환(鄭榮桓)이 인터뷰를 진행했습니다
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전 ○년, 대만으로부터의 유학생이었던 유채품씨는, 국민 국민당 정부의 여권 없이의 재류 허가를 신청했다. 극형의 대표성을 인정하지 않고 '중국 중화인민공화국'이라는 세워진 대만으로의 강제송환을 베팅한 입관투쟁조차, 3년간 무조건 재류를 획득하기에 이른다. 현재 '반설'이라는 명목하에 입관 체제의 재편·강화가 세계적으로 되어 있어 2006년 5월 17일에 성립한 개정 입관법 일본에 입국하는 16세 이상의 외국인으로부터 강제적으로 지문이나 등의 생체정보를 찾는 것이 정해졌다. 이러한 위기를 역사적으로 검증하기 위해, 우리는 이번에, 리우씨 소입관 투쟁의 경험과 그것을 지지한 사상적 배경, 그 후의 생활이나 하나오카 사건에의 관계 등에 대해 이야기를 들었다
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「馬賊」のひいおじいさん
鄭栄植 劉さんは一九三六年十一月に台湾でお生まれですね。
当時の台湾は日本の植民地統治下にあったわけですが、その頃のお話から聞かせてください。
劉彩品 私の母のおじいさんはね、実は日本が入る時に馬賊と
して処刑されたの。その話を聞いた時は、おかしいな、って思ってた。馬賊って普通金や物を盗むイメージがあるでしょ。
でも、愛知の三ヶ根山にある「殉国七士廟」〔東京裁判のA級戦
犯七人の墓」に連れて行かれたことがあって、七人の他にもい
ろんなお墓がある。そこに小さく「馬賊に殺された」って書い
てあった。「あー、そうか、馬賊っていうのは、日本軍に抵抗
していたことを言うんだな」って。ようやく自分のひいおじい
さんが馬賊として絞首刑にされた意味がわかったの。それも九
年代に入ってから。
みんなはっきりと抗日とかっていうかたちじゃないんだけど
いたの。でも彼は金持ちだから日本人は捕まえない。だけどしょっちゅう憲兵が来ていた。私も憶えているよ、憲兵が来
ね。私の四番目のおじさんは金を掘りあてたうえに鉱山も持っていて「台湾の石炭王」と呼ばれているんで、この人はやがて国民党時代に十年牢屋に入るんだけど、昔日本人にも反抗してて、彼をいじめるんじゃなくて、一番上のおじさんをいじめるの。憲兵が来ると、もう家じゅう怖がってさ。上のおじさんが
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ひざまずいてるのが窓の外から見えるの。私が五つか六つの時
だよ。本当によく憶えてる。憲兵の服の色までね。今の台湾の金美齢たちがなんで日本の植民地が良かったって言うのか私にはわからないよ。私たちにとっては屈辱の思い出しかない時代なのに・・・・・・。
母と天文
鄭劉さんご自身はどんな子どもだったんですか?
劉私は末っ子でふたりの姉はそれぞれ十四、十二歳離れていたからとてもかわいがってくれた。姉の友だちが言うには、
はいつも、ただこうじーっと立っていて、こう目を大きくして
睨んで見てるって。私はぜんぜん記憶ないけどね。
鄭ご両親のお仕事ですが、インタビュー 「わたしが過した台
湾」(「日本人のあなたと中国人のわたし」四四頁以下に収録)には父
親は貿易商のようなことをやっていたと・・・・・・。
劉父はあんまり好きじゃないんだ、母は大好きだけど
(笑)。母は山の上の人だからぜんぜん無学で文字がわからな
かったけど、節季、たとえば冬至とかを良く知っている人だっ
た。私たちの住んでいた嘉義 (カギ)というところは当時何もなくて、夜になると真暗になる。夜は私と母親でよく外に出て
ね。二人で星空を見てね、母は鬼のはなしをしてくれた。
ちょっとロマンチックよね。それで彼女はよく、「明日雨ふる
よ」って言うの。そうすると本当に降る。
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そういう経験が天文学を志すきっかけになったんですか?
かさ劉いやいやそこから天文学にいったんじゃないけど。月の周
りの量を見て、経験から私に言うの。今年の冬至はいついつだって。母は陰暦でものを考えてたのね。私が高校の時、陽曆ならば同じ日だから便利だよって教えたら、彼女ようやく納得した。
鄭陽暦は日本時代からですよね。
劉そうだと思う。でも彼女たちは陰暦で暮らしていたしほとんど中国式の服を着ていたの。日本は植民地にしたけど、庶民の生活や思考は変えられなかったね。知識人は別だけど。
彼女は貧しい人たちにもすごく優しい人だった。家族の子ど
