2026-08-14

壬午軍乱 - Wikipedia 일어한역

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壬午軍乱

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壬午軍乱
朝鮮反乱軍に襲撃される花房義質公使一行(楊洲周延錦絵
各種表記
ハングル임오군란
漢字壬午軍亂
発音イモグルラン
日本語読み:じんごぐんらん
ローマ字Imo gullan
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壬午軍乱(じんごぐんらん)または壬午事変(じんごじへん)は、1882年明治15年)、興宣大院君らの煽動を受けて、朝鮮の首府漢城(現在のソウル)で起こった閔氏政権および日本に対する大規模な朝鮮人兵士の反乱。

概略

朝鮮国王高宗の王妃閔妃を中心とする閔氏政権は、開国後、日本の支援のもと開化政策を進めたが、財政出費がかさんで旧軍兵士への俸給が滞ったことが反乱のきっかけとなった。すなわち、閔氏政権は近代的軍隊として「別技軍」を新設し、日本人教官を招致して教練を開始したが、これに反発をつのらせた旧式軍隊が俸給の遅配・不正支給もあって暴動を起こし、それに民衆も加わって閔氏一族の屋敷や官庁、日本公使館を襲撃し、朝鮮政府高官、日本人軍事顧問、日本公使館員らを殺害したものである[1]。朝鮮王宮にも乱入したが、閔妃は王宮を脱出した[1]。反乱軍は閔氏政権を倒し、興宣大院君を担ぎ出して大院君政権が再び復活した。

日本は軍艦4隻と千数百の兵士を派遣し、清国もまた朝鮮の宗主国として属領保護を名目に軍艦3隻と兵3,000人を派遣した[1]。反乱軍鎮圧に成功した清は、漢城府に清国兵を配置し、大院君を拉致して中国の天津に連行、その外交的優位のもとで朝鮮に圧力をかけ、閔氏政権を復活させた[1]。日本は乱後、清の馬建忠の斡旋の下、閔氏政権と交渉して済物浦条約を締結し、賠償金の支払い、公使館護衛のための日本陸軍駐留などを認めさせた。清国は朝鮮政府に外交顧問を送り、李鴻章を中心とする閣僚は朝鮮に袁世凱を派遣、袁が事実上の朝鮮国王代理として実権を掌握した[1]。こののち袁世凱は、3,000名の清国軍をひきつづき漢城に駐留させた[1]。この一連の動きの中で、中朝商民水陸貿易章程が締結された。この乱により、朝鮮は清国に対していっそう従属の度を強める一方、朝鮮における親日勢力は大きく後退した。

この乱の名称は干支の「壬午(みずのえうま)」に由来し、壬午の変(じんごのへん)、壬午事件(じんごじけん)などとも表記される。当時の日本では朝鮮国事変(ちょうせんこくじへん)、朝鮮事変(ちょうせんじへん)などとも称された。また、かつてはその首謀者の名を付し、大院君の乱(だいいんくんのらん)という表現もあった[2]

背景

特権階級である両班が寝転んでいるそばで農民たちが働いている(18世紀末葉の絵画)

李王朝下の朝鮮では、国王みずからが売官をおこない、支配階級たる両班による農民への苛斂誅求、不平等条約の特権に守られた日清両国商人による収奪などにより民衆生活が疲弊していた[3]。王宮の内部では、清国派、ロシア派、日本派などにわかれ、外国勢力と結びついた権力抗争が繰り広げられていた[3]。とくに、宮中では政治の実権をめぐって、国王高宗の実父である興宣大院君と高宗の妃である閔妃が激しく対立していた。

閔妃とされてきた写真

当時、朝鮮の国論は、清の冊封国属邦)としての立場の維持に重きをおいて事大交隣を主義とする守旧派(事大党)と朝鮮の近代化を目指す開化派に分かれていた[注釈 1]。このうち後者はさらに、国際政治の変化を直視し、外国からの侵略から身を守るには、すでに崩壊の危機に瀕している清朝間の宗属関係に依拠するよりは、むしろこれを打破して独立近代国家の形成をはからなければならないとする急進開化派(独立党)と、より穏健で中間派ともいうべき親清開化派に分かれていた[4]。親清開化派は、清朝宗属関係と列国の国際関係を対立的にとらえるのではなく、二者併存のもとで自身の近代化を進めようというもので、閔氏政権の立場はこれに近かった[4][5]。急進開化派は、朝鮮近代化のモデルとして日本に学び、日本の協力を得ながら自主独立の国を目指そうという立場であり、金玉均朴泳孝ら青年官僚がこれに属した[5]

開化政策への転換に対しては、守旧派のなかでも特に攘夷思想に傾斜した儒者たちのグループ(衛正斥邪派)が強く反発した[6]辛巳の年1881年には年初から中南部各道の衛正斥邪派の在地両班は漢城府に集まって金宏集(のちの金弘集)ら開化政策を進める閣僚の処罰と衛正斥邪策の実行を求める上疏運動を展開した(辛巳斥邪上疏運動)[6]。閔氏政権は、上疏の代表であった洪在鶴を死刑に処したほか、上疏運動の中心人物を流罪に処するなど、これを厳しく弾圧した[6]。衛正斥邪派は大院君をリーダーと仰ぎ、この年の夏には、安驥泳らが閔氏政権を倒したうえで大院君の庶長子(李載先)を国王に擁立しようというクーデター計画が発覚している[6][注釈 2]

清朝間の宗属関係についてであるが、厳密には古代以来の冊封-朝貢体制における「属邦」と近代国際法における「属国」とは性格を異にしている。しかし、朝貢国として琉球を失うなど国際的地位の低下に危機感をつのらせた清朝は、日本や欧米諸国が朝鮮を清の属国とは認めないことを通達した事実を受け、最後の朝貢国となりつつあった朝鮮を近代国際法下での「属国」として扱うべく行動した[4]。もともと宗属関係は藩属国の内治外交に干渉しない原則であったが、清国はこの原則を放棄して干渉強化に乗り出したのである[4]。これは、近代的な支配隷属関係にもとづく権力の再構成であり、宗属関係の変質を意味していた[4]

一方、富国強兵殖産興業スローガンに近代化を進める日本は、工業製品の販路として、また増え続ける国内人口を養う食糧供給基地として朝鮮半島を重視し、そのためには朝鮮が清国から政治的・経済的に独立していることが国益にかなっていた。

軍乱の発生

俸給米不正支給から暴動へ

国王の父、興宣大院君

日朝修好条規の締結により開国に踏み切った朝鮮政府は、開国5年目の1881年5月、大幅な軍政改革に着手した。閔妃一族が開化派の中心となって日本と同様の近代的な軍隊の創設を目指した。近代化に対しては一日の長がある日本から軍事顧問として堀本礼造陸軍工兵少尉を招き、その指導の下、旧軍とは別に新式装備をそなえる新編成の「別技軍」を組織して西洋式の訓練をおこなったり、青年を日本へ留学させたりと開化政策を推進した[5]。別技軍には、日本が献納した新式小銃はじめ武器弾薬は最新式のものが支給され、その隊員も両班の子弟が中心でさまざまな点で優遇されていた[7]。別技軍は、各軍営から80名の志願兵を選抜し、王直属の親衛隊である武衙営に所属させた[5]

これに対し、旧軍と呼ばれた従来からの軍卒二千数百名は、旧式の火縄銃があたえられているのみで、大半は小部隊に分けられ各州に配備されていた[5]。彼らはなんら新しい装備も訓練も与えられることなく、別技軍とは待遇が異なり、また、しばしば差別的に扱われることに不満をつのらせていた[7]。さらに、5営あった軍営が統廃合により2営(武衛営・壮禦営)となり、その多くがいずれは退役を余儀なくされていた[5]。それに加えて、当時朝鮮では財政難のため、当時は米で支払われていた軍隊への給料(俸給米)の支給が1年も遅れていた[5][7][8]1882年の夏は、朝鮮半島が大旱魃に見舞われ、穀物は不足し、政府の財源は枯渇していた[9]

1882年7月19日、ようやく13か月ぶりに武衛・壮禦の両営兵士に支払われることになった俸給米はひと月分にすぎなかった[5]。しかし、支給に当たった宣恵庁の庫直(倉庫係)が嵩増しした残りを着服しようとしたため、、腐敗米などが混ざっていた[5][6][8]。これに激怒した旧軍兵士は倉庫係を襲ってこれに暴行を加え、倉庫に監禁し、庁舎に投石した[5][6][8]。ところが、この知らせを受けた担当官僚(宣恵庁堂上)であった閔謙鎬は首謀の兵士たちを捕縛して投獄し、いずれ死刑に処することを決定した[5][6][8]。これに憤慨した各駐屯地の軍兵たちが救命運動に立ち上がったが、運動はしだいに過激化し、政権に不満をいだく貧民や浮浪者をも巻き込んでの大暴動へと発展していった[5]。民衆もまた、開港後の穀物価格の急騰に不満をつのらせていたのである[10]。かくして、7月23日(朝鮮暦6月9日)、壬午軍乱が勃発した[5]。これは、反乱に乗じて閔妃などの政敵を一掃し、政権を再び奪取しようとする前政権担当者で守旧派筆頭の興宣大院君の教唆煽動によるものであった[7][8][10]。反乱を起こした兵士等の不満の矛先は日本人にも向けられ、途中からは別技軍も暴動に加わった[5]

7月23日、兵士らは閔謙鎬邸を襲撃したのち、投獄中の兵士と衛正斥邪派の人びとを解放し、首都の治安維持に責任を負う京畿観察使の陣営と日本公使館を襲撃した[6]。このとき、別技軍の軍事教官であった堀本少尉が殺害されている[6]。翌7月24日、軍兵は下層民を加えて勢力を増し、官庁、閔妃一族の邸宅などを襲撃し、前領議政(総理大臣)の李最応も邸宅で殺害された[6]。さらに暴徒は王宮(昌徳宮)にも乱入し、軍乱のきっかけをつくった閔謙鎬、前宣恵庁堂上の金輔鉉、閔台鎬、閔昌植ら閔氏系の高級官僚数名を惨殺した[6]。このとき、閔妃は夫の高宗を置き去りにして王宮から脱出し、その日のうちに忠州方面へ逃亡した。王宮に難を逃れていた閔妃ので別技軍の教練所長だった閔泳翊は重傷を負った。

軍兵たちは23日夕刻までに王宮を占拠し、国王からの要請という形式を踏んで大院君を王宮に迎え、彼を再び政権の座につけた[5]

当時の様子を、朝鮮滞在のロシア帝国の官僚ダデシュカリアニは、以下のように書き記している[注釈 3]

朝鮮は一瞬のうちに、凄まじい殺戮の舞台と化した。父親たちが子供たちに武器を向けたのである。ソウルでは8日間、無差別の流血が止まらなかった。当初は叛徒らが勝利を収めた。進歩派、ならびに当時ソウルに在住した外国人の双方を同時に敵としなくて済むように、彼らは先ず後者に襲いかかった。…(後略)[11]

暴徒は漢城在住の日本人語学生、巡査らも殺害した[5]

