
激しく考え、やさしく語る 私の履歴書 (日本経済新聞出版)
by 山折哲雄 (Author) Format: Kindle Edition
3.9 3.9 out of 5 stars (10)
Book 1 of 1: 激しく考え、やさしく語る 私の履歴書
「生の終焉 軽くなる存在」「重荷の対極に涅槃の境地」――2018年3月に日経新聞朝刊に連載された「私の履歴書」の連載第1回の見出しは異彩を放った。多くの読者を獲得した『「ひとり」の哲学』の著者が来し方を振り返ると、その個人史は特に戦後、多くの日本人が失ってきたものを血肉化して次代につなぐ孤独な闘いであったことがわかる。
日本に「哲学」は存在しない、あるのは「思想」だけであり、源流は著者のライフワークでもある親鸞をはじめとする仏教者に淵源を求め、その思想は万葉の歌、そして縄文にさかのぼる。そこに辿り着くためには、マルクス主義への傾倒、ドストエフスキーへの耽溺、インドへの渇望、柳田國男への共感など様々な経緯を辿るが、故郷・花巻を故郷と思えない米国生まれの希有な生い立ちが「ひとり」の哲学に起因していることに行き着く。
と、第一部はある宗教学者の「私の履歴書」ではあるのだが、その来し方を「何ともうっとうしい重い荷物」と言い切るところが、よくある自伝とは趣きを異にする。その断章に近い第一部の一篇一篇が基づく思想を、日常的な言葉によって身近なものにするために、執筆後にロングインタビューを敢行、第二部として収録した。第一部・第二部双方が光となり影となって補い合うことで、著者の孤独な闘いで得てきたものが見える。特に戦後、いや近代化が始まった150年前から、日本人が失ってきたものなのだ。
人生百年時代と言い、多くの人が老いのその先を生きねばならなくなった。終活のみが盛んに叫ばれるが、それは突き詰めればお金の問題に過ぎず、生き方とは何の関係もない。生き恥を晒すか、晩節を汚すか、すべては覚悟の問題だ。日本人は古来、死後の世界のことを見据えて生きてきた。そのことに思いをはせることなく、よく生きることはできないのではないか。本書では、ひとりの個人史が時代への大きな問題提議となっている。
Book 1 of 1
激しく考え、やさしく語る 私の履歴書
Print length184 pages
From Japan
イエスちゃん
5.0 out of 5 stars
誠実な浄土真宗西本願寺派での迷走の軌跡:親鸞把握の致命的な欠陥
Reviewed in Japan on March 1, 2020
Format: Paperback Shinsho
誠実な浄土真宗西本願寺派の学究者として、今まで尊敬して来た。
正直な告白に対して、その学恩を感じている。
そして、
本書で、親鸞聖人の信仰の把握において、迷走の軌跡を知るに至った。
著者は、親鸞聖人の信仰の発展を、次々と否定する関係として「3段階」とする。
(1)漢文の主著『教行信証』の時代
(2)今様に対応する日本語の『和讃』の時代
(3)最後は『自然法爾の手紙』の時代
そして(4)『歎異抄』の「悪人正機」を理解できないと告白する。
更に、最晩年の『自然法爾の手紙』を弘法大師・空海と同じ教えとまで結論付けている。
これには、本当に仰天した。それも著者87歳の長年の結論である。
「最後まで迷走である軌跡を、何んとも、正直に告白したものだ」と感心した。
つまり、著者は、最後は、仏教ではなく「日本教」になってしまっていたのである。
著者は(2)『教行信証』の主題は、「信の巻」の「父親殺しは阿弥陀仏に救われるのか」であり、
(鎌倉時代の武士は、親子で、兄弟で、殺し合っていたので、現実の重大問題だった)
親鸞は、「救われる条件に2つ」を付けたと結論づける。
それは「懺悔」と「良き師につく事」の2つである。
更に、この結論から(4)「悪人正機」の「無条件の赦し」が理解できないとなってしまう。
更に、(1)を否定したのが(2)の『和讃』であると論理展開する。
しかし、私は違うと考える。
(1)も(2)も(4)も一貫していて、「懺悔」と「良き師につく」が「往生に重要である」と教えている。
初めに、(2)の『和讃』は三帖和讃『浄土和讃』、『高僧和讃』(良き師である)、『正像末和讃』である。
特に、「懴悔」においては、以下のように吐露されている。
・(94)浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし
・(95)外儀のすがたはひとごとに 賢善精進現ぜしむ 貪瞋邪偽おほきゆゑ 奸詐ももはし身にみてり
・(96)悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり 修善も雑毒なるゆゑに 虚仮の行とぞなづけたる
次に、(4)の「悪人正機」も「自己を「悪人と自覚し」ている(懴悔)人こそ、極楽往生の正機である。
「自己を善人として慢心している人」でさえ往生できるのだから。」という論理であるから。
この中で「最晩年の(3)」こそが決定的な転換であり、最重要である。
つまり、「ペルシャ起源の西方の浄土教」から「本来の仏教」に回帰したのである。
著者はここでも迷走して「現状の、そのままの状態でいい」と誤解しているが、それは「外道の教え」である。
そうではなく
「流れていくまま」を受容せよ!つまり「諸行無常」の「縁起の思想」である。
「自己の意思」で生きようとするな!そんな「自己」などはない。つまり「諸法無我」である。
要は、超能力者「阿弥陀如来」の虚構から脱して、本来の仏教に回帰したのである。
それに引き換え、
弘法大師・空海は、大日如来の超能力を信じており、それを引き出す呪術へと転落させた。
「インド密教」は、ヒンドゥー教の教えを大量に取り入れ、インドで自滅した。
仏教は、ヒンドゥー教に吸収されて、神々の一人となってしまった。
空海の真言密教も、土着信仰と融合して「日本教」になってしまった。
「神仏習合」(神と仏が合体する)、「本地垂迹」(元々の仏が、神の形で現れる)
だから、親鸞聖人が最晩年に「空海大師と同じ教え」などは、有り得ないことである。
日本人は、「仏教」が「無常」「無我」「無記」である事が理解できなかった。
著者の迷走もそこに原因がある。
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예수님
5.0 out of 5 stars
성실한 정토진종 니시혼간지파에서의 미주의 궤적: 친척 파악의 치명적인 결함
Reviewed in Japan on March 1, 2020
Format: Paperback Shinsho
성실한 정토진종 니시혼간지파의 학구자로서 지금까지 존경해왔다.