もたちは彼女を阿母 (台湾語の母親)と呼んでた。痛心(痛みを知る心)がある人とか、両親を亡くしたいとこたちを自分の子よりも可愛がってたから。当時は、貧しい家から幼い女の子ステムがあった。
をもらってきて育てて、大きくなったらそこの家で働かせるシ
鄭親戚からもらってくるんですか?
劉違うのよ。買ってきてその子を働かせるわけ。私のお祖父
さんの家は金持ちだったから、小間づかいとして使うわけね。
中にはひどい扱いをうけた子もいて、自殺した子もいたそうなんだけど、私の母親はこういう子に対してとってもやさしかった。私が三十八年ぶりに台湾帰った時、その人たちが寄ってき
て、私がすごく母親に似ているってみんなわーわー泣いた。母
==
親を思い出したって。
鄭比較的裕福だったわけですね。
劉そうですね。台湾の生活習慣では冬至のときに動物の骨を
煮だしたものなんかが必要になるんだけど、祖父はそれを高砂族から買って、都会にもっていって売っていたんですよ。でも高砂族に払うのはすごく安い、現物支給だと思うの。たとえ
ば、母たちが都会から布を買ってきて服を作ったものをあげた
りね。あの頃は山にいるとお金いらないみたいな社会なのよ。
旧正月になると高砂族の人たちが山を下りて来るの。私のお祖
父さんはその中のある部族の娘を嫁にしているの。
鄭劉さんのおばあさんですか?
劉おばあちゃんじゃないんだけど。その人がいるから高砂族
の人たちが信用したんじゃないかな。その人はほんとうに働き
者なの。小ちゃな人だけど。このおばあちゃんと一緒に住んだことがあるけど、彼女にブドウ糖の注射してやったんだけど入
と、彼女、籠みたいなのを背負って山に入るの。それで春になると出てくる。籠一杯にきくらげを背負ってね。だから私、小
らないのね。もう血管が固くて。働き者だったから。冬になるさい頃から搾取の関係みてるよ。
マカオで八・一五を迎える
鄭その後、一度大陸へ行ってますね。 かってますね。
劉父親がそこにいたからね。あっちこっち行って走り回っ
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て、そういう人なのよ。でも何やってるかわからない(笑)。
鄭すると、日本からの解放は大陸で迎えるわけですね。
劉大陸と言ったって、私たちが行ったのはマカオ。マカオ
は、解放の夜一晩中ビビンバンバン、爆竹やってたの。次の朝、通りが真っ赤にそまっていた。とにかく日本が負けたって。姉なんかはね、実は四十何年か頃に南京大虐殺知ってたって言うんだけど。
鄭四六年に台湾に戻ると次の年に、二・二八事件ですね。印象に残っていることはありますか?
劉大学生の兄やいとこたちが大学に行かずにマージャンして
1 たことぐらいかな。台北の家に大勢集まってね。それから台湾語で「私は謝雪紅です」っていう声を聞いたの。ラジオで。彼女たちのグループが占拠してたのね。それがすごく印象として残っている。
日本へ
鄭 五六年に日本に行くことになったのはなぜですか?
劉私が日本へ来たのは、何も勉強のためじゃない。さっきの
四番目のおじさんが国民党時代に共産党系を支援したと言われて捕まって一度は死刑が決まったの。でもおじさんはなんとか助かったの。台湾で義美っていう、美味しいお菓子屋があって、緑豆で作ったお菓子が有名なんだけど、これを国民党に二イーメイ
箱渡すわけ。上の箱にはお菓子を入れて、下の箱には金の延べ
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棒。この金の延べ棒でおじさんは助かったの。
おじさんが逮捕された後、父は危険を感じて香港に逃げて、
その後日本へ行った。それで父が淋しくて来い来いって言うから、日本に行くことになった。それで日本で勉強したの。でも父はすぐ帰ったの。おじさんは三、四年だけ牢屋に入っていた
けど、その後十六、七年はずっと病院で囚われていたの。
鄭日本に行って一年で東京大学に入学されますが、日本語はご自分で学ばれたんですか?
劉あのね、植民地化の影響もあって、日本語は家に帰ると姉
たちがペチャクチャしゃべっていたから小ちゃい頃から聞いていた。もちろん一生懸命勉強もしたけどね。
鄭東大での生活で印象に残っていることは?
劉当時の東大生、みんなえらく親切だったな。そういえば、
私たちと同じ年に樺美智子さんがいた。彼女は文Ⅱなの。なんで私が彼女を知っているかというとね、当時、女子学生が少なかったから体育だけ一緒にやってたの。私なんか学校って勉強するところだと思ってたけど、彼女は体育の時間でもいつもオルグしてるの。一生懸命みんな説得して、「いついつストライキが起きる」なんて。ものすごい感心した。
木村博氏との結婚
鄭六五年十一月に木村さんと結婚されたんですね。 劉
一応そういうことになっているね。私は、婚姻届なんか出