軍乱による日本人犠牲者

襲撃された日本公使館
漢城(現、ソウル)の日本公使館。1900年頃の撮影
公使館脱出を描いた豊原周延の木版画

殺害された日本人のうち公使館員等で朝鮮人兇徒によって殺害された以下の日本人男性は、軍人であると否とにかかわらず、戦没者に準じて靖国神社に合祀されている[注釈 4]。合祀された人びとの氏名・年齢等は以下の通りである。

堀本礼造
陸軍工兵少尉(戦死により陸軍工兵中尉に昇進される)。
水島義
日本公使館雇員
鈴木金太郎
31歳。日本公使館雇員(事由 戦死:明治15年11月2日靖国神社合祀)
飯塚玉吉
27歳。日本公使館雇員(事由 戦死:明治15年11月2日靖国神社合祀)
廣戸昌克
33歳。一等巡査(事由 戦死:明治15年11月2日靖国神社合祀)
本田親友
22歳。三等巡査(事由 戦死:明治15年11月2日靖国神社合祀)
宮鋼太郎
18歳。外務省二等巡査(事由 弁理公使花房義質を護衛中 戦死:明治15年11月2日靖国神社合祀)
川上堅鞘
27歳。外務省二等巡査(事由 戦死:明治15年11月2日靖国神社合祀)
池田為義
28歳。外務省二等巡査(事由 戦死:明治15年11月2日靖国神社合祀)
遠矢庄八朗
外務省二等巡査(事由 戦死:明治15年11月2日靖国神社合祀)
近藤道堅
22歳。私費語学生(事由 袈裟かけに2箇所重傷を負い自刃す 戦死:明治15年11月1日靖国神社合祀)
黒澤盛信
28歳。私費語学生(戦死:明治15年11月2日靖国神社合祀 :扶助料千五百圓を賜う)
池田平之進
21歳。陸軍語学生徒(戦死:明治15年11月2日靖国神社合祀)
岡内格
23歳。陸軍語学生徒(戦死:明治15年11月6日靖国神社合祀)

靖国神社遊就館では、事変で殉職した英霊の顕彰が行われており、壬午事変時に日本公使館に掲げられていた日章旗が併せて展示されている。

日本公使館員の脱出

小舟で朝鮮を脱出した花房はじめ公使館員

漢城の日本公使館駐留武官だった水野大尉の報告などによると、暴徒に包囲された公使館員たちの脱出行は以下のとおりである[12]

朝鮮政府から旧軍反乱の連絡を受けた日本公使館は乱から逃れてくる在留日本人に保護を与えながら、自衛を呼びかける朝鮮政府に対して公使館の護衛を強く要請した。しかし混乱する朝鮮政府に公使館を護衛する余裕はなく、暴徒の襲撃を受けた日本公使館はやむを得ず自ら応戦することになった[12]。蜂起当日はなんとか自衛でしのいだ公使館員一行だったが、暴徒による放火によって避難を余儀なくされた。朝鮮政府が護衛の兵を差し向けてくる気配はなく、また公使館を囲む暴徒も数を増しつつあったので、弁理公使の花房義質は公使館の放棄を決断[12]。避難先を京畿観察使営と定め、花房公使以下28名は夜間に公使館を脱出した[12]

負傷者を出しながらも無事に京畿観察使の陣営に至ることに成功したが、陣営内はすでに暴徒によって占領されており、京畿観察使金輔鉉はすでに殺害されていた。公使館一行は次いで王宮へ向かおうとするが南大門は固く閉じられていて開かなかった[12]。王宮の守備隊長は彼らに退去を命じたという[9]

花房らはついに漢城脱出を決意し、漢江を渡って仁川府に保護を求めた。仁川府使は快く彼らを保護したが、夜半過ぎに公使一行の休憩所が襲撃され、一行のうち5名が殺害された[9][12]。襲撃した暴徒の中には仁川府の兵士も混ざっており、公使一行は仁川府を脱出、暴徒の追撃を受け多数の死傷者を出しながら済物浦から小舟(漁船)で脱出した[12]。その後、海上を漂流しているところをイギリスの測量船フライングフィッシュ号に保護され、7月29日長崎へと帰還することができた[12]

閔妃の脱出

王宮に乱入した暴徒は誰もがみな、閔妃は大院君の指図によって毒殺されたものと思っていた[9]。しかし、実際には閔妃は暴徒乱入の報に接するやすぐに用意をととのえ、それに対応していた。一人の侍女が閔妃のいる部屋で毒薬を飲んで自殺し、みずからは隠密裏に自室を脱出したのである[9]。下僕の一人が彼女を背にして怒り狂う暴徒の群れのなかをかき分け、途中、会う人ごとに詰問されたが、下僕は必ず「自分はとるに足らない下っ端であるが、この騒動から自分の妹を連れ出すところだ」と応答してこの災難をくぐりぬけた[9]。閔妃はこうして漢城市内の私邸に到着、そこから駕籠忠州忠清北道)付近の僻村へと逃亡、同地に隠れ住んだ[7][9]。なお、このとき閔妃を運んだ駕籠かきの一人が、水運びを生業とする貧しい庶民の出身で、のちに政治家として活躍する李容翊である[9]

大院君政権の復活

9年ぶりに政権の座についた興宣大院君は、復古的な政策を一挙に推進した(第2次大院君政権)[5]。統理機務衙門を廃し、3軍府の復活を復活して旧来の5軍営にもどしたほか、両営・別技軍を廃止した[5][6]。そして、閔氏とその係累を政権から追放する一方、閔氏政権によって流罪に処せられていた衛正斥邪派の人びとを赦免し、また監獄にあった者の身柄を解放して、みずからの腹心を要職に就けた[5][6]

日清両国の対応

日清両国はそれぞれ以下に詳述するように軍艦・兵士を派遣して軍乱に対応した。アメリカ合衆国もまた軍艦を派遣した[1]

日本側の対応

在朝日本公使館弁理公使だった花房義質
外務卿、井上馨

長崎に帰着した花房公使はただちに外務卿井上馨に事件発生を伝えた[7]。政府はさしあたって事実経過の調査、謝罪・賠償要求のため花房公使を全権委員に任命し、居留民保護のため軍艦を派遣することとし、井上外務卿が山口県下関へ出向いて指揮をとることとした[7]

一方、日本国内では朝鮮に対する即時報復説が台頭した[9]。国内各地から義勇兵志願者が殺到し、朝鮮におもむいて暴虐きわまりない「野蛮人ども」と戦うことを許可するよう強く求めた[9]。また、国民一般による署名嘆願運動には日本人のみならず外国人商人も少なからず参加した[9]

日本政府は、花房公使に朝鮮政府との交渉を命じ、

1.朝鮮政府の公式謝罪
2.被害者遺族への扶助料支給
3.犯人および責任者の処罰
4.損害賠償
5.朝鮮軍による公使館警備
6.朝鮮政府に重大責任あるばあいは巨済島または鬱陵島の割譲
7.朝鮮政府が誠意を示さないばあいは仁川を占領し後命を待つこと

などを訓令し[7]、軍艦と兵士を率いさせて朝鮮に派遣した[5]

やがて訓令には

8.咸興大邱、および漢城近郊楊花津(現在のソウル特別市麻浦区)の開市
9.外交使節の内地旅行権
10.通商条約上の権益拡大

が付け加えられた[7]。また、先遣隊として軍艦2隻と輸送船1隻を派遣し、近藤眞鋤書記官らと陸軍兵300名を輸送させた[7]

8月5日、駐日清国公使は日本政府に対し清国政府による派兵をともなう調停を伝えたが、外務卿代理の吉田清成は、再三、「自主ノ邦」たる朝鮮と日本の問題は条約にもとづいて解決すべきものとして介入を謝絶した[7]。それに対し、清国側は朝鮮は清の属国であるから介入は当然と主張した[7][注釈 5]

8月13日、公使花房全権は工部省汽船「明治丸」で済物浦に入港した[7]。先遣隊に後続を加えると、軍艦4隻、輸送船3隻、陸軍歩兵1個大隊の千数百名が仁川周辺に集結していた[5][6][7]陸軍の指揮官は高島鞆之助陸軍少将海軍を率いたのは仁礼景範海軍少将であった。

8月16日、仁川府に着いた花房公使は2個中隊を率いて軍乱で破壊されたままの漢城に入京し、昌徳宮に進路をとって王宮内で高宗に謁見、さらに大院君と会見した[5][7]。このとき、日本政府の要求7項目を記した冊子を領議政の洪純穆に手渡した[7]。朝鮮政府が即答を避けたため、回答期限を3日後としたが、日本の賠償金要求50万円は当時の朝鮮政府にはきわめて高額で工面が困難だったこともあって、領議政の急務を理由に回答の延期を通告してきた[5][7]。これは、大院君が日本の要求を突き返すよう政府に命じたともいわれている[5]

8月23日、花房全権は朝鮮側の約束違反を難詰したうえで護衛兵を率いて漢城を出発、仁川に引き上げて、そこで軍備をととのえた[5][7]。翌8月24日には仁川において馬建忠と会見している(詳細後述)。

清国側の対応

軍乱収拾のために酷暑のなかを精力的に活動した馬建忠

清国政府が軍乱発生の報を最初に受けたのは、8月1日東京在住の清国公使黎庶昌からの電報によってであった[5][7]李鴻章は生母死去の服喪中だったため、北洋大臣代理職にあった張樹声が、天津に滞在していた朝鮮官僚金允植魚允中に事件の経緯を伝え、両名に意見を尋ねた[5][7]。金と魚は閔氏政権の開化派官僚であった[5]。ふたりは、事件が国王高宗の開国政策に反対する守旧派勢力のクーデターであると推断したうえで、日本軍と反乱軍が衝突する怖れがあるとし、また、日本がこの機会に朝鮮進出をはかるだろうと訴えて、張に清国の派兵と日朝間の調停を要請した[5][6][7]

北洋水師提督、丁汝昌

張樹声はただちに北洋水師提督の丁汝昌に出動準備を命じ、上海滞在中の馬建忠を外交交渉役として呼び寄せた[5][7]8月7日、清国皇帝光緒帝によって「派兵して保護すべし」の命令が下った[7]。これは、藩属国たる朝鮮の保護のみならず、朝鮮で被害を受けた日本をも保護せよというものであった[7]

丁汝昌の率いる北洋艦隊の軍艦3隻(「威遠」「超勇」「揚威」)は、馬建忠と魚允中を乗せて山東省芝罘(現在の煙台市)を出港、8月10日には済物浦に入港した[5][7][6]。仁川入りした馬建忠は情報収集にあたるとともに日朝両国の要人と非公式に接触し、清国政府に対しては兵員の増派を上申した[7]。これにより、8月20日広東総督呉長慶が3,000名の兵を率い、3隻の軍艦に護衛されて済物浦の南方約40キロメートルの馬山浦(京畿道の南陽湾沿岸に所在。慶尚南道馬山とは異なる)に到着した[5][6][7]

馬建忠は漢城へ向かい、清国軍もその後から漢城に進駐して日本軍を圧倒する兵力を配置した[5][7]8月24日には朝鮮との戦争も辞せずの構えをとっていた仁川の花房全権公使をおとずれて意見交換をおこない、翌8月25日の再度の会見では花房から朝鮮全権との再協議に応ずるという確約を引き出した[5][7]。日本が清国の調停を受けたのは、それを拒否すれば清国軍との衝突も覚悟しなければならなかったためと考えられる[5]。また、このとき、ふたりの間で大院君排除の問題が話されたかどうかは不明であるが、開国政策を妨害する大院君を政権から取り除くべきという一点において、日清両国は共通の立場に立ちえたものと考えられる[7]