정직한 고백에 대해 그 학은을 느끼고 있다.
그리고
이 책에서 친진성인의 신앙 파악에 있어서 미주의 궤적을 알게 되었다.
저자는 친진성인의 신앙의 발전을 차례로 부정하는 관계로서 '3단계'로 한다.
(1)한문의 주저 『교행신증』의 시대
(2)이제
에 대응하는 일본어의 『화찬』의 시대 또한 최저년의 '자연법의 편지'를 홍법대사·공해와 같은 가르침까지 결론을 내리고 있다. 이것에는 정말로 앙천했다. 그것도 저자 87세의 오랜 결론이다. “마지막까지 미주인 궤적을 정말 솔직히 고백한 것이다”라고 감탄했다. 즉, 저자는, 마지막은, 불교가 아니라 「일본교」가 되어 버리고 있었던 것이다.
저자는 (2)『교행신증』의 주제는, 「신노마키」의 「아버지 살해는 아미타불에 구원받는 것인가」이며, (가마쿠라 시대의 사무라이는, 부모와 자식으로, 형제로, 서로 죽이고 있었으므로, 현실의 중대 문제였다) 그것은 '참회'와 '좋은사에게 붙는 일'의 두 가지이다.
또한, 이 결론으로부터 (4) 「악인 정기」의 「무조건의 용서」를 이해할 수 없게 되어 버린다. 또한, (1)을 부정한 것이 (2)의 「화찬」이라고 논리 전개한다.
그러나 나는 다르다고 생각한다. (1)도 (2)도 (4)도 일관되고 있고, 「참회」와 「좋은사에게 붙는다」가 「왕생에 중요하다」라고 가르치고 있다. 처음에, (2)의 『화찬』은 三帖和讃『정토 和讃』, 『高僧和讃』(좋은 선생님), 『정상말 和讃』이다. 특히, "회회"에서는 다음과 같이 토로된다.・(94) 정토 진종으로 돌아가지만 진실의 마음은 고맙고 허가부실의 우리 몸에서 청정의 마음도 더 없음 마음은 뱀파리와 같이 되어 수선도 잡독하는 유즈에 허가의 행과 어울리는 다음에, (4)의 「악인 정기」도 「자기를 「악인과 자각」하고 있는 (懴悔) 사람이야말로, 극악왕생의 정기이다. 「자기를 선인으로서 만심하고 있는 사람」조차 왕생할 수 있으니까. 라는 논리이기 때문에. 이 중 '최저년(3)'이야말로 결정적인 전환이며 가장 중요하다. 즉, 「페르시아 기원의 서방의 정토교」로부터 「본래의 불교」로 회귀한 것이다. 저자는 여기에서도 미주해 “현재의, 그대로의 상태로 좋다”라고 오해하고 있지만, 그것은 “외도의 가르침”이다. 그렇지 않고 "흐르는 대로"를 받아라! 즉 「제행 무상」의 「연기의 사상」이다. 「자기의 의사」로 살려고 하지마! 그런 '자기' 등은 없다. 즉 「제법무아」이다. 요점은 초능력자 ‘아미타 여래’의 허구에서 벗어나 본래 불교로 회귀한 것이다. 그러면서 홍법대사·공해는 대일 여래의 초능력을 믿고 있어 그것을 끌어내는 주술로 전락시켰다. '인도밀교'는 힌두교의 가르침을 대량으로 도입해 인도에서 자멸했다. 불교는 힌두교에 흡수되어 신들의 한 사람이 되어 버렸다. 공해의 진언밀교도 토착신앙과 융합해 '일본교'가 되어 버렸다. '신불습합'(신과 부처가 합체한다), '본지수상'(원래 부처가 하나님의 형태로 나타난다 . 일본인은 '불교'가 '무상' '무아' '무기'라는 것을 이해할 수 없었다. 저자의 미주도 거기에 원인이 있다.
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イエスちゃん
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