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さなくていいと思ってたけど、穂積五一先生っていうのがい くていい
て、会うといつも出したのか、出したのかって言うから、喜ばせようと思って・・・・・・。
穂積さんとはどこで知り合ったのですか?
最初は彼の自宅。彼は、人間味があるっていうのかな、わ
ざとらしくなくて、非常に真心込めて私たちと付き合ってくれた。そういうところにすごく惹かれたな。
鄭いろいろな留学生の身分保証を穂積さんがしていた。
劉そうそう、彼が保証人になってね。だから私、木村と結婚
届出をしなくたってぜんぜん困らない(笑)。もうすごい保証人の数よ。みんな困ると穂積先生のところにかけこんでね。な
かにはそのために養子になった人もいた。
旅券更新拒否
鄭入管の話に入りたいのですが、整理すると、外国人が日本に入るにあたっては、本国政府が発行する旅券と、日本政府、
なかでも法務省から出る在留資格と、外務省から出るビザがあ
りますね。それぞれが関連しているのでややこしいのですが、 劉さんが五六年に渡日した時は中華民国の旅券で入ってきたわけですよね。
劉そう。あの時、国民党の大使館は大学生をコントロールし
ようとしていて、毎年旅券を延長しなくちゃいけなかったの。
しかもひどいのがね、必ず保証人を立てなくちゃいけない。あ
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なたが悪いことをしたら、あなたの保証人も罪になるよ、というようなシステムになっている。
鄭 国民党は旅券の更新でもって国外の留学生を統制していたわけですね。在留資格はどうなっていましたか? 当時の入管令では戦前から日本にいる朝鮮人・台湾人以外の外国人の在留資格は、第四条一項記載の十六種がありますが。
劉在留資格は、木村と結婚したこともあって六七年からは三
年の在留期間で取れたわけ。それまでは一年切り替え。私たち
の時代は、学生も一年ずつで保証人を揃えて毎年、申請しなけ
ればならなかった。
鄭それまで劉さんの在留資格は「留学」(四条一項六号)だったんですか?
劉いや、四―――六は学生だから、結婚してからは「特別在留」(四——一——十六―三)だね。
「法務大臣が特に在留を認める者」という扱いですね。
劉そう。それで七○年四月六日に、四月三十日が期限だった在留資格の更新と永住権申請のために品川の東京入管事務所へ行った。旅券は六八年以降無効のままで在留資格を申請したの。
鄭なぜ六八年以降、旅券を無効のままにしておいたのですか?
劉いや、別に。だって、滞在できるのに。もともと大使館に行くのが面倒くさく思っていたから。計画的でもないの。ただ、まあ大丈夫だろう、なんてくらい。当時すでに日本国籍を
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持つ子どもが二人もいたんだよ(笑)。ただし、三年ビザを持
つ私が、一年ビザしか持たない留学生に対して、思想・信条は別として、手続上、旅券のために保証人を頼むわけにはいかないということはあったね。
鄭劉さんが六月十一日に法務省に提出した「理由書」(「日本人のあなたと中国人のわたし」四一二六頁)には、「第一に私は分裂
国家のうち、それが一方を選択するという重大なこと」を「旅
券申請は簡単なことだから、ともかく申請すればいいではないかと言われても、私はハイそうですかといってそれに応ずるわ
けにはいきません」、第二に「旅券申請のために国府大使館に
行くことに恐怖を感じています」と書かれていますね。
劉最初は恐怖なんて感じていなかったのよね(笑)。私が初
めてあんた(国府大使館)のパスポート要らないから滞在した
いって言った。でもその後、「吉田書筒」というのがあって、
そういう人は送還するという規定があることを知ってね。初め
て恐怖を感じた。でも、私を送還してみなさい、やるならやゃれ
ば、と。あの頃、東大闘争があって、みんなが正直になろうと
いう気持ちがあったのよ。だから、私も自分の気持ちに正直に
なりたいと。
鄭 国民党に対する批判意識はあっ
たのですか?
劉国民党はものすごく嫌いだった
日本人のあななら市叫人のわた
よ。でも、中国共産党が好きという
=
よりは、社会主義に憧れていたよな。私の場合はね、やっぱり
なりたいと思う気持ちがあった。だけど本当はなりきれない
自分の家庭がイヤだったから、虐げられている人たちの味方にの、自分の生い立ちとか、いろいろあるから。でも、なりたいのよ。労働者と同じレベルに立ってね。東大闘争でも「自己否定」とかいっているのを聞いていたからね。自分に正直になりたいという気持ちもあった。「あなたは何のために日本の最高にも言うんだけれども、あなたたちが一生懸命やっている時、
学府で勉強しているんですか?」とかね。私、全共闘の人たち
私はただ眺めていたんだ、すごいなって。外国人はデモなんか
行けないからね。でもすごく影響を受けた。
劉連仁と周恩来
鄭社会主義について考えるようになったのはいつ頃ですか。
劉私にとって大きなきっかけがあった。私が日本に来たのが五六年だけど、五八年に劉連仁 (リュウ・リェンリェン)っていう人が出てきたの。 *2
鄭中国から強制連行されて北海道の炭鉱で働かされ、その苛
酷な状態から脱走して十三年もの間、北海道山中に身をひそめ
ていた人ですね。 劉そう。彼が出た時ね、日本政府は密航者として取り締まろ
うとした。台湾政府は黙っているんだよ。だけど周恩来はひとこと言ったの。「許さないよ。もし彼を犯罪者として扱ったら
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제시된 이미지는 일본 통치 시절 대만에서 '마적(馬賊)'으로 처형당했다고 전해지는 증조부에 대한 회고담과 그 역사적 배경을 담은 일본어 수기/인터뷰 내용입니다. 주요 내용은 다음과 같습니다.
  • 증조부의 처형과 인식: 1936년생인 화자의 어머니의 할아버지가 일본 통치 시기 마적으로 몰려 처형당한 사연과, 일반적인 마적에 대한 이미지와 실제 역사적 상황 사이의 괴리를 다루고 있습니다.