8月26日、漢城へ戻った馬建忠は丁汝昌・呉長慶と協議し、日朝再協議の実現のためには大院君を排除するしかないとの結論に達した[5]。彼らはその旨を、魚允中を通して高宗に伝えた[5]

軍乱の収束

大院君拉致事件

軍乱発生から約1か月経った1882年8月26日(朝鮮暦7月13日)、反乱鎮圧と日本公使護衛を名目に派遣された漢城駐留の清国軍によって大院君拉致事件が起こった[7]。大院君の排斥と国王の復権という基本方針は張樹声の指示によるものと考えられるが、大院君の軟禁は馬建忠・丁汝昌・呉長慶の3名によって計画されたものであった[7]。朝鮮王宮はじめ漢城の城門は清国兵によって固められ、清国軍はおびき出された大院君を捕捉して南陽湾から河北省天津へと連行した[7]。連行理由は、清国皇帝が冊封した朝鮮国王をしりぞけて政権をみずから奪取するのは国王を裏切り、皇帝を蔑ろにする所行であるというものである[7]。大院君が清国に捕捉された際、アメリカ政府は「朝鮮は清国の従属国家であり半島における何世紀にもわたる封建的国家としての支配は清国によって承認された」というコメントを発表した[13]

清国軍はまた、漢城府東部の往十里、南部の梨泰院を攻撃して反乱に参加した兵士や住民を殺傷した[6]。こうして、政権は国王高宗と忠州から戻った閔妃の一族に帰し、事変は終息した。

日朝の再協議と済物浦条約

済物浦条約(複写) 償金50万円について定めた第四款と軍員の駐留について定めた第五款

8月26日の大院君拉致事件ののち、高宗・閔氏の政権が復活し、済物浦の花房義質全権公使のもとへ朝鮮政府から謝罪文が送られた。これは清国の馬建忠の斡旋によるものであった[6]。花房はこれを受け入れ、日本軍艦金剛艦上での交渉再開を約束した。しかし、高宗・閔氏の政権は外交的には馬建忠に依存せざるをえなかった[4]8月28日夜、朝鮮全権大臣李裕元、副官金宏集らは済物浦に停泊中の金剛をおとずれ、交渉をはじめた[4]。交渉は、この日と翌日(29日)にかけて集中的におこなわれ、1882年8月30日(朝鮮暦7月17日)、6款より成る済物浦条約を調印した。このような短時間で交渉が成立したのは馬建忠が日朝双方に事前に根回しをしていたからである[4]。一方、この交渉の結果、日朝修好条規1876年締結)の追加条項としての同条規続約が調印された[4]

軍乱を起こした犯人・責任者の処罰、日本人官吏被害者の慰霊、被害遺族・負傷者への見舞金支給、朝鮮政府による公式謝罪、日本外交官の内地旅行権などについては、日本側原案がほぼ承認された[4]開港場遊歩地域の拡大(内地旅行権および内地通商権)に関しては、朝鮮側の希望を若干容れて修正された[4]。朝鮮側が最も反対していた50万円の賠償金と公使館警備のために朝鮮に軍隊一個大隊を駐留させる権利については、花房公使の強硬な姿勢により、文言の修正と但し書きの挿入程度にとどまり、基本的に日本側の要求が容認された[4][10][14][注釈 6]。全体的にみれば、日本側の要求がほぼ受け入れられた内容となった[4][10][注釈 7]

済物浦条約の締結に際して清国は、その文章について特に深く介入したわけではなかった[10]。むしろ、大院君を朝鮮王宮から連れ去ったことによって日本側に優位な交渉条件を準備したともいえる[10]。このとき清国は、ベトナムをめぐってフランスとの緊張が強いられていたので、日本と徹底して事を構えるつもりはなかった。日本もまた、外務卿井上馨の基本方針は対清協調、対朝親和というものであり、在野の知識人もまた日清朝の三国提携論が優勢であった[10]。花房公使は調印後の9月2日、井上外務卿あてに「大満足にまで条約を締結せり」と報告の電報を打電した。

なお、済物浦条約は批准を必要としなかったが、日朝修好条規続約の方は批准を要し、この年の10月30日明治天皇によって批准がなされている[4][注釈 8]

開国・開化方針の確認

1882年9月13日、清の幼帝光緒帝は大院君の河北省拘留と呉長慶麾下の将兵3,000名の漢城駐留の命を下した[4]。清国が軍事力を背景に宗主権の強化再編に乗り出したのである[4][15]。清にすがって国内を統治しようとする閔氏政権の親清政策もこれを助けたが、従来の宗属関係は藩属国の内治外交には干渉しない建前だったので、これは両国を近代的な宗属関係に変質させる意味合いをもっていた[4]

9月14日(朝鮮暦8月5日)、高宗は教書を下し、開国・開化を国是とすること、「東道西器」すなわち道徳は東洋の伝統を保持し「邪教」(キリスト教)を排斥するものの西洋の「器」(技術軍事制度)は学ぶべきことを明示し、国内の斥洋碑の撤去を命じた[15]。ただ、開化の方向性は明確になったものの、河北省天津訪問中の趙寧夏金宏集が改革案『善後六策』を李鴻章に示して、その意見を求めるなど、この開化策は清国に大きく依存したものとなった[15]

中朝商民水陸貿易章程の締結

1871年頃の李鴻章
1900年頃の袁世凱

1882年10月4日(朝鮮暦9月12日)、清国と朝鮮は天津において中朝商民水陸貿易章程を締結した。清国側は北洋大臣李鴻章のほか周馥と馬建忠が、朝鮮側は兵曹判書の趙寧夏と金宏集、魚允中がこれに署名した[4]。この章程は両国間で締結された近代的形式を踏んだ条約としては最初のものであった[4]。しかし、その内容は清の朝鮮に対する宗主権を明確にしたものであり、清による属国支配を実質化するものであった[4][14][16][17]

中朝商民水陸貿易章程は、両国が対等な立場で結んだ条約ではなく、清国皇帝が臣下である朝鮮国王に下賜する法令であるとされ、その前文において旧来の朝貢関係が不変であることを再確認し、この貿易章程が中国の属邦を特に「優待」するものであり、それぞれの国が等しく潤うものではないとされた[4][15][18]。言い換えれば、これは宗属関係に由来する独自の規定であり、他の諸外国は最恵国待遇をもってしても、この貿易章程上の利益にあずかることができないとされたのである[7][15]。清国は属国朝鮮に「恩恵」を施す存在であると明記されたが[18]、清にのみ領事裁判権が与えられ、原告中国人被告朝鮮人の場合には審理に清国商務委員がくわわることができるという不平等条項を含んでいた[4][15]。また、第一条では清国の北洋大臣が朝鮮国王と同格であることが明確に規定された[17]

貿易章程では、朝鮮人が北京倉庫業運送業問屋業店舗営業できる代わりに、清国人は漢城や楊花津で同様の店舗経営ができるものとした[4][15]。さらに、朝鮮内地で物資を仕入れ購入する権利もあたえられた[15]。これらは諸外国が朝鮮とむすんだ通商条約にはない規定であり、したがって貿易章程における「属邦優待」とは、清国が朝鮮貿易上の特権を排他的に独占し、清国の内治通商支配を基礎づけるものであった[4]。なお、のちに清国は1884年2月、同章程第4条を改訂して朝鮮の内地通商権をさらに広げている[17]

貿易章程の結ばれた1882年10月、天津滞在中の趙寧夏は軍乱後の政策について李鴻章の指導を仰ぎ、朝鮮政府が外交顧問として招聘すべき人材の推薦を依頼した[4]。李鴻章が推薦したのはドイツ人パウル・ゲオルク・フォン・メレンドルフ(穆麟徳、元天津・上海副領事)と馬建忠の兄馬建常(元神戸大阪領事)であった[4][19]。2人はこの年の12月に帰国した趙寧夏とともに漢城入りし、12月27日、高宗に謁見した[4][注釈 9]

また、朝鮮政府より軍隊養成と軍制改革を依頼された呉長慶は、当時頭角をあらわしつつあった若干23歳の野心家袁世凱に命じてこれを担当させた[4]。朝鮮に派遣された袁は朝鮮の軍事権を掌握し、1年半後には彼のもとで養成された2,000名の新式陸軍が誕生した[4]

こうして経済面のみならず、軍事外交の面でも清国は朝鮮への介入を強め、近代的な支配隷属関係への質的移行を示すようになった[4]

反乱軍の処罰

1882年10月、「大逆不道罪」によって、鄭顕徳・趙妥夏・許焜・張順吉らの官吏、また、白楽寛・金長孫・鄭義吉・姜命俊・洪千石・柳朴葛・許民同・尹尚龍・鄭双吉らの儒学者凌遅刑により処刑され、遺体は3日間晒された。また、その一族等も斬首刑に処せられた。

軍乱の影響

朝鮮

独立党のリーダーとして活躍した金玉均

軍乱の結果、閔氏政権は清国への傾斜を強めて事大主義的な姿勢を鮮明にし、清国庇護のもとでの開化政策という路線が定まった[14]。その結果、今まで攘夷主義と敵対してきた開化派が、清国重視のグループと日本との連携を強化しようとするグループに分裂した[14]。朝鮮を開国に踏み切らせた日本であったが、中朝商民水陸貿易章程によって空洞化され、朝鮮政府に対する影響力はその分減退した[19]。金宏集(金弘集)、金允植魚允中らは清国主導の近代化を支持し、閔氏政権との連携を強めた[19]。一方、済物浦条約の規定によって1882年10月に謝罪使として日本に派遣された朴泳孝特命全権大使、徐光範従事官、金玉均書記官らは、いずれも日本との結びつきを強めた[10]。彼らは12月まで日本に滞在し、福沢諭吉ら多くの日本の知識人と交誼を結んで海外事情や新知識を獲得していった[10]。また、大院君勢力の一掃によって、朝鮮で攘夷主義的な政策の復活は閉ざされたが、民衆レベルではむしろ東学の浸透など宗教性を帯びて深く根をおろしていった。

閔氏政権は清国の制度にならった政治改革をおこない、外交・通商を担当する統理交渉通商事務衙門と内政・軍務を担当する統理軍国事務衙門を設置した[19]。また、朝鮮は清国軍3,000名、日本軍200名弱の首都駐留という新しい事態を引き受けざるを得なくなったが、日本軍の規律は秩序立ったものであったのに対し、清国軍は漢城各所でしばしば掠奪・暴行をはたらき、市民に被害が生じたと記されている[19]

壬午軍乱当時、忠州にかくまわれていた閔妃は軍乱収束後王宮にもどったが、その際ひとりの巫女をともなっていた[19]。巫女は卑賎の出身であったが、閔妃の王宮帰還を予言するなどして閔妃の歓心を得て宮廷の賓客として遇されたものである[19]。閔妃はこの巫女を厚く崇敬して毎日2回の祭祀を欠かさず、一族や高官にもこれを勧めたため、やがてこれにかかる費用は莫大なものとなった[19]。また、各地の宗教者も集まって王宮を占拠するような状態となり、売官がまたもはびこって国内統治はいっそう混迷の度を深めた[19]

清国

清国は、中朝商民水陸貿易章程を結ぶなどして、親日派勢力を排除して朝鮮半島への干渉を強め、朝鮮に対する宗主国の権勢を取り戻して近代的な属国支配を強めた[20]。従来、朝鮮の内政には関与しなかったが、清国側とすれば台湾・琉球・朝鮮に対する日本の攻勢に対抗したものであり、日朝修好条規を空洞化させて朝鮮を勢力圏に取り込む姿勢を明らかにしたのである[14]。李鴻章は北洋大臣として朝鮮国王と同格の存在となり、朝鮮の内政・外交は李鴻章とその現地での代理人たる袁世凱の掌握するところとなった。大院君は李鴻章による査問会ののち天津に幽閉され、高宗は査問会において「朝鮮国王李㷩陳情表」を清国皇帝あてに提出して大院君赦免を陳情したが効なく、その幽閉は3年間続いた[注釈 10]

日本

日本公使館が襲撃された場面を描いた錦絵

日本では、軍乱を描いた多数の錦絵・小冊子が刊行され、同胞が暴徒によって殺害された衝撃はひろく国民にナショナリズムの反応を引き起こした[21]。日朝修好条規によって朝鮮を開国させた日本であったが、この軍乱では清国の機敏な動きに後れをとり、清国に対し軍事的に劣位にあることが痛感されたため、以後、山縣有朋らを中心に軍拡が強く唱えられることとなった[22][23]。1882年は近代日本における軍備拡張の起点といわれており、この年の11月24日明治天皇は宮中謁見所に地方長官を召集して軍備拡張と租税増徴の勅諭を述べた[22]。以後、大蔵卿松方正義による緊縮財政・デフレ政策にもかかわらず、あえて増税が進められ、1883年は前年比軍事費を大幅に増加させた[14][23][24][注釈 11]。増税については、政府は国民とくに民権派が動いて「騒然たる景況」となることを強く警戒したものの、民権派の大半は必ずしも軍拡に反対しなかった[14][23]

日清朝三国提携を模索する意見の多かった言論界でも変化がみられた。1882年12月7日時事新報』社説「東洋の政略果して如何せん」において福沢諭吉は「我東洋の政略は支那人の為に害しられたり」と述べ、清国は日本が主導すべき朝鮮の「文明化」を妨害する正面敵として論及されるようになった[20]。このような状況を打開すべく、福沢は金玉均ら独立党の勢力挽回に期待をかけたのである[20][注釈 12]

東アジア国際情勢

日朝間で結ばれた済物浦条約は、朝鮮をあくまでも属国として支配しようとする清国を牽制する意味合いもあり、朝鮮半島で対峙する日清両軍の軍事衝突をひとまず避けることはできたが、一方では朝鮮への影響力を確保したい日本と属国支配を強めたい清国との対立は、露朝密約事件巨文島事件といった露英対立などを背景としつつも、以後さまざまなかたちで継続し、やがて、甲申事変日清戦争へとつながっていった。

脚注

注釈

  1.  小島毅は、清・朝鮮の関係について、清を「朝鮮にとって親分」と形容している。小島(2011)p.44
  2.  安驥泳と李載先はこの年のうちに刑死しており、大院君派の勢力は大きく後退した。糟谷(2000)p.231
  3.  著者のダデシュカリアニはロシア帝国アムール州総督官房付で公爵。「朝鮮の現況」の初出は『アジア地理・地勢・統計資料集』(第22分冊、サンクトペテルブルク1886年刊)
  4.  陸軍省 公文録・明治十五年・第百八巻・明治十五年九月〜十一月 "故工兵中尉堀本礼造外二名并朝鮮国ニテ戦死巡査及公使館雇ノ者等靖国神社ヘ合祀ノ件"、 JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. A01100233700. 「同省朝鮮国日本公使館護衛隊ハ鎮守ニ等シキ勤労アルヲ以テ鎮戍ノ軍隊ニ准シ従軍年ニ加算セント請フ之ヲ允ス」
  5.  日本政府の法律顧問だったギュスターヴ・エミール・ボアソナードは、日本は朝鮮を独立国として認めたのだから日朝間交渉に清国を介入させるべきではないが、清国はみずからの論理で介入すること必至であるから、清国政府が照会する前に日本政府は朝鮮政府に要求を申し入れておく必要があると助言した。海野(1995)p.53
  6.  朝鮮側が日本案にあった「賠償」という文言に強く反発したため「補填」の文言に改めた(日本政府が決算した本事件の出兵経費は81万2620円43銭であった)。補填金50万円は、のちに朝鮮財政の困窮を理由に10万円×5年払いを5万円×10年払いとしたが完納されず、1884年に日本側が残額を寄贈するという形式をとって帳消しとなった。結局、領収額は10万円(寄贈額は40万円)ということになった。
  7.  民間人の内地旅行・通商権は当初開港場より20キロメートル以内であったが、2年後の1884年には40キロメートル以内に拡大された。糟谷(2000)p.232
  8.  批准書の交換は1882年10月31日、軍乱の謝罪特使として来日していた朝鮮国全権大使兼朴泳孝、副大臣金晩植と井上馨外務卿のあいだで取り交わされた。海野(1995)p.57
  9.  メレンドルフは、朝鮮国王が召見した最初のヨーロッパ人となった。海野(1995)p.58
  10.  高宗が提出した「朝鮮国王李㷩陳情表」の内容は以下の通り。
    皇帝陛下の臣下であります私の心は震えています。実父は悪くありません。罪はみな臣であります私にあります。天下に善政をされる人倫の聖なる極みの皇帝陛下に伏して願います。実父を許してくださるなら、小国の私たちは感激して皇恩を永遠に称えます。
  11.  軍事費の伸びは1882年-1883年が大きかったが、軍人の数は1884年-1885年の伸びが大きかった。後者は、甲申政変における日本の不首尾が契機となっている。佐々木(1992)p.303
  12.  ただし、全体的にみれば民権派の新聞は、この時点では比較的冷静で、朝鮮の攘夷主義者に対しても彼らは愛国者だから必ずや清国に対して抵抗するだろうと期待したり、清国との連携を深めてロシアに対抗すべきだという見解も多くみられた。牧原(2008)p.288

出典

参考文献

書籍

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論文

関連項目

外部リンク

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좋은 품질의 기사
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임오군란
조선반란군에 습격되는 꽃방의질공사 일행( 양주주연금화 )
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한글 :임오군란
한자 :임오군 亂
발음 :이모글루란
일본어 읽기:진고 군란
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임오군란 (진고군란) 또는 임오사변 (진고지헨)은 1882년 ( 메이지 15년) 흥선대원군 들의 선동을 받아 조선 의 수부 한성 (현재 서울 )에서 일어난 민씨 정권 및 일본 에 대한 대규모 조선인 병사 의 반란.

개요

조선 국왕 고종 의 왕비 민비를 중심으로 하는 민씨 정권은 개국 후 일본의 지원 아래 개화 정책을 추진했지만 재정 지출이 걸려 구군 병사 에게 봉급이 멈춘 것이 반란의 계기가 됐다. 즉, 민씨 정권은 근대적 군대로 ' 별기군 '을 신설하고 일본인 교관을 초청하여 교련을 시작했지만, 이에 반발을 일으킨 구식 군대가 봉급의 지배·부정 지급도 있어 폭동을 일으켜, 거기에 민중도 더해 민씨 일족의 저택이나 관청 , 일본 공사관을 습격해, 조선 정부 고관, 일본인 군사 고문 , 일본 공사관원 들을 살해한 것이다 [ 1 ] . 조선왕궁에도 난입했지만, 민비는 왕궁을 탈출했다 [ 1 ] . 반란군은 민씨 정권을 쓰러뜨리고 흥선대원군을 맡아 대원군 정권 이 다시 부활했다.

일본은 군함 4척과 천수백 병사를 파견했고, 청국 도 조선 종주국 으로 속령 보호를 명목으로 군함 3척과 병사 3,000명을 파견했다 [ 1 ] . 반란군 진압에 성공한 청은 한성부에 청국병을 배치하고 대원군을 납치 하고 중국 천진 에 연행, 그 외교적 우위 아래 조선에 압력을 가하고 민씨 정권을 부활시켰다 [ 1 ] . 일본은 난후, 청의 마건충 의 알선 아래, 민씨 정권과 협상해 제물포 조약 을 체결해, 배상금 의 지불, 공사관 호위를 위한 일본 육군 주둔 등을 인정시켰다. 청국은 조선정부에 외교고문을 보내고 이강장 을 중심으로 한 각료는 조선에 조세개를 파견했고, 조가 사실상 조선국왕대리로 실권을 장악했다 [ 1 ] . 이 후 袁世凱는 3,000명의 청국군을 계속해서 한성에 주둔시켰다 [ 1 ] . 이 일련의 움직임 속에서 중조 상민 수륙 무역 장정이 체결되었다. 이 난에 의해 조선은 청국에 대해 더욱 종속도를 강화하는 한편 조선의 친일세력은 크게 후퇴했다.

이 난의 명칭은 간지 의 「미즈노 에우마」에서 유래하고, 임오의 변 (진고의 헨), 임오 사건 (진고지켄) 등이라고도 표기된다. 당시 일본에서는 조선국사변 (조선코쿠지헨), 조선사변 (조선사변) 등으로도 불렸다. 또 한때는 그 주모자의 이름을 붙여 대원군의 난 (다요군군의 란)이라는 표현도 있었다 [ 2 ] .

배경

특권계급인 양반이 잠들고 있는 옆에서 농민들이 일하고 있다( 18세기 말엽의 회화)

이왕조하의 조선에서는 국왕 미즈카라가 매관을 이뤄 지배계급인 양반 에 의한 농민에 대한 가렴구, 불평등 조약 의 특권에 지켜진 닛신 양국 상인 에 의한 수탈 등에 의해 민중생활이 피폐하고 있었다 [ 3 ] . 왕궁 내부에서는 청국파, 러시아파, 일본파 등으로 나뉘어 외국 세력과 연관된 권력 항쟁이 벌어지고 있었다 [ 3 ] . 특히, 궁중에서는 정치의 실권을 둘러싸고, 국왕 고종 의 친부인 흥선대원군 과 고종의 비비인 민비 가 격렬하게 대립하고 있었다.

민비로 여겨진 사진

당시 조선의 국론은 청의 책봉국 ( 속방 )으로서의 입장유지에 중점을 두고 사대교인 을 주의로 하는 수구파( 사대당 )와 조선의 근대화를 목표로 하는 개화파 로 나뉘었다 [ 주석 1 ] . 이 중 후자는 더욱이 국제정치의 변화를 직시하고 외국으로부터의 침략으로부터 몸을 지키기 위해서는 이미 붕괴 위기에 처한 청조간 종속관계에 의거하기보다는 오히려 이를 타파하고 독립근대국가 형성 을 벗어나야 한다는 급진개화파(독립당)와 더 온건하고 중간파 ] . 친청개화파는 청조종속관계와 열국의 국제관계를 대립적으로 파악하는 것이 아니라 2자 병존하에 자신의 근대화를 진행하려 하는 것으로 민씨 정권의 입장은 이에 가까웠다 [ 4 ] [ 5 ] . 급진개화파는 조선근대화의 모델로서 일본에 배우고 일본의 협력을 얻으면서 자주독립국가를 목표로 한다는 입장이며, 김옥균 이나 박영효 등 청년관료가 이에 속했다 [ 5 ] .