  • 미카와산(三ヶ根山)의 순국칠사묘: 아이치현 미카와산에 위치한 '순국칠사묘'(도쿄재판의 A급 전범 7인의 묘) 부근에 화자의 증조부를 포함한 이들이 '마적에게 살해당했다' 또는 일본군에 저항했다는 비석/기록이 작게 남아 있는 것을 발견한 일화가 적혀 있습니다.
  • 당시 대만의 사회상: 일제강점기 대만에서 광산과 석탄 사업을 하던 친척들의 일화, 일본군(헌병)의 억압과 이에 대한 저항, 부유층에 대한 선택적 단속 등 당시의 삼엄했던 사회 분위기를 증언하고 있습니다.
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  • 주요 내용: 헌병의 군복 색깔과 곤욕스러웠던 시절에 대한 기억, 막내로서 언니들과 부모님 밑에서 자란 유년 시절, 그리고 어머니와 함께 밤하늘을 보며 나눈 이야기 등이 포함되어 있습니다.
  • 등장 인물 및 배경: '류(劉)씨'라는 인터뷰이와 어머니, 그리고 대만의 산간 지역인 '자이(嘉義)' 등에서의 생활 경험이 언급됩니다.
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  • 음력 생활과 일본 식민지 시대: 대만인들이 일제강점기 속에서도 음력을 기준으로 생활하며 중국식 전통을 유지했던 배경과 당시 서민들의 생활상을 다루고 있습니다.
  • ‘아모(阿母, 대만어 어미/양어머니)’ 제도: 가난한 집의 어린아이를 데려다 키우다 나중에 일꾼으로 부리는 당시의 사회적 관행과, 그 속에서도 따뜻하게 아이를 돌보던 정서적 교류를 언급합니다.
  • 어머니와의 닮은 점: 화자가 38년 만에 대만에 돌아갔을 때 주변 사람들이 자신에게서 어머니의 모습을 발견하고 눈물 흘렸던 일화를 이야기합니다.
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  • 부유했던 배경과 대만 원주민(고산족)과의 교역: 과거 조부모 시절 대만에서 동물의 뼈를 끓인 것 등을 고산족에게 사서 도시로 가져가 팔았으며, 도시에서 산 직물을 고산족에게 주어 옷을 만들게 하는 등 물물교환 중심의 경제 활동이 이루어졌음을 언급합니다.
  • 류(劉) 씨 집안과 고산족 할머니의 인연: 류 씨의 할머니가 아니며 그와 함께 일했던 고산족 출신의 나이 많은 여인에 대한 기억으로, 작고 단단한 체구로 무거운 짐을 지고 산을 오르내리며 억척스럽게 일했던 삶의 모습이 회고됩니다.
  • 마카오에서의 생활: 이후 마카오로 이동하여 잠시 대륙에 다녀오기도 하며 이곳저곳을 바쁘게 오갔던 과거의 행적이 이어집니다.
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    • 해방 당시의 기억: 대만인들이 일본의 패전과 대륙 해방 시기에 겪은 혼란스러운 상황과 마카오에서의 경험을 증언합니다.
    • 2·28 사건과 대학생들: 타이베이의 집에서 대학생 형과 친구들이 모여 마작을 하던 중 2·28 사건 시기의 상황과 라디오를 통해 들었던 목소리를 인상 깊게 회상합니다.
    • 일본으로 건너간 배경: 공부 목적이 아니라 삼촌이 국민당 시대에 공산당 계열을 지원했다는 혐의로 사형 선고를 받았다가 구출된 일화와, 녹두 과자를 팔던 대만의 사연 및 국민당에 대한 기억을 다룹니다.
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  • 가족의 과거와 일본행: 금괴 사건으로 삼촌이 체포된 후, 아버지는 위험을 느껴 홍콩으로 도피했습니다. 이후 아버지가 일본으로 오라고 하여 일본에서 공부하게 되었습니다. 아버지는 삼촌이 감옥에 간 뒤 곧 돌아가셨고, 삼촌은 그 후 16~17년 동안 병원에 갇혀 있었습니다.
  • 일본어 습득 배경: 일본에 간 지 1년 만에 도쿄대학에 입학했는데, 일본어는 독학한 것인지 묻는 질문에 대한 답변입니다. 식민지화의 영향으로 집에 돌아오면 언니(누나)들이 조잘조잘 이야기했기 때문에 어릴 때부터 귀로 들으며 자랐다고 합니다. 물론 일본에 와서 필사적으로 공부도 했다고 덧붙입니다.
  • 도쿄대 시절의 기억: 당시 도쿄대 학생들은 모두 무척 친절했습니다. 그러고 보니 같은 해에 '공미지자(樺美智子, 칸바 미치코)'라는 여학생이 있었습니다. 그녀는 문과2류였으며 당시 여학생이 적어 그녀를 알고 있었습니다. 당시 자신은 학교에서 공부만 하려고 했으나, 그녀는 체육 시간에도 늘 오르굴(오르골)을 틀어놓고 열심히 모두를 설득하며 "언제언제 스트라이크(동맹휴학)가 일어난다"고 말해 무척 감탄했다고 회상합니다.
  • 기무라 씨와의 결혼: 소제목으로 '기무라 히로시 씨와의 결혼(木村博氏との結婚)'이 적혀 있으며, 1965년 11월에 기무라 씨와 결혼한 것이 맞는지 확인하는 질문에 "일단 그렇게 되어 있다. 나는 혼인신고서 같은 걸 제출..."이라며 대화가 이어집니다.
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  • 인물과 만남: 穗積五一라는 인물의 집에 드나들며 알게 되었고, 그가 유학생의 신원 보증을 서거나 양자를 들인 사연 등이 언급됩니다.
  • 여권갱신거부(旅券更新拒否): 중화민국 여권으로 일본에 입국한 이후 매년 여권을 연장해야 했으며, 보증인을 세워야 했던 번거롭고 힘든 상황을 이야기하고 있습니다.
  • 체류 자격과 비자: 일본 정부가 발행하는 여권(여행권)과 비자(체류 자격), 외무성·법무성 간의 관계에 대한 복잡한 행정적 배경이 대화 속에 등장합니다.