개화정책으로의 전환에 대해서는 수구파 가운데서도 특히 추이 사상에 경사진 유자들의 그룹( 위정척사파 )이 강하게 반발했다 [ 6 ] . 신점 의 해 1881 년 에는 연초부터 중남부 각도의 위정척 사파의 재지 양반은 한성부에 모여 김연집 (나중의 김홍집) 등 개화 정책을 진행하는 각료 처벌 과 위정척 사책의 실행을 요구 하는 상사 운동을 전개했다 . 민씨 정권은 가미가의 대표 였던 홍재학을 사형 에 처한 것 외에 가미가운의 중심인물을 유죄 처하는 등 이를 엄격히 탄압 했다 . 위정척사파는 대원군을 리더라고 부르며, 이번 여름에는 안수영 등이 민씨 정권을 쓰러뜨린 뒤에 대원군 서장자(李載先)를 국왕에게 옹립하자는 쿠데타 계획이 발각되고 있다 [ 6 ] [ 주석 2 ] .

청조간의 종속관계에 대해서이지만, 엄밀하게는 고대 이래의 책봉-조공체제에 있어서의 「속방」과 근대국제법에 있어서의 「속국」과는 성격을 달리하고 있다. 그러나 조공국으로서 류큐 를 잃는 등 국제적 지위의 저하에 위기감을 불러일으킨 청조는 일본과 구미국가가 조선을 청속국으로는 인정하지 않는다는 사실을 받고, 마지막 조공국이 되고 있던 조선을 근대국제법 하에서 '속국'으로 취급하기 위해 행동 했다 . 원래 종속관계는 번속국의 내치외교에 간섭하지 않는 원칙이었지만, 청국은 이 원칙을 포기하고 간섭강화에 나섰던 것이다 [ 4 ] . 이것은 근대적인 지배예속관계에 기초한 권력의 재구성이며 종속관계의 변질을 의미하고 있었다 [ 4 ] .

한편, 부국강병 · 식산흥업슬로건 으로 근대화를 추진하는 일본은, 공업제품의 판로로서, 또 늘어나는 국내 인구를 기르는 식량 공급 기지로서 한반도 를 중시해, 이를 위해서는 조선이 청국으로부터 정치적·경제적으로 독립하고 있는 것이 국익에 이르고 있었다.

군란의 발생

봉급미 부정지급에서 폭동으로

국왕의 아버지, 흥선대원군

일조 수호조규 체결로 개국을 밟은 조선정부는 개국 5년차인 1881년 5월 대폭적인 군정개혁에 착수했다. 민비 일족이 개화파의 중심이 되어 일본과 같은 현대적인 군대의 창설을 목표로 했다. 근대화에 대해서는 하루의 장이 있는 일본으로부터 군사 고문으로서 호리모토 예조 육군 공병 소위를 초대해, 그 지도 아래, 구군과는 별개로 신식 장비를 갖추는 신편성의 「별기군 조직해 서양식의 훈련을 행하거나, 청년 을 일본에 유학시키라고 개화 정책을 추진 . 별기군에는, 일본이 헌납한 신식 소총 시작 무기 · 탄약 은 최신식의 것이 지급되어 그 대원도 양반 의 자제가 중심으로 다양한 점에서 우대되고 있었다 [ 7 ] . 별기군은 각 군영에서 80명의 지원병을 선발하여 왕직속의 친위대인 무관 영에 소속시켰다 [ 5 ] .

이에 대해, 구군이라고 불린 종래로부터의 군 졸 2천 수백명은, 구식의 화조총이 주어지고 있는 것만으로, 대부분은 소부대로 나뉘어 각주에 배치되고 있었다 [ 5 ] . 그들은 아무런 새로운 장비도 훈련도 주어지지 않고 별기군과는 대우가 다르고, 종종 차별적으로 다루어지는 것에 불만을 불러 일으켰다 [ 7 ] . 게다가 5영 있던 군영이 통폐합에 의해 2영(무위영·장요영)이 되어, 그 대부분이 어느 쪽은 퇴역을 강요당하고 있었다 [ 5 ] . 게다가, 당시 조선에서는 재정난 때문에, 당시는 쌀로 지불되고 있던 군대에의 급료(봉급미)의 지급이 1년도 늦었다 [ 5 ] [ 7 ] [ 8 ] . 1882년 의 여름은 한반도가 대만 에 휩쓸려 곡물 은 부족하고 정부의 재원은 고갈되고 있었다 [ 9 ] .

1882년 7월 19일 , 드디어 13개월 만에 무위 장장의 양영 병사에게 지급되게 된 봉급미는 한 달분에 불과했다 [ 5 ] . 그러나, 지급에 해당한 선혜청의 고직( 창고 계)이 부피가 커진 나머지를 착복하려고 했기 때문에, 모래 , 부패미 등이 섞여 있었다 [ 5 ] [ 6 ] [ 8 ] . 이에 격노한 구군 병사는 창고계를 덮치고 이것에 폭행을 가해 창고에 감금해, 청사에 투석했다 [ 5 ] [ 6 ] [ 8 ] . 그런데 이 소식을 받은 담당관료(선혜청당상)였던 민겸호는 수모의 병사들을 포박해 투옥하고, 어쨌든 사형에 처하기로 결정했다 [ 5 ] [ 6 ] [ 8 ] . 이에 분개한 각 주둔지의 군병들이 구명운동에 일어섰지만, 운동은 급격히 과격화하고, 정권에 불만을 느끼는 빈민과 부랑자도 말려들어 대폭동으로 발전해 갔다 [ 5 ] . 민중들도 개항 후 곡물가격의 급등에 불만을 불러일으켰던 것이다 [ 10 ] . 따라서, 7월 23일 (조선력 6월 9일), 임오군란이 발발했다 [ 5 ] . 이것은 반란을 곱하여 민비 등의 정적을 일소하고 정권을 다시 탈취하려고 하는 전 정권 담당자로 수구파필두의 흥선대원군의 교사 선동에 의한 것이었다 [ 7 ] [ 8 ] [ 10 ] . 반란을 일으킨 병사 등의 불만의 모순은 일본인에게도 향하고, 도중부터는 별기군도 폭동에 가담했다 [ 5 ] .

7월 23일 병사들은 민겸호저를 습격한 뒤 투옥중인 병사와 위정척사파의 사람들을 해방하고 수도의 치안 유지에 책임을 지는 경기관찰사의 진영과 일본 공사관을 습격했다 [ 6 ] . 이때 별기군의 군사교관이었던 호리모토 소위가 살해되고 있다 [ 6 ] . 다음 7월 24일 , 군병은 하층민을 더해 세력을 늘려, 관청, 민비 일족의 저택 등을 습격해, 전 영의정 (총리대신)의 이최응 도 저택에서 살해되었다 [ 6 ] . 게다가 폭도는 왕궁( 창덕궁 )에도 난입하여 군란의 계기를 만든 민겸호 , 전선혜청당 위의 김수현, 민다이 현 , 민창식 등 민씨계의 고급 관료 수명을 참살했다 [ 6 ] . 이때 민비는 남편 고종을 떠나 왕궁에서 탈출하고 그날 충주 방면으로 도망했다. 왕궁에 난을 피하고 있던 민비의 조카 로 별기군의 교련소장이었던 민영 翊은 중상을 입었다.

군병들은 23일 저녁까지 왕궁을 점거하고, 국왕으로부터의 요청이라는 형식을 밟아 대원군을 왕궁으로 맞이하고, 그를 다시 정권의 자리에 붙였다 [ 5 ] .

당시의 모습을, 조선 체재의 러시아 제국 의 관료 다데슈카리아니는, 이하와 같이 기입하고 있다 [ 주석 3 ] .

조선은 순식간에 굉장한 살육의 무대로 됐다. 아버지들이 아이들에게 무기를 돌린 것이다. 서울에서는 8일간 무차별 유혈이 멈추지 않았다. 당초는 숙도들이 승리를 거두었다. 진보파, 그리고 당시 서울에 거주한 외국인을 모두 적과 하지 않아도 되도록, 그들은 먼저 후자에게 습격당했다. …(후략) [ 11 ]

폭도는 한성 거주 일본인어 학생, 순사들 도 살해했다 [ 5 ] .

군란에 의한 일본인 희생자

습격당한 일본공사관
한성(현, 서울)의 일본 공사관. 1900년경 촬영
공사관 탈출을 그린 도요하라 주연 의 목판화

살해된 일본인 중 공사관원 등으로 조선인 兇徒에 의해 살해된 이하의 일본인 남성은 군인 이든 아니든 상관없이 전몰자에 준하여 야스쿠니 신사 에 합사되고 있다 [ 주석 4 ] . 합사된 사람들의 성명, 연령 등은 다음과 같다.

호리모토 레이조
육군 공병 소위 (전사에 의해 육군 공병 중위 로 승진된다).
미즈시마 요시
일본 공사관 고용
스즈키 긴타로
31세. 일본 공사관 고원(사유 전사:메이지 15년 11월 2일 야스쿠니 신사 합사)
이즈카 타마요시
27세. 일본 공사관 고원(사유 전사:메이지 15년 11월 2일 야스쿠니 신사 합사)
히로토 마사카츠
33세. 일등 순사 (사유 전사:메이지 15년 11월 2일 야스쿠니 신사 합사)
혼다 최고의 친구
22세. 삼등 순사(사유 전사:메이지 15년 11월 2일 야스쿠니 신사 합사)
미야스케 타로
18세. 외무성 2등 순사(사유 변리 공사 꽃방 의질을 호위중 전사:메이지 15년 11월 2일 야스쿠니 신사 합사)
가와카미 견초
27세. 외무성 2등 순사(사유 전사:메이지 15년 11월 2일 야스쿠니 신사 합사)
이케다 게이
28세. 외무성 2등 순사(사유 전사:메이지 15년 11월 2일 야스쿠니 신사 합사)
토야 쇼하치로
외무성 2등 순사(사유 전사:메이지 15년 11월 2일 야스쿠니 신사 합사)
콘도 미츠키
22세. 사비어 학생(사유 袈裟에 2개소 중상을 입고 자칼한다 전사:메이지 15년 11월 1일 야스쿠니 신사 합사)
쿠로사와 모리노부
28세. 사비어 학생(전사:메이지 15년 11월 2일 야스쿠니 신사 합사 :부조료 천오백원을 받는다)
이케다 히라노진
21세. 육군어 학생(전사:메이지 15년 11월 2일 야스쿠니 신사 합사)
오카우치격
23세. 육군어 학생(전사:메이지 15년 11월 6일 야스쿠니 신사 합사)

야스쿠니 신사 유취관 에서는, 사변으로 순직한 영령의 현창이 행해지고 있어, 임오 사변시에 일본 공사관에 내걸려 있던 일장기 가 함께 전시되고 있다.

일본 공사관원 탈출

소주로 조선을 탈출한 꽃방 시작 공사관원

한성의 일본공사관 주둔무관이었던 미즈노대위의 보고 등에 따르면 폭도에 포위된 공사관원들의 탈출행은 다음과 같다 [ 12 ] .

조선정부로부터 구군 반란의 연락을 받은 일본 공사관은 난에서 벗어나는 재류 일본인에게 보호를 주면서 자위를 부르는 조선 정부에 대해 공사관의 호위를 강력히 요청했다. 그러나 혼란하는 조선 정부에 공사관을 호위할 여유는 없고, 폭도의 습격을 받은 일본 공사관은 부득이 스스로 응전하게 되었다 [ 12 ] . 봉기 ​​당일은 어떻게든 자위로 견디는 공사관원 일행이었지만, 폭도에 의한 방화에 의해 피난을 강요당했다. 조선 정부가 호위의 병사를 보내는 기색은 없고, 또 공사관을 둘러싸는 폭도도 수를 늘려가고 있었으므로, 변리공사의 꽃방 의질 은 공사관의 포기를 결정 [ 12 ] . 피난처를 경기관찰사영으로 정하고, 꽃방공사 이하 28명은 야간에 공사관을 탈출했다 [ 12 ] .

부상자를 내면서도 무사히 경기관찰사의 진영에 이르는 데 성공했지만, 진영내는 이미 폭도에 의해 점령되고 있어 경기관찰사 금수현은 이미 살해되고 있었다. 공사관 일행은 이어 왕궁으로 가려고 했지만 남대문 은 단단히 닫혀서 열리지 않았다 [ 12 ] . 왕궁의 수비대장은 그들에게 퇴거를 명령했다고 한다 [ 9 ] .

하나보들은 마침내 한성 탈출을 결의하고 한강 을 건너 인천부 에 보호를 요구했다. 인천부사는 즐겁게 그들을 보호했지만, 밤반 지나 공사 일행의 휴게소가 습격되어 일행 중 5명이 살해되었다 [ 9 ] [ 12 ] . 습격한 폭도 중에는 인천부의 병사도 섞여 있었고, 공사 일행은 인천부를 탈출, 폭도의 추격을 받아 다수의 사상자를 내면서 제물포 에서 소배( 어선 )로 탈출했다 [ 12 ] . 그 후, 해상을 표류하고 있는 곳을 영국 의 측량선 플라잉 피쉬호에 보호되어 7월 29일 , 나가사키 로 귀환할 수 있었다 [ 12 ] .

민비의 탈출

왕궁에 난입한 폭도는 모두가 모두, 민비는 대원군의 지시에 의해 독살된 것이라고 생각하고 있었다 [ 9 ] . 그러나 실제로는 민비는 폭도 난입의 보에 접하자마자 준비를 했다고 해도 거기에 대응하고 있었다. 한 명의 사무라이 가 민비가 있는 방에서 독약 을 마시고 자살했고, 보통은 은밀리에 자실을 탈출한 것이다 [ 9 ] . 하하의 한사람이 그녀를 뒤로 하고 분노 미치는 폭도의 무리 속을 구분하고, 도중에 만나는 사람마다 막문당했지만, 하나는 반드시 “자신은 취할 수 없는 하단이지만, 이 소동으로부터 자신의 여동생을 데리고 나오는 곳이다”라고 응답해 이 재난을 빠져나갔다 [ 9 ] . 민비는 이렇게 한성 시내의 사저에 도착했고, 거기에서 갓장 으로 충주 ( 충청북도 ) 부근의 갈촌으로 도망, 동지에 숨어 살았다 [ 7 ] [ 9 ] . 덧붙여 이때 민비를 운반한 가마카카의 한사람이, 수송을 생업으로 하는 가난한 서민의 출신으로, 나중에 정치가로서 활약하는 이용준 이다 [ 9 ] .

대원군 정권의 부활

9년 만에 정권의 자리에 붙은 흥선대원군은 복고적인 정책을 일거에 추진했다(제2차 대원군 정권) [ 5 ] . 통리기무 학문을 폐지하고 3군부의 부활을 부활하여 옛 5군영으로 돌아갔고, 양영·별기군을 폐지했다 [ 5 ] [ 6 ] . 그리고 민씨와 그 계누를 정권으로부터 추방하는 한편, 민씨 정권에 의해 유죄에 처해져 있던 위정척사파의 사람들을 용면하고, 또 감옥 에 있던 자의 신념을 해방해, 모두로부터의 복심을 요직에 취할 수 있었다 [ 5 ] [ 6 ] .

닛신 양국의 대응

닛신 양국은 각각 아래에 자세히 설명하는 대로 군함 ·병사를 파견해 군란에 대응했다. 미국 도 군함을 파견했다 [ 1 ] .

일본 측 대응

재조일본공사관 변리공사였던 꽃방의질
외무경, 이노우에 루

나가사키에 귀착한 하나보 공사는 즉시 외무경 이노우에 루 에게 사건 발생을 전했다 [ 7 ] . 정부는 다시 사실경과의 조사, 사과·배상 요구를 위해 화방공사를 전권위원으로 임명하고, 거류민 보호를 위해 군함을 파견하는 것으로 하고, 이노우에 외무경이 야마구치현 시모노세키 로 향해 지휘를 취하기로 했다 [ 7 ] .

한편, 일본 국내에서는 조선에 대한 즉각 보복설이 대두했다 [ 9 ] . 국내 각지에서 의용병 지원자가 쇄도하여 조선에 재밌고 폭력 어리석은 '야만인들'과 싸울 수 있도록 강하게 요구했다 [ 9 ] . 또, 국민일반에 의한 서명탄원운동에는 일본인뿐만 아니라 외국인 상인도 적지 않고 참가했다 [ 9 ] .

일본 정부는 하나보 공사에 조선 정부와의 협상을 명령하고,

1. 조선 정부의 공식 사과
2. 피해자 유족에 대한 부조료 지급
3. 범인 및 책임자의 처벌
4. 손해배상
5. 조선군에 의한 공사관 경비
6. 조선정부에 중대 책임 있는 경우는 거제도 또는 울릉도 의 할양
7. 조선정부가 성의를 나타내지 않으면 인천을 점령하고 후명을 기다리는 것

등을 훈령하고 [ 7 ] , 군함과 병사를 이끌어 조선에 파견했다 [ 5 ] .

이윽고 훈련에

8. 함흥 , 대구 및 한성근교 양화진(현재 서울특별시 마포구 ) 개시
9. 외교사절의 내지 여행권
10.통상조약상의 권익확대

가 덧붙였다 [ 7 ] . 또한 선견대로서 군함 2척과 수송선 1척을 파견하여 콘도 현장 서기관들과 육군병 300명을 수송시켰다 [ 7 ] .

8월 5일 주일 청국공사는 일본 정부에 청국정부에 의한 파병을 수반하는 중재 를 전했으나 외무경대리인 요시다 키요나리 는 재삼, ‘자주노방’인 조선과 일본의 문제는 조약에 따라 해결해야 할 것으로 개입을 사절했다 [ 7 ] . 그에 대해 청국 측은 조선은 청의 속국이기 때문에 개입은 당연히 주장했다 [ 7 ] [ 주석 5 ] .

8월 13일 공사화방전권은 공부 기선 ' 메이지 마루 ' 로 제물포에 입항했다 . 선견대에 후속을 더하면 군함 4척, 수송선 3척, 육군 보병 1개 대대의 천수백명이 인천 주변에 집결하고 있었다 [ 5 ] [ 6 ] [ 7 ] . 육군 의 지휘관은 다카시마 토모유키 육군 소장 , 해군 을 이끈 것은 인례 경범 해군 소장 이었다.

8월 16일 인천부에 도착한 화방공사는 2개 중대를 이끌고 군란으로 파괴된 채 한성에 입경하고 창덕궁으로 진로를 잡고 왕궁 내에서 고종에게 속견, 한층 더 대원군과 회견했다 [ 5 ] [ 7 ] . 이 때 일본 정부의 요구 7항목을 적은 책자를 영의정의 홍순호에게 건네주었다 [ 7 ] . 조선정부가 즉답을 피했기 때문에 회답기한을 3일 뒤로 했으나 일본 배상금 요구 50만엔은 당시 조선정부에는 매우 고액으로 공면이 곤란했던 것도 있어 영의정의 급무를 이유로 회답 연기를 통고해 왔다 [ 5 ] [ 7 ] . 이것은 대원군이 일본의 요구를 되돌릴 것을 정부에 명령했다고도 한다 [ 5 ] .

8월 23일 , 꽃방 전권은 조선 측의 약속 위반을 난막한 뒤 호위병을 이끌고 한성을 출발, 인천으로 끌어올려 거기서 군비를 따랐다 [ 5 ] [ 7 ] . 다음 8월 24일 에는 인천에서 마건충 과 회견하고 있다(상세후술).

청국측의 대응

군난수습을 위해 혹독한 속에서 정력적으로 활동한 마건충

청국정부가 군란발생의 보를 최초로 받은 것은 8월 1일 , 도쿄 거주 청국공사 여서창의 전보의해서였다 [ 5 ] [ 7 ] . 이강장은 생모 사망의 복상 중이었기 때문에 북양대신 대리직에 있던 장수 성 이 천진 에 머물고 있던 조선관료 김도식어루중에 사건의 경위를 전해 양명에게 의견을 물었다 [ 5 ] [ 7 ] . 금과 물고기는 민씨 정권의 개화파 관료였다 [ 5 ] . 두 사람은 사건이 국왕 고종의 개국 정책에 반대하는 수구파 세력의 쿠데타 라고 추단한 데다 일본군과 반란군이 충돌할 우려가 있다고 하며 또 일본이 이 기회 조선 진출 을 도모할 것이라고 호소하며 장에 청국 의 파병 일조 간의 조정요청 .

북양수사 제독, 정 여창

장수성은 즉시 북양수사 제독의 정창창 에 출동준비를 명령하고 상하이 체재 중 마건충 을 외교협상역으로 불러냈다 [ 5 ] [ 7 ] . 8월 7일 , 청국황제 광서제 에 의해 '파병하고 보호사태'의 명령이 내려졌다 [ 7 ] . 이는 번속국인 조선의 보호뿐만 아니라 조선에서 피해를 입은 일본을 보호하라는 것이었다 [ 7 ] .

정여창이 이끄는 북양함대 의 군함 3척(' 위원 ', '초용', '양위')은 마건충과 어안을 태워 산동성 시바쿠 ( 현재 연대시 ) 출항, 8월 10일 에는 제물포 에 입항했다 . [ 5 ] [ 7 ] 인천 들어간 마건충은 정보수집에 해당하는 것과 함께 일조 양국의 요인과 비공식적으로 접촉해 청국정부에 대해서는 병원의 증파를 상신 했다 . 이에 따라 8월 20일 광동총독장경 3,000명의 병사를 이끌고 3척의 군함에 호위되어 제물포 남쪽 약 40킬로미터의 마산포( 경기도 남양만 연안소재 . 경상남도 마산 다르다 )도착 했다 .