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당신이 나쁜 짓을 하면 당신의 보증인도 죄가 된다는 식의 시스템으로 되어 있다.
국민당은 여권 갱신을 통해 국외의 유학생을 통제하고 있었던 셈이군요. 재류자격은 어떻게 되어 있었습니까? 당시의 입관령(출입국관리령)에서는 전전(戰前)부터 일본에 있던 조선인·대만인 이외의 외국인의 재류자격은 제4조 제1항에 기재된 16가지 종류가 있습니다만.
재류자격은 기무라와 결혼한 것도 있어서 67년부터는 3년짜리 재류기간을 받을 수 있었지. 그전까지는 1년마다 갱신. 우리 시대에는 학생도 1년마다 보증인을 세워서 매년 신청해야만 했다.
그렇다면 유 선생님의 재류자격은 '유학'(제4조 제1항 제6호)이었던 건가요?
아니, 4-1-16은 학생이니까, 결혼하고 나서는 '특별재류'(4-1-16-3)라네.
"법무대신이 특별히 재류를 인정하는 자"라는 취급이군요.
그래. 그래서 70년 4월 6일에, 4월 30일이 기한이었던 재류자격 갱신과 영주권 신청을 위해 시나가와의 도쿄 입국관리사무소에 갔다네. 여권은 68년 이후로 무효인 상태로 재류자격을 신청한 거지.
왜 68년 이후로 여권을 무효인 채로 두셨던 겁니까?
아니, 별로. 왜냐하면 체류할 수 있으니까. 원래 대사관에 가는 게 귀찮다고 생각했거든. 계획적인 것도 아니야. '다만 뭐 어떻게든 되겠지'라는 정도였지. 당시 이미 일본 국적을
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가진 아이가 둘이 있었어(웃음). 다만, 3년 비자를 가진 제가, 1년 비자밖에 갖고 있지 않은 유학생에 대해서, 사상·신조는 별로, 수속상, 여권을 위해서 보증인을 부탁할 수는 없다는 것은 있었군요. 정리씨가 6월 11일 법무성에 제출한 '이유서'('일본인의 너와 중국인의 나' 4126페이지)에는 '첫째로 나는 분열 국가 중 그것이 하나를 선택한다는 중대한 일'을 '여행 티켓 신청은 간단하기 때문에, 어쨌든 신청하면 좋지 않을까라고 해도, 나는 하이 그렇다고 해도 그것에 응할 수는 없습니다.” 둘째로 “여권 신청을 위해 국부 대사관에 가는 것에 공포를 느끼고 있습니다”라고 쓰여 있네요. 리우 처음에는 공포라는 느낌이 없었지 (웃음). 내가 처음 너(국부대사관)의 여권이 필요 없기 때문에 머물고 싶다고 말했다. 그렇지만 그 후, 「요시다 서통」이라고 하는 것이 있고, 그러한 사람은 송환한다고 하는 규정이 있는 것을 알고. 처음으로 공포를 느꼈다. 그렇지만, 나를 송환해 봐, 한다면 하면, 라고. 그 무렵 동대투쟁이 있었고 모두가 솔직해지려는 마음이 있었어. 그러니까, 나도 자신의 기분에 정직하게 되고 싶다고. 정 국민당에 대한 비판 의식은 있었습니까? 하지만 중국 공산당을 좋아한다는
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보다는, 사회주의에 동경하고 있었어. 제 경우에는, 역시 되고 싶은 마음이 있었다. 하지만 진짜는 될 수 없다 자신의 가정이 싫었기 때문에, 학대받고 있는 사람들의 아군에게의, 자신의 태생이라든지, 여러가지 있으니까. 하지만 되고 싶어. 노동자와 같은 수준에 서서. 동대투쟁에서도 '자기부정'이라고 말하고 있는 것을 듣고 있었으니까. 자신에게 솔직해지고 싶다는 마음도 있었다. "당신은 무엇을 위해서 일본의 최고라고도 하지만, 당신들이 열심히 하고 있을 때, 학부에서 공부하고 있습니까?" 나, 전공투의 사람들 나는 단지 바라보고 있었어, 대단해. 외국인은 데모 따위 갈 수 없으니까. 하지만 굉장히 영향을 받았다. 유련인과 주은래 정 사회주의에 대해 생각하게 된 것은 언제쯤입니까? 리우 나에게 큰 계기가 있었다. 제가 일본에 온 것이 56년이지만, 58년에 류련인(류 련련)이라는 사람이 나왔다. *2 정중국에서 강제연행되어 홋카이도의 탄광에서 일해져 그 가혹한 상태에서 탈주해 13년간 홋카이도 산속에 몸을 찌푸리고 있던 사람이군요. 리우 그래. 그가 나왔을 때 일본 정부는 밀항자로 단속하려고 했다. 대만 정부는 침묵하고 있어. 하지만 주은래는 한마디 말했어. " 용서하지 마라. 만약 그를 범죄자로 취급하면






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대만의 한 여성의 기억
동아시아 문사철 네트워크편 「고바야시 요시노리<대만론>을 넘어」   
작품사, 2001년 4월 간소수
오타 마사쿠니

 30년 전의 옛날 유채품이라는 여성이 있었다. 대만에서 태어난 그녀는 1957년 사비유학생으로 일본을 방문해 동대에서 천체물리학을 전공하는 학생·원생이 되었다. 그 후 일본인 남성과 결혼해 혼인신고도 제출했다. 재류자격변경과 영주허가신청을 신청했지만 일본 입관당국에 의해 거부된 채 곧 중화민국정부 발행 여권은 만료기한이 됐다.

비자도 끊겼다. 1970년, 그녀는 비자 갱신과 영주 허가를 다시 신청했다. 그녀는 일본 입관당국이 ‘불법체류자’의 강제송환을 반복하고 있는 것, 대만에서 일본 대학에 유학하던 여러 친구가 귀국 후 교우관계를 바탕으로 ‘대만독립분자’와 접촉한 혐의로 체포·고문당해 사형을 구형당하고 있다는 사실을 알고 있었다.

그래서 여권 갱신을 위해 필요한 동포의 연대보증인을 부탁하는 등은 누구에게도 할 수 없다고 생각한 것이었다. 법무성은 최종적으로 중화민국정부대사관에 '절연장'을 내면 무국적자로 재류를 허가하겠다고 했다.

그녀는 사상·신조의 입장에서 “중화민국을 거부하고 중화인민공화국을 자신의 나라로 선택한다”는 문서를 제출했다. 한층 더 약간의 우여곡절을 거치면서, 유채품은 3년간의 비자를 획득했다. 일본이 대만의 국민당 정부를 유일하게 정통한 중국 정부로 승인하고 베이징의 중화인민공화국과는 국교를 갖고 있지 않은 1970년의 이야기다. 유채품은 다음 1971년 초대되어 대륙 중국으로 건너갔다.

 당시 주로 친구의 일본인들에 의한 리채품 지원 운동이 널리 전개되었다. 리우는 비록 지원자에 대해서도 '억압민족의 일원으로서' 일본인의 입장성을 엄격히 묻는 사람이었다.