마건충은 한성으로 향해 청국군도 그 후부터 한성에 진주해 일본군을 압도하는 병력을 배치했다 [ 5 ] [ 7 ] . 8월 24일 에는 조선과의 전쟁도 그만두지 않은 자세를 취하고 있던 인천의 꽃방 전권 공사를 어긋나 의견교환을 하고, 다음 8월 25일 다시 회견에서는 꽃방에서 조선전권과의 재협의에 응한다는 확약을 이끌었다 [ 5 ] [ 7 ] . 일본이 청국의 중재를 받은 것은 그것을 거부하면 청국군과의 충돌도 각오해야 했기 때문이라고 생각된다 [ 5 ] . 또 이때 두 사람 사이에서 대원군 배제의 문제가 얘기되었는지 여부는 불분명하지만 개국 정책을 방해하는 대원군을 정권에서 없애야 한다는 점에서 닛신 양국은 공통의 입장에 설 수 있다고 생각된다 [ 7 ] .

8월 26일 한성으로 돌아온 마건충은 정 여창·오장경과 협의하고, 일조 재협의 실현을 위해서는 대원군을 배제할 수밖에 없다는 결론에 이르렀다 [ 5 ] . 그들은 그 취지를 어부를 통해 고종에게 전했다 [ 5 ] .

군란의 수렴

대원군 납치사건

군란 발생으로부터 약 1개월이 지난 1882년 8월 26일 (조선력 7월 13일), 반란진압과 일본 공사 호위를 명목으로 파견한 한성 주둔 청국군에 의해 대원군 납치사건이 일어났다 [ 7 ] . 대원군의 배척과 국왕의 복권이라는 기본방침은 장수성의 지시에 의한 것으로 생각되지만, 대원군의 연금은 마건충, 정 여창, 우장경의 3명에 의해 계획된 것이었다 [ 7 ] . 조선왕궁 처음으로 한성의 성문은 청국병에 의해 굳어졌고, 청국군은 뛰어오른 대원군을 포착하여 남양만에서 하북성 천진 으로 연행했다 [ 7 ] . 연행 이유는 청국황제가 책봉 한 조선국왕을 들여다보며 정권을 보지 않고 탈취하는 것은 국왕을 배신하고 황제를 멸시하는 소행이라는 것이다 [ 7 ] . 대원군이 청국에 포착되었을 때 미국 정부 는 “조선은 청국의 종속국가 이며 반도에서 수세기에 걸친 봉건적 국가 로서의 지배는 청국에 의해 승인됐다”는 코멘트를 발표했다 [ 13 ] .

청국군은 또한 한성부 동부의 왕십리, 남부의 이태원 을 공격하고 반란에 참가한 병사와 주민을 살상했다 [ 6 ] . 이렇게 정권은 국왕 고종과 충주에서 돌아온 민비의 일족으로 돌아가 사변은 종식했다.

일조 재협의와 제물포조약

제물포조약(복사) 상금 50만엔에 대해 정한 제4관과 군원의 주류에 대해 정한 제5관

8월 26일 대원군 납치사건 이후 고종 민씨의 정권이 부활하고 제물포의 꽃방 의질전권공사 아래 조선정부로부터 사과문을 보냈다. 이것은 청국의 마건충의 알선에 의한 것이었다 [ 6 ] . 하나보는 이를 받아들여 일본군함 금강 함상에서의 협상 재개를 약속했다. 그러나 고종 민씨의 정권은 외교적으로 말건충에 의존할 수밖에 없었다 [ 4 ] . 8월 28일 밤 조선전권대신 이유원, 부관 김宏집 들은 제물포에 정박중인 금강을 어긋나 협상을 시작했다 [ 4 ] . 협상은 이날과 다음날(29일)에 걸쳐 집중적으로 이루어져 1882년 8월 30일 (조선력 7월 17일) 6관으로 구성된 제물포 조약 을 조인했다. 이와 같은 단시간에 협상이 성립된 것은 마건충이 일조 쌍방에 사전에 근회를 하고 있었기 때문이다 [ 4 ] . 한편, 이 협상의 결과, 일조 수호 조규 ( 1876년 체결)의 추가 조항으로서의 동조 규속약이 조인되었다 [ 4 ] .

군란을 일으킨 범인·책임자의 처벌, 일본인 관우 피해자의 위령 , 피해 유족·부상자에게의 견무금 지급, 조선정부에 의한 공식 사과, 일본 외교관의 내지 여행권 등에 대해서는 일본 측 원안이 거의 승인되었다 [ 4 ] . 개항장 산책지역의 확대(내지여행권 및 내지 통상권 )에 ​​관해서는 조선측의 희망을 약간 용납해 수정되었다 [ 4 ] . 조선측이 가장 반대하고 있던 50만엔의 배상금 과 공사관 경비를 위해 조선에 군대 1개 대대를 주둔시킬 권리 에 대해서는 화방공사의 강경한 자세 문언의 수정 과 단서 삽입 정도에 그치고 기본적으로 일본측 의 요구 용인되었다 [ 4 ] [ 10 ] . 전체적으로 보면 일본측의 요구가 거의 받아들여진 내용이 되었다 [ 4 ] [ 10 ] [ 주석7 ] .

제물포조약의 체결에 있어서 청국은 그 문장에 대해 특히 깊이 개입한 것은 아니었다 [ 10 ] . 오히려 대원군을 조선왕궁에서 끌어들여 일본측에 우위한 협상조건을 준비했다고 할 수 있다 [ 10 ] . 이때 청국은 베트남을 둘러싸고 프랑스 와의 긴장이 강해지고 있었기 때문에 일본과 철저히 일을 할 생각은 없었다. 일본 역시 외무경 이노우에 루 의 기본 방침은 대청 협조, 대조 친화라는 것이었고, 재야의 지식인도 닛신 아침의 삼국 제휴론이 우세했다 [ 10 ] . 하나보 공사는 조인 후인 9월 2일 , 이노우에 외무경에게 “대만족까지 조약을 체결하겠다”고 보고의 전보 를 타전했다.

덧붙여 제물포조약은 비준 을 필요로 하지 않았지만, 일조 수호조 규약약은 비준을 요하고, 이 해의 10월 30일 , 메이지 천황 에 의해 비준이 이루어지고 있다 [ 4 ] [ 주석 8 ] .

개국·개화 방침의 확인

1882년 9월 13일 , 청의 유제 광서제 는 대원군의 허베이 성 구류와 오장 경수 하의 장병 3,000명의 한성 주둔의 생명을 내렸다 [ 4 ] . 청국이 군사력을 배경으로 종주권 강화 재편에 나선 것이다 [ 4 ] [ 15 ] . 청나라에 따라 국내를 통치하려 하는 민씨 정권의 친청 정책도 이를 도왔지만 기존 종속관계는 번속국 내치외교에는 간섭하지 않는 건전이었기 때문에 이는 양국을 근대적인 종속관계로 변질시키는 의미를 가지고 있었다 [ 4 ] .

9월 14일 (조선력 8월 5일), 고종 은 교서를 내리고, 개국·개화를 국시로 하는 것, 「동도서기」즉 도덕은 동양의 전통을 유지해 「사교」( 기독교 )를 배척하는 것의 서양의 「그릇」( 기술 , 군사 , 제도 ) 는 배워야 한다는 것을 명시 , ] . 다만, 개화의 방향성은 명확해졌지만, 허베이성 천진 방문 중 조녕여름 · 김연집 이 개혁안 『선고육책』을 이강장에 나타내고, 그 의견을 구하는 등, 이 개화책은 청국에 크게 의존한 것이 되었다 [ 15 ] .

중조상민수륙무역장정 체결

1871년경 이장장
1900년경의 袁世凱

1882년 10월 4일 (조선력 9월 12일), 청국과 조선은 천진에서 중조상민수륙무역장정 을 체결했다. 청국측은 북양 대신 이홍장 외에 주상 과 마건충이, 조선측은 병조판서의 조녕여름과 김연집, 어안중이 이에 서명했다 [ 4 ] . 이 장정은 양국간에 체결된 근대적 형식을 밟은 조약 으로서는 최초의 것이었다 [ 4 ] . 그러나 그 내용은 청나라의 조선에 대한 종주권 을 명확히 한 것이며, 청에 의한 속국 지배를 실질화하는 것이었다 [ 4 ] [ 14 ] [ 16 ] [ 17 ] .

중조상민수륙무역장정은 양국이 대등한 입장에서 맺은 조약 이 아니라 청국 황제 가 신하인 조선국왕 에 하사하는 법령 이라고 하며, 그 전문에서 구래의 조공 관계가 불변임을 재확인하고 이 무역장정이 중국의 속방 특히 '우대 ' 하는 것이고 , [ 15 ] [ 18 ] . 즉, 이것은 종속관계에 유래하는 독자적인 규정이며, 다른 외국은 최혜국 대우를 가지고 있어도, 이 무역장정상의 이익에 맞출 수 없다고 여겨진 것이다 [ 7 ] [ 15 ] . 청국은 속국조선에 '혜택'을 주는 존재라고 명기되었지만 [ 18 ] , 청나라에만 영사재판권이 주어졌고, 원고중국인 이고 피고조선인 인 경우에는 심리에 청국상무위원이 교제할 수 있다는 불평등조항을 포함하고 있었다 [ 4 ] [ 15 ] . 또한 제1조에서는 청국의 북양대신이 조선국왕과 동격임이 명확하게 규정되었다 [ 17 ] .

무역장정에서는 조선인이 베이징 에서 창고업 · 운송업 · 문옥업점포 영업할 수 있는 대신 청국인은 한성이나 양화진에서 같은 점포 경영을 할 수 있는 것으로 했다 [ 4 ] [ 15 ] . 게다가 조선 내지에서 물자를 구매하고 구입할 권리도 주어졌다 [ 15 ] . 이들은 여러 외국이 조선과 흩어진 통상조약에는 없는 규정이며, 따라서 무역장정에 있어서의 「속방우대」란 청국이 조선무역상의 특권을 배타적으로 독점하여 청국의 내치통상지배를 기초로 하는 것이었다 [ 4 ] . 덧붙여 나중에 청국은 1884년 2월 , 동장정 제4조를 개정해 조선의 내지통상권을 더욱 넓히고 있다 [ 17 ] .

무역장정이 맺어진 1882년 10월 천진체류 중인 조녕여름은 군난 후 정책에 대해 이강장의 지도를 듣고 조선정부가 외교고문으로 초빙해야 할 인재의 추천 의뢰 했다 . 이강장이 추천한 것은 독일인파울 게오르크 폰 멜렌도르프 (穆麟徳, 전천진· 상해 부영사)와 마건충의 형마 건상 (전 고베 · 오사카 영사)이었다 [ 4 ] [ 19 ] . 두 사람은 이 해 12월에 귀국한 조녕여름과 함께 한성 들어가고, 12월 27일 고종에게 속견했다 [ 4 ] [ 주석 9 ] .

또 조선정부보다 군대양성과 군제개혁을 의뢰받은 우장경은 당시 두각을 드러내고 있던 약간 23세의 야심가초세 개선 명령하여 이를 담당하게 했다 [ 4 ] . 조선에 파견된 고기는 조선의 군사권 을 장악하고, 1년 반 후에는 그의 밑에서 양성된 2,000명의 신식 육군이 탄생했다 [ 4 ] .