리우 지원 활동에 직접적으로 관여하지 않았던 나도 출입국 관리 법안 문제, 남베트남 정부를 비판한 재일 베트남 유학생의 재류 문제, 재일조선인의 국적 재기록 문제 등 아시아 민족과의 관계가 다양한 수준에서 묻고 있던 당시의 상황 속에서 유채품이 잇달아 내는 빌라의 문장을 긴장감으로 읽고 있었다는 것을 기억한다.

그것은 민족·식민지 문제가 제기하는 과제의 중요성에 아직도 무자각이었던 시기의 우리에게 역사 인식상의 큰 전기를 촉구하는 움직임 중 하나였다고 할 수 있다. 나는 류채품이 하는 국민당 정부 비판은 당연히 '모자와토 사상 만세!'라는 포착 방법에는 동의할 수 없었지만, 그것은 사상적·정치적 입장의 차이이며, 일본과 중국의 역사적 관계와 현상을 생각하면 일본 법무성과 입관에 대한 리우의 요구는 인정되어야 한다.

 그로부터 25년이 지난 1996년, 뜻밖의 일로 나는 리채품과 신문지상에서 「재회」했다. 중국에 가고 나서 그녀는 난징·자금산 천문대의 교수를 맡는 뒤 83년 이후 3기에 걸쳐 전국인민대표회의(전인대) 대만성 대표 13명 중 한 명이었다고 한다.

하지만 96년 3월에 열린 전인대에는 참석하지 않았다. 그 심경을 대요 다음과 같이 아사히 신문에 말했다(1996년 3월 22일자).

“대만 근해에서의 미사일 시사·실탄 사격 훈련은 명백한 군사 위협이며 반대이지만, 최근에는 전인대에서 이펑 총리 등에게 무엇을 말해도 듣지 못하고 무력감을 느낀다.

배경에는

공산당 지도부가 대만의 민심을 이해하지 못하고 천안문 사건의 무력 진압이 성공했다고 생각하는 것에 있다. 도 관여하고 있다고 생각한다. 대만의 사람들은 '무섭지 않다'고 하지만, 역시 무서운 것임에 틀림없다

. 내가 중국에 간 1971년 당시와는 이미지가 바뀌어 주은래 총리 등에 있던 원칙이 약해져 대국주의적인 경향이 강해지고 있다고 생각한다.

 리우는 당연히 쓰라린 마음을 담아 이러한 말을 발했음에 틀림없다. 한편에는 '대만성'을 포함한 중국 유린의 역사를 추적한 일본제국주의와 '그 노예가 되어 주구가 됐다' 국민당 정부를 비판하며 '중화인민공화국 만세!'라고 외치는 25년 전의 유채품이 있다.

다른 한편으로는 전인대 대표로 '출신성'인 대만의 민의에 무이해를 보이는 공산당 지도부에 대한 절망감과 대만 민중에 대한 깊은 생각을 토로하는 25년 후의 리우가 있다.

거기에는 또, 중국혁명의 「변질」의 과정 뿐만이 아니라, 대만을 「좋아하지 않는 정권의 통치하는 지역」으로서 관심의 대상으로부터 제외해 「기묘한 무관심」(모두 와카바야시 정문의 말)의 에어 포켓에서 있었던, <전후 좌익> 혹은 <진보파>로서의 우리의 25년간의 연습.

고바야시 요시노리의 '대만론'이라는 작품은 이 공백지대를 어떤 의미로 능숙하게 점령하고 있다. 역사에 대한 고바야시의 무지와 데마고기로 가득한 주관주의적인 해석과 상도 변함없는 부권주의적인 태도 등은 당연히 비판할 만하다. 비판해야 한다.

그것은 자명의 전제이다. 게다가 우리가 등반시해 온 문제 영역이 여기에서도 이러한 역사 위조파들에게 점거되고 있다는 사실에 우리는 통절에 자각적이어야 할 것이다.

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 <류채품(劉彩品) 인터뷰: 나는 "반일"이라고 말하길 주저하지 않는다>에 대한 요약과 평론

요약

이 글은 1970년 일본 입국관리국(입관) 투쟁의 주역이자 천문학자인 대만 출신 재일조선인/중국인 여성 류채품(劉彩品)과의 인터뷰를 담고 있다. 인터뷰는 그녀의 생애와 입관 투쟁, 중국(중화인민공화국)에서의 생활, 그리고 재일 중국인 근로자·위안부 문제 및 일본 사회에 대한 깊은 비판적 시각을 다룬다.

1. 성장 배경과 가족사

  • 류채품은 일제 강점기 대만 가의(嘉義)에서 태어났다. 증조부는 일본군에 저항하다 처형당했으며, 친척들 또한 일제에 저항하거나 수난을 겪었다.

  • 어린 시절 어머니와 밤하늘의 별을 보며 천문학에 대한 호기심을 키웠으며, 대만에서 일제의 식민 지배를 직·간접적으로 경험하며 성장했다.

2. 일본 유학과 1970년 입관 투쟁

  • 류채품은 일본 도쿄대학으로 유학을 와 천문학을 전공했다.

  • 1970년, 중화민국(대만) 국민당 정부의 대표성을 인정하지 않고 중화인민공화국을 지지하는 입장에서 국민당 정부가 발급한 여권의 연장 신청을 거부했다. 강제 송환 위기에 처했으나, 도쿄대 학생들과 지지자들의 도움으로 3년간의 체류 허가를 획득하는 입관 투쟁을 성공적으로 이끌어냈다.

  • 이 과정에서 그녀는 일본 사회의 외국인 차별 및 입관 체제의 폭력성을 폭로했고, 일본 지식인들과의 교류 속에서 자신의 모순과 한계를 직시하게 된다.

3. 중국행과 전국인민대표대회(전인대) 활동

  • 1971년, 중국으로 이주하여 오대산 천문대 등에서 천문학자로 근무했다.

  • 중국 국가 프로젝트를 수행하면서 뜻하지 않게 대만 동포 대표로서 전국인민대표대회(전인대) 위원으로 선출되었다. 문화대혁명과 반우파 투쟁 등 중국 현대사의 광풍 속에서 지식인들이 겪은 수난을 목격하고, 시스템 내부의 한계와 비판적 시각을 가졌으나 국가 발전에 기여하기 위해 노력했다.

4. 일본 귀환과 꽃강(花岡) 사건·소송 운동 지원

  • 1986년 다시 일본으로 돌아와 강제연행 노동자 피해자 및 중국인 피해자들의 권리 회복 운동(예: 꽃강 사건 화해 문제)을 지원했다.

  • 하지만 일본 측 지원 단체와 일본 법원이 보여준 '가짜 화해'와 진정성 없는 사과, 책임을 회피하는 태도에 깊은 실망을 느꼈다. 특히 피해 노인들에게 불리한 조건을 은폐한 채 성립된 화해 과정을 보며 일본 운동권과 지식인 사회의 위선을 비판했다.

5. 일본 사회와 역사 인식에 대한 비판

  • 류채품은 스스로를 "반일"이라 칭하는 데 주저함이 없다고 밝힌다. 그녀가 말하는 반일은 일본 민중 개인에 대한 혐오가 아니라, 과거의 침략 역사와 식민 지배 책임을 제대로 반성하지 않고 제국주의적·우익적 태도로 돌아가는 일본 국가 체제와 사회 구조에 대한 거부이다.

  • 야스쿠니 신사 참배 문제, 독도/센카쿠 열도(둥요우다오) 등 영토 분쟁, 연수생 제도를 통한 외국인 노동자 착취 등을 언급하며, 일본이 진정한 반성 없이 시혜적·지배적 태도를 유지하는 한 동아시아에서의 진정한 평화와 화해는 불가능하다고 강조한다.

평론

류채품의 인터뷰는 단순한 일대기나 운동사의 기록을 넘어, 20세기 동아시아의 격동하는 경계선 위에서 살아온 한 지식인의 솔직하고 서슬 푸른 일갈이다.

첫째, <경계인으로서의 삶과 주체성>이다. 대만 출신으로 일제 식민 지배를 경험하고, 일본 유학 중 입관 투쟁을 거쳐, 중화인민공화국 전인대 위원을 지낸 그녀의 이력은 어느 한 국가의 틀에 갇히지 않는다. 국가주의나 애국심이라는 명목으로 개인을 통제하려는 체제들에 대해 그녀는 끊임없이 거리두기를 시도하며 비판적 지성으로서의 주체성을 지킨다.

둘째, <일본 진보파와 지식인 사회의 위선에 대한 직설적 폭로>이다. 류채품의 비판은 일본 우익뿐만 아니라, 스스로를 '양심적 지원자'라 칭하는 일본 내 진보적 시민운동가들과 지식인들에게도 날카롭게 향한다. 꽃강 사건 화해 과정에서 일본인 운동가들이 보여준 시혜적 태도, 피해자의 목소리를 자신들의 도덕적 만족을 위해 이용하는 구조, 그리고 진정한 책임 규명 없는 타협을 근원적으로 비판한다.

셋째, <"반일"이라는 선언의 진정한 의미>이다. 그녀가 당당하게 외치는 "반일"은 감정적인 배타성이 아니다. 과거 제국주의 침략과 식민지 수탈의 역사적 책임을 '가해자의 논리'로 은폐하려는 일본 국가 체제 및 탈역사적 태도에 대한 철학적·정치적 거부 선언이다. 그녀의 발언은 수십 년이 지난 오늘날의 한일 관계 및 동아시아 과거사 청산 문제에도 여전히 유효한 질문을 던진다.

결론적으로 이 인터뷰는 국가라는 거대한 폭력 앞에 타협하지 않고, 자신만의 투쟁과 학문적 진정성을 지켜낸 한 여성 천문학자의 불꽃같은 삶을 보여주는 귀중한 역사적 증언이다








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