이렇게 경제면 뿐만 아니라 군사 · 외교 면에서도 청국은 조선에의 개입을 강하게 하여 현대적인 지배예속관계로의 질적 이행을 나타내게 되었다 [ 4 ] .

반란군의 처벌

1882년 10월, 「대역 부도죄」에 의해 정현덕・조타여름・허焜・張順吉ら의 관우, 또 백악관・김장손・정의 길·강명순·홍천석·야나기 박갈이·허민동·윤상룡·정쌍길 등의 유학자능지형 에 의해 처형되었고 시신은 3일간 노출되었다. 또 그 일족 등도 참수형 에 처해졌다.

군란의 영향

조선

독립당의 리더로 활약한 금옥균

군란의 결과, 민씨 정권은 청국에의 경사를 강하게 하여 사대주의적인 자세를 선명하게 해, 청국 비호 아래에서의 개화 정책이라는 노선이 정해졌다 [ 14 ] . 그 결과, 지금까지 감이주의와 적대해 온 개화파가 청국 중시의 그룹과 일본과의 제휴를 강화하려는 그룹으로 분열했다 [ 14 ] . 조선을 개국으로 밟은 일본이었지만, 중조 상민수륙무역장정에 의해 공동화되어 조선정부에 대한 영향력은 그만큼 감퇴했다 [ 19 ] . 김연집(金弘集), 김정식 , 어안 중 등은 청국 주도의 근대화를 지지하고, 민씨 정권과의 제휴를 강화했다 [ 19 ] . 한편 제물포조약의 규정에 따라 1882년 10월 사죄사로 일본에 파견된 박영효 특명전권대사, 서광범 종사관, 김옥균 서기관들은 모두 일본과의 연계를 강화했다 [ 10 ] . 이들은 12월까지 일본에 머물며 후쿠자와 유키치 등 많은 일본 의 지식인과 교예 맺어 해외 사정과 신지식을 획득해 나갔다 . 또 대원군 세력의 일소에 의해 조선에서 추이주의적인 정책의 부활은 폐쇄되었으나 민중 차원에서는 오히려 동학 의 침투 등 종교성을 띤 깊게 뿌리를 내렸다.

민씨 정권은 청국의 제도가 된 정치개혁을 거쳐 외교·통상을 담당하는 통리교섭통상사무 학문과 내정·군무를 담당하는 통리군국사무 담문 설치 했다 . 또 조선은 청국군 3,000명, 일본군 200명 미만의 수도 주둔이라는 새로운 사태를 맡을 수밖에 없었지만, 일본군의 규율은 질서 세운 것이었지만, 청국군은 한성 각처에서 자주 탈취 · 폭행일으켜 시민에게 피해가 생겼다고 한다 .

임오군 난당시 충주에 걸려 있던 민비는 군란수속 후 왕궁으로 돌아갔지만, 그때 한 명의 무녀 를 앓고 있었다 [ 19 ] . 무녀는 비호의 출신이었지만, 민비의 왕궁 귀환을 예언하는 등 민비의 환심을 얻어 궁정의 빈객으로 접한 것이다 [ 19 ] . 민비는 이 무녀를 두껍게 숭배하고 매일 2회의 제사 를 빠뜨리지 않고, 일족이나 고관에게도 이것을 권유했기 때문에, 이윽고 이것에 드는 비용은 막대한 것이 되었다 [ 19 ] . 또 각지의 종교자도 모여 왕궁을 점거하는 상태가 되었고, 매관이 다시 한번 벌어지고 국내 통치는 한층 더 혼미의 정도를 깊게 했다 [ 19 ] .

청국

청국은 중조 상민수륙무역장정 을 맺는 등 친일파 세력을 배제하고 한반도에 대한 간섭을 강화하고 조선에 대한 종주국의 권세를 되찾아 현대적인 속국 지배를 강화했다 [ 20 ] . 종래 조선의 내정에는 관여하지 않았지만, 청국측으로 하면 대만 ·류큐·조선에 대한 일본의 공세에 대항한 것이고, 일조 수호 조규를 공동화시켜 조선을 세력권에 도입하는 자세를 밝힌 것이다 [ 14 ] . 이홍장은 북양대신으로서 조선국왕과 동격의 존재가 되었고, 조선의 내정·외교는 이강장과 그 현지에서의 대리인인 조세연의 장악하는 곳이 되었다. 대원군은 이홍장에 의한 사문회 이후 천진에 유폐되었고 고종은 사문회에서 '조선국왕 이중진정표'를 청국황제에 제출하고 대원군 사면을 진정했지만 효과가 없었고 그 유폐는 3년간 계속되었다 [ 주석 10 ] .

일본

일본 공사관이 습격당한 장면을 그린 금화

일본에서는 군란을 그린 다수의 금화 ·소책자가 간행되어 동포가 폭도에 의해 살해된 충격은 히로쿠 국민에게 내셔널리즘 의 반응을 일으켰다 [ 21 ] . 일조 수호조규에 의해 조선을 개국시킨 일본이었지만, 이 군란에서는 청국의 기민한 움직임에 뒤쳐져 청국에 대해 군사적으로 열위에 있는 것이 통감되었기 때문에, 이후, 야마 시나 유토 등 을 중심으로 군확이 강하게 주창하게 되었다 [ 22 ] [ 23 ] . 1882년은 근대 일본에 있어서의 군비 확장의 기점으로 알려져 있으며, 이 해 11월 24일 , 메이지 천황 은 미야나카 아키미쇼에 지방 장관을 소집해 군비 확장과 조세 증징의 칙사 를 말했다 [ 22 ] . 이후 대장경 송방정의 에 의한 긴축재정· 디플레이션 정책에도 불구하고 굳이 증세가 진행되어 1883년 은 전년 대비 군사비 를 대폭 증가시켰다 [ 14 ] [ 23 ] [ 24 ] [ 주석11 ] . 증세에 대해서는 정부는 국민 특히 민권파가 움직여 '소란한 경황'이 되는 것을 강하게 경계했지만, 민권파의 대부분은 반드시 군확에 반대하지 않았다 [ 14 ] [ 23 ] .

닛신조 삼국 제휴를 모색하는 의견이 많았던 언론계에서도 변화가 보였다. 1882년 12월 7일 '시사 신보 ' 사설 '동양의 정략 과연 어쩔 수 없다'에서 후쿠자와 유키치는 '가동양의 정략은 지나인을 위해 해를 받거나'라고 말하고, 청국은 일본이 주도해야 할 조선의 '문명화' 를 방해하는 면적 으로 논해지게 되었다 . 이런 상황을 타개하기 위해 후쿠자와는 금옥 균일 독립당의 세력 만회에 기대를 걸었다 [ 20 ] [ 주석 12 ] .

동아시아 국제정세

일조간에 묶인 제물포조약은 조선을 어디까지나 속국으로 지배하려는 청국을 견제하는 의미도 있어 한반도에서 대치하는 닛신 양군의 군사 충돌을 일단 피할 수 있었지만, 한편으로는 조선에의 영향력 를 확보하고 싶은 일본과 속국 지배를 강화하고 싶은 청국과의 대립은 노조 밀약 사건 이나 거문도 사건 과 같은 노영 대립 등을 배경으로 하면서도 이후 다양한 형태로 계속되어 갑자기 갑신 사변닛신 전쟁 으로 이어졌다.

각주

주석

  1.  코지마 히로시 는 청·조선의 관계에 대해 청을 “조선에 있어서 친분 ”이라고 형용하고 있다. 코지마 (2011) p.44
  2.  안수영과 이재처는 올해 형사하고 있어 대원군파의 세력은 크게 후퇴했다. 협곡 (2000) p.231
  3.  저자의 다데슈칼리아니는 러시아 제국 아무르 주 총독 관방으로 공작 . 「조선의 현황」의 초출은 「아시아 지리・지세・통계 자료집」(제22분책, 상트페테르부르크 , 1886 년간 )
  4.  육군성 공문록·메이지 15년·제108권·메이지 15년 9월~11월 “고공병 중위호리 혼례 조외 2명 만 조선국 니테 전사 순사급 공사관 고노자 등 야스쿠니 신사 헤 합사 노건”, JACAR(아시아 역사 자료 센터) 003003 "동성 조선국 일본 공사관 호위대 하진수 니 등 시키 근로 아르ㅲ이 태 진노 군대 니준종종군년 니 가산 세인트 후노오 ㅲ스"
  5.  일본 정부의 법률 고문이었던 규스타브 에밀 보아 소나드는 일본은 조선을 독립국 으로 인정했기 때문에 북일 협상에 청국을 개입시켜서는 안 되지만, 청국은 모두 논리로 개입하는 것이 필연적이기 때문에 청국 정부가 조회하기 전에 일본 정부는 조선 정부에 요구를 신청하고 카미노 (1995) p.53
  6.  조선측이 일본안에 있던 '배상'이라는 문언에 강하게 반발했기 때문에 '보전'의 문언으로 바꿨다(일본 정부가 결산한 본 사건의 출병 경비는 81만2620엔 43전이었다). 보전금 50만엔은 나중에 조선재정의 곤궁을 이유로 10만엔×5년 지불을 5만엔×10년 지불로 했지만 완납되지 않고, 1884년 일본 측이 잔액을 기증한다는 형식을 취해 장소되었다. 결국 영수액은 10만엔(기증액은 40만엔)이 됐다.
  7.  민간인의 내지여행·통상권은 당초 개항장보다 20㎞ 이내였지만, 2년 후인 1884년에는 40㎞ 이내로 확대됐다. 협곡 (2000) p.232
  8.  비준서 교환은 1882년 10월 31일 군란 사과 특사로 일본을 방문했던 조선국 전권대사 겸 박영효, 부대신 김만식 과 이노우에 요시 외무경 사이에서 주고받았다. 카미노 (1995) p.57
  9.  멜렌도르프는 조선 국왕이 소견한 최초의 유럽인이 되었다. 카미노 (1995) p.58
  10.  고종이 제출한 '조선국왕 이태진정표'의 내용은 다음과 같다.
    황제 폐하의 신하입니다 내 마음은 떨고 있습니다. 친아버지는 나쁘지 않습니다. 죄는 모두 신이야, 나에게 있다. 천하에 선정을 받는 인륜의 거룩한 극한의 황제 폐하에 덮어주세요. 친아버지를 용서해 주시면, 소국의 우리는 감격하고 황은을 영원히 기리겠습니다.
  11.  군사비의 성장은 1882년-1883년이 컸지만, 군인의 수는 1884년-1885년의 성장이 컸다. 후자는 갑신정변에 있어서의 일본의 부수미가 계기가 되고 있다. 사사키 (1992) p.303
  12.  다만 전체적으로 보면 민권파 신문은 이 시점에서는 비교적 냉정했고 조선의 추이주의자에 대해서도 이들은 애국자라서 반드시 청국에 저항할 것이라고 기대하거나 청국과의 연계를 깊게 하고 러시아에 대항해야 한다는 견해도 많았다. 마키하라 (2008) p.288

출처

참고문헌

보호기간 만료에 대해 국회도서관 디지털 라이브러리 에서 전문을 열람할 수 있다.

논문

관련 항목

외부 링크